第1話
文字数 3,093文字
風が強く吹いている。
17歳の真城光起は鼻をすすった。足を投げ出してブランコに座っている。
「ねえ、ランボーって知ってる?昔の詩人なんだ」
髪はいくぶん茶色で、左手の中指には、ごついシルバーのドクロのついた指輪がはめられている。
「詩は知らない。けど、あるとき突然詩を書くのをやめて、放浪して、武器商人になってさ、アフリカに行ったんだって」
陽が傾きかけた午後の公園は、閑散としている。ひとりサラリーマンふうの男が、ベンチに座って弁当を食べているだけだ。砂場の近くに、老人が自転車をおしてやって来た。
「だけど、足の病気が悪化して、ヨーロッパに戻ってさ、足を切断するんだけど手遅れで、でも彼はアフリカに戻ろうとするんだ。アフリカの大地が、自分を治してくれるって」
彼は足をぶらぶらさせながら、空を見上げた。ビルの間の空は低く、どんよりと曇っている。
「結局は、マルセイユで死んだそうだけど、ねえ、どうして詩人が武器商人になったんだろ?なんでアフリカに行きたかったのかな?」
自転車を止めた老人は、のろのろと餌を取り出している。その周りにはいつしか鳩が群がっていた。
「おれ、そのアフリカの、熱さで遠くがゆらゆらして見えるような砂漠をね、ランボーみたいに歩いてるのを想像することがある。時々、すごくそこへ行ってみたくなるんだ」
鳩がいっせいに飛び立った。彼は顔をあげて、その鳩の行き先を目で追う。どんよりした空から雪がちらほら降ってくる。彼はそれを見て、微笑んだ。
* *
施納英二はエレベーターに乗りながら、誰かが歌っているのを聞いた。
どこかで聞いたことがあるような気がしながらも、急いでアコーディオンのような旧式の扉を閉める。早く行かなければ会議に遅れてしまうと、彼はあせっていた。
エレベーターのボタンは3つしかなかった。そのうちの1つを押すと、突然ロープが切れたかのように、一気にすさまじい音をたてて落ちだした。
あわてて何とかしようと3つのボタンすべてを押していると、また突然止まった。だが、ぎしぎしと音をたてて揺れていて、今にも落ちそうだ。
「もう一度やりなおしたい?」
そのとき、彼のすぐ耳元で女の声がした。
施納は肩を押される感触に飛び起きた。運転手が振り向いている。
ウインカーとワイパーが動く音と、こもった雨の音がしている。彼はタクシーの後部座席で、腰がずり落ちそうなほど眠りこけていた。
彼はタクシーを下りると、濡れるのも気にしないように、ゆっくりと目の前のマンションへ歩いて行った。吐く息が白い。マンションの入口の扉のところで彼は立ち止まる。が、すぐに扉を手で押して開けた。
いまだ慣れていない。前に住んでいたところは自動ドアだったからだ。
施納と妻の麻美がこのマンションに越して来て、1か月近くになる。築10年と、やや古びてはいるが、彼の会社への通勤の利便性を考えて決めた。車で通勤するにしても、1駅ぐらいの便利な距離にある。
以前に住んでいたマンションは、彼らが結婚した9年前、施納が24歳のとき、新築で入居してからずっと住んでいた。
しかし、近所にやがて公園や遊園地、学校、保育園もでき、小さい子供のいる家庭が多くなり、にぎやかになっていった。それがいささかうるさいという思いがあった。
さらに通勤にも一方通行の狭い道なども多く、麻美も駅までもっと近く、台所がきれいで、そしてもっと静かなところがいいと、互いに引っ越したいと思っていた。
彼らには子供がいなかったので、家が手狭だったわけではないが、麻美と隣近所の子供のいる主婦たちとの付き合いが、自然と距離を置いたものになっていたこともある。
郵便受けが並んだ1階ロビーに入ると、誰もいなかった。
扉がゆっくり自然に閉まると雨の音も消え去り、しんとしている。正面にある郵便受け口に新聞が中途半端に入れられていて、逆さ向きに今にも落ちそうになっていた。新聞を取って中を開けると、その内側に郵便がいくつか入っていた。それにひっかかり、新聞が入らなかったようだ。
普段はたいてい麻美が取ってくる。
今日、彼がこの時間に帰って来たのは、会社帰りではないからだ。彼は郵便取りというやり慣れないことで、引っ張りだすのに手こずり、いらつくように強引に引っ張り出した。
郵便物と新聞を抱えると、エレベーターに乗り、ボタンを押した。疲れたようにため息をつき、首をゆっくりとぐるぐるまわす。
こうしてエレベーターに乗ったとき、いつもようやく仕事から解放され、素の自分に戻る気分になれた。
カタカタと音がし、足下が揺れている。彼ははっとした。さきほどの夢を思い出したからだ。ずっと落ちて行く嫌な夢だった。彼は不安そうにエレベーターを見回した。
3階の施納の家のとなりのドアの横には、3輪車が転がったままになっていた。また小さな子供のいる家のとなりだと、麻美が少し嫌そうな顔をしたものだったが、このマンションは防音も前のところよりしっかりしているのか、あまり隣近所の気配を感じることもなく、静かだった。
彼は鍵を取り出すとドアを開けた。
新聞をソファーに放り、鍵を机に置くと、窓を開ける。空気がよどんでいるようで、閉めきったままの部屋が嫌だった。冷たい空気を大きく吸う。雨のせいで、昼だと言うのに部屋の中は暗かった。
携帯を置き、背広を脱いだ。家の電話の留守録のボタンが光っていたのでそれを押し、いくつかの郵便の表を見ていく。
その中の自分宛のひとつの封筒に手が止まった。少し厚みがあるし、一見してダイレクトメールなど企業のものではない。裏を見るが、差出し人の名前は書かれてない。彼は開けようとハサミを探しに、隣の自分の部屋へ行った。
机の引き出しを開けていると、留守電の声が聞こえた。
『アース化粧品と申します。新商品のご案内ですが、また後日かけさせていただきます』
ピーッと音が鳴る。
『英ちゃん、あの、警察の方はどうでしたか?また連絡ください』
祖母の真城恭子からだ。施納はあっと小さく声を出した。今日は帰りに祖母の所へ寄るつもりだったが、すっかり忘れていたのだ。
祖母は今日はずっと彼がやって来るのを、一時も忘れずに待ち続けていたに違いない。施納はため息をつきながら居間に戻ると、ハサミで切って開けたままの封筒を机に置き、急いで祖母のところに行く予定を手帳に書きとめる。その間にも、次の録音が聞こえた。
『尾田ですが、麻美さん、明日のビーズ教室、1時からに変更になりましたのでよろしくね』
麻美はカルチャースクールに熱心に通っている。スマホを買い替えないとバッテリーが劣化して使えなくなっているが、新しい機種を決めかねていた。まだ買ってないのだろう。
だが、これまでもあまり電話で話しこむようなところを見たこともないし、家に誰か友だちが訪ねて来たということもなかった。
それは施納も同じで、会社の同僚たちとも仕事ぬきで飲みに行くことなどはほとんどない。たいてい断っていたので、そのうちみんな彼を誘わなくなった。彼ら夫婦はそういう点では似た者同士と言えなくもない。
また、ピーッと音が鳴る。が、何も音がしない。小さくノイズが聞こえ、つながっているが相手が無言のままなのがわかる。やがて受話器を置く音がして終わった。
そのとき、バサッと音がした。封を開けたまま机に放っておいた封筒から、何かが床に落ちていた。写真だ。何気なくそれを一枚手に取ると、彼の動きが止まった。
呆然とその写真を見ている。それはまさしく今日、警察で見せられた“傷”の写真だった。
17歳の真城光起は鼻をすすった。足を投げ出してブランコに座っている。
「ねえ、ランボーって知ってる?昔の詩人なんだ」
髪はいくぶん茶色で、左手の中指には、ごついシルバーのドクロのついた指輪がはめられている。
「詩は知らない。けど、あるとき突然詩を書くのをやめて、放浪して、武器商人になってさ、アフリカに行ったんだって」
陽が傾きかけた午後の公園は、閑散としている。ひとりサラリーマンふうの男が、ベンチに座って弁当を食べているだけだ。砂場の近くに、老人が自転車をおしてやって来た。
「だけど、足の病気が悪化して、ヨーロッパに戻ってさ、足を切断するんだけど手遅れで、でも彼はアフリカに戻ろうとするんだ。アフリカの大地が、自分を治してくれるって」
彼は足をぶらぶらさせながら、空を見上げた。ビルの間の空は低く、どんよりと曇っている。
「結局は、マルセイユで死んだそうだけど、ねえ、どうして詩人が武器商人になったんだろ?なんでアフリカに行きたかったのかな?」
自転車を止めた老人は、のろのろと餌を取り出している。その周りにはいつしか鳩が群がっていた。
「おれ、そのアフリカの、熱さで遠くがゆらゆらして見えるような砂漠をね、ランボーみたいに歩いてるのを想像することがある。時々、すごくそこへ行ってみたくなるんだ」
鳩がいっせいに飛び立った。彼は顔をあげて、その鳩の行き先を目で追う。どんよりした空から雪がちらほら降ってくる。彼はそれを見て、微笑んだ。
* *
施納英二はエレベーターに乗りながら、誰かが歌っているのを聞いた。
どこかで聞いたことがあるような気がしながらも、急いでアコーディオンのような旧式の扉を閉める。早く行かなければ会議に遅れてしまうと、彼はあせっていた。
エレベーターのボタンは3つしかなかった。そのうちの1つを押すと、突然ロープが切れたかのように、一気にすさまじい音をたてて落ちだした。
あわてて何とかしようと3つのボタンすべてを押していると、また突然止まった。だが、ぎしぎしと音をたてて揺れていて、今にも落ちそうだ。
「もう一度やりなおしたい?」
そのとき、彼のすぐ耳元で女の声がした。
施納は肩を押される感触に飛び起きた。運転手が振り向いている。
ウインカーとワイパーが動く音と、こもった雨の音がしている。彼はタクシーの後部座席で、腰がずり落ちそうなほど眠りこけていた。
彼はタクシーを下りると、濡れるのも気にしないように、ゆっくりと目の前のマンションへ歩いて行った。吐く息が白い。マンションの入口の扉のところで彼は立ち止まる。が、すぐに扉を手で押して開けた。
いまだ慣れていない。前に住んでいたところは自動ドアだったからだ。
施納と妻の麻美がこのマンションに越して来て、1か月近くになる。築10年と、やや古びてはいるが、彼の会社への通勤の利便性を考えて決めた。車で通勤するにしても、1駅ぐらいの便利な距離にある。
以前に住んでいたマンションは、彼らが結婚した9年前、施納が24歳のとき、新築で入居してからずっと住んでいた。
しかし、近所にやがて公園や遊園地、学校、保育園もでき、小さい子供のいる家庭が多くなり、にぎやかになっていった。それがいささかうるさいという思いがあった。
さらに通勤にも一方通行の狭い道なども多く、麻美も駅までもっと近く、台所がきれいで、そしてもっと静かなところがいいと、互いに引っ越したいと思っていた。
彼らには子供がいなかったので、家が手狭だったわけではないが、麻美と隣近所の子供のいる主婦たちとの付き合いが、自然と距離を置いたものになっていたこともある。
郵便受けが並んだ1階ロビーに入ると、誰もいなかった。
扉がゆっくