第3話

文字数 4,770文字

 悪魔のような調教師との通話を終えたばかりの呆けた頭で、改めて辺りを見渡してみると、事務室と呼ぶにはあまりにリアルな生活臭が染みついた空間である事に気が付いた。
 事務机代わりに使われているらしい、いかにも一般家庭に置いてありそうなダイニングテーブルの上にはノートパソコンが一台置かれており、その周りには領収書の類がまとめられた赤裸々な文書が散らばっている。他に飲みかけのコーヒー牛乳のパックや食べかけのチョコレートなども無造作に放り出されており、目を滑らせると、机の端に置かれたブックエンドにはエクセルや簿記の入門書に混じって高校の教科書なんかも並んでいるから、ちせはここを自室のように使っているのかも知れない。
 初対面の相手の生活空間に足を踏み入れてしまったようで非常に気まずい。
 とにかく無難な物を眺めて時間を潰すことに決め、部屋の隅に鎮座していたガラスケースに視線を移した。
 見られて恥ずかしい食器棚などそうありはしないだろうという発想だったが、よくよく見ると中には過去の生産馬のものらしいトロフィーが並べられていた。考えてみればここは一般家庭のリビングではなく牧場の事務室なのだから食器棚ではなくトロフィーケースが自然である。ともかく、これ幸いとちせを待つ間眺めていることにした。
 飾られているトロフィーの多くは他のオーナの冠号の馬名が記されていたが、一番古びた物にカムイの冠号が付いていた。エトの血統表で見た、エトの母の母父、人間でいう所の曽祖父の名だ。
 カンナカムイ号
 エトに乗っていた頃に気になって調べた範囲では、大きな重賞を勝ったとか歴史的な名馬とかではない。重賞勝ちは二つあるがどちらもローカルで最終的には三十八戦して七勝という種牡馬としては物足りない成績だ。
 何より致命的だったのは血統がサラ系だった事だろう。父系を遡ればダイオライトなのだからダーレーアラビアンに繋がるが、母系を辿って行くと十代程前に一頭出自不明の馬がいる。
 サラ系の表記自体はエトの祖母の代から消えているが、そうした背景があるだけに、カンナカムイを種牡馬として付けていたのも調べられた範囲ではこの牧場だけだ。必然主な産駒はトライアル重賞を一つ勝ったエトの祖母くらいのものだし、その牝系を継いだのもエトの母親だけだから、この牧場が消えれば競馬の歴史から完全に消失する名だ。
 そんな事を今更に思い返していると、自殺未遂をやらかす前に記者から投げつけられた言葉が自然と浮かんできた。
――ご自分が消した血統の価値を本当に理解しているんですか?
 俺を怒らせてコメントを取りたかったのだろう。その記者はどこぞの研究員が檻の中のモルモットに向けるような、ひどく冷めた視線で俺を観察していた。
「笑えねえ話だな」
 正確には、そのサド記者が取り上げようとしていたのはエトの父系についてなのだろうが、母系についても貴重な種であった事は間違いない。
 エトが生きていれば、その血は繋がれたはずだった。あれだけの実績を出したのだから、いかに祖にサラ系を持つとは言え、間違いなく有力な繁殖牝馬に恵まれるはずだったのだ。
 しかし、可能性は俺によって断たれた。
 握り締めた拳で指先が軋む音に気が付くと、ガラスケースの前に立っていることが怖くなり、距離を取る為に席に戻ろうとした、その時だった。
 机の上に置かれていたパソコンのマウスが何かに引っかかったらしい、反応して画面が点灯し、牧場の帳簿らしいエクセルのシートが映し出された。
 エトの賞金はかなりのものが入ってきたはずだが、目に入ってしまった数字はあまりに心もとない。
 綺麗に清算する事を考えれば、ここが潮時なのだろう。
 この牧場に、もう次は無い。
「――お待たせしました」
 そう言いながら部屋に入って来たちせは、パソコンの画面が表示されている事に気付くなりエロ本を隠す時の高校生みたいな勢いですっ飛んで来て電源を落とした。
「エロサイトでも見てたの?」
 こういう反応をしてあげる辺り俺って優しいなあ、なんて思う。
「違います!」
 芋娘は耳まで真っ赤にして否定した。茹で芋。
「冗談だよ……改めてになるけど、大越凛太朗、騎手だ」
 仕切り直すようにわざとらしく姿勢を正して自己紹介すると、
「茂尻ちせです、一応この牧場の代表をやっています」
「親御さんじゃないの?」
「父と母は事故で死んじゃったので、祖父と二人暮らしだったんです」
 大抵の地雷というものは踏み抜いてからヤバいと気が付く物であって、やっぱりこの時の俺も、フォローのしようが無いほど見事に、超ド級の地雷を踏みぬいてからその当たり前の事実に気が付いた。
 冷静に考えれば、十八歳の少女が一人で牧場をやってるなんてまず普通じゃ有り得ない話なのだ。
 ちせはもう慣れてしまったように、
「気にしないでくださいって言っても、気になりますよね」
そう言って、困った風に笑ってみせている。
「座ってください、コーヒー入れますから」
 芋娘のたくましさに感謝しながら、情けない俺は大人しくコーヒーを待つ事にした。

「何からお話しましょうかね」
 どうぞとコーヒーを出しながら、その手慣れた所作は既に大人だった。机に置く時にもカップの音が立たないのである。俺やテキが厩舎で客に出す時とは大違いな、いかにも社会人らしい接遇だった。
「大体は先生から聞いたけど、君はそれで良いの?」
「あの子に乗れる人が来てくれるならそれで良いんです。本職の騎手さんってお話を聞いた時は驚きましたけど、でも、大越さんにとっても悪くないと臼田先生が仰っていたのでお願いしました」
 あのクソジジイはそんな殊勝な考えしてないと言ってやりたかったがここはグッと堪える。
「そうじゃなくてさ、主戦のこと」
「というと?」
「アイツなら、エトの続きを見られると思うんだ」
「ええ、私もそう思います」
「本当に俺で良いのか?」
――カムイエトゥピリカが潰れたのは臼田厩舎のハードトレーニングと大越の強引な騎乗スタイルが原因だ。
 少なくとも、世間の競馬ファンはそう語る。そんな事オーナーブリーダーであれば当然承知しているだろうし、エトの全弟ならば騎手を探すような真似をせずとも、それこそ一流のジョッキーであっても、乗せてくれと自分から頭を下げに来るだろう。
「もしテキが怖くて俺を乗せようとしてるなら、俺からテキに言っても良いよ」
 あのイカレおポンチ野郎がそんな風に俺を可愛がるはずもないのだが、一応言っておく。
「乗りたくないんですか?」
「アレに乗りたくないなんて騎手はいないさ……でも、俺はもうエトみたいな思いをしたく無いんだ。本当に良い馬だから、俺が乗ってパンクさせるような真似したくないんだよ」
 勝てば剛腕と持ち上げられ、負ければ強引と叩かれる。そんな世界である事は当然知っていたし覚悟もあったが、エトの件は俺自身が本当に堪えている。本気で馬を追う事が、今は怖いのだ。
「手伝いが必要なら、テキが言うように暫くは療養だし、ここを閉めるまでは手伝うよ。アイツの調教も必要なら乗る。ただ、主戦については――」
「――エトがそう言ったんです」
 俺の言葉に割り込むように、ちせはそう言った。
――は?
 言葉の意味を理解出来ずに固まっていると、ちせはもう一度言った。
「貴方は最高の騎手だと、エトがそう言っていたんです」
――何言ってんだコイツ、馬が喋る訳ないだろ。
「あの子にも大越凛太朗を乗せて欲しいって。決めたのは私じゃない、エトの遺言なんです」
――コイツはヤベえや、ただの芋かと思ったらイカれた芋だ。
 真顔で、純朴な瞳をキラキラさせながら、俺に語り掛けてくる。馬の遺言を語っているのでなければちょっと馬っ気出ちゃうような感じなんだけど、如何せんそんじょそこらのカルト宗教が裸足で逃げ出すようなシチュエーションだ。
 洒落にならない恐怖に頭の中が真っ白になると、俺はもう何も言えなかった。黙ってこの恐怖の芋娘の依頼を受けるより他に選択肢はなかったのである。


「――って感じだったんだけどよ、あの芋子どっかヤバいんじゃねえの?」
 ちせとの事務的な話を終えてから俺は一目散に馬房へ向かった。この恐怖を和らげる為には、誰かにこの話を聞いて貰うしかなかったのだ。
『チセをバカにしてんじゃねえよ、殺すぞクソガイジ』
「そうは言っても……普通じゃねえだろ。真顔でエトの遺言語るんだぞ」
『何がおかしい、チセは本当に聞いたんだ』
 俺が真剣に訴える程に、栗毛は怒気を隠さなくなった。尾っぽを鞭のように振って風切り音を出してくる。
「大体、お前俺が乗っても良いのかよ」
『兄貴の遺言だし、チセもそう望んでる。お前みたいなメンヘラ糞ジョッキー乗せるなんて死ぬほど嫌だが、仕方ねえよ』
「そうかいお生憎様だね」
 やっぱコイツ可愛くねえ、エトの弟なのに何故こんなに性格が悪いのだろう。
 そんな事をふと思うと、エトはどんな性格だったのだろうと気になった。競走馬としてのエトは頭が良くて人懐こい、けどレースになると闘争心が強すぎて熱くなり過ぎる気があった。けど、こんな風に言葉を交わした事は無かったから、俺は本当は、エトの事を何も知らなかったのかも知れない。
 感傷に浸っていると栗毛は何かを察したのか、その声色は比較するまでもなく穏やかで、そして真剣だった。
『俺は、チセにダービー・レイをかけてやりたい』
「一度エトで獲ってるだろ」
『でも、やっぱり一番はダービーだろ』
「解ってねえな、女に同じモン送っても昔の男思い出させるだけだぜ?」
『なんだよそれ』
 芋娘の事になると案外素直でバカなヤツだ。
「どうせなら、続きを見せてやれ」
『……続きって、何だ?』
「三冠獲ってジャパンカップ勝って有馬勝って春天勝って宝塚勝って、最後に目指すは凱旋門……なんてな」
 一息にすらすらと、それは俺の夢の続きだ。
『なんだそれ、ダービーがねえぞ』
 あ、やっぱりコイツ馬なんだなって、俺はようやく思い出した。レース名が解らないらしい、でもダービーは知ってるらしい、流石ダービー、馬でも解る。
「そのうち解るさ。それよりも、ダービージョッキーが専属で調教から乗ってやるんだ、並の成績じゃ許されねえぞお前」
『偉そうに言うんじゃねえよ、糞が』
 何となくだが解った気がする。コイツはガキなのだ。だから高校生くらいのガキンチョをからかう位の気持ちで接してやると、案外腹も立たないかも知れない。
「まあいい……そいや、お前名前は?」
『レラだ。チセはレラって呼ぶ』
 良い名だ。短い語感で実況もさぞ叫びやすいことだろう。ファンも覚え易い。
「そうか、よろしくレラ。俺は大越凛太朗、これからお前のジョッキーだ」
 首を撫でると、レラは嫌がらなかった。悔しいことに、ほんの少し嬉しくなっている俺がいた。
『で、お前何でここに来たの?』
「だから言っただろ、あの芋子がおかしいんじゃねえかって思ったんだよ。で、あの芋子の事一番解ってるのお前だから何か知らねえかと思って」
『チセをバカにしてんじゃねえよ殺すぞクソガイジ』
「またそれかよ、ワンパだなお前」
『大体何でチセがおかしいんだ、返答によっちゃお前ホント殺すぞ』
「馬鹿お前、普通に考えておかしいだろ――」
 馬の言葉が解る人間なんているはずねえだろバカ、と続けたら、レラは一瞬固まってから人間みたいな溜息を吐いた。
『俺、やっぱりお前乗せるの不安だ』
 しみじみ呟く辺りコイツも大概人間臭いが、しかしやはり馬なのである。
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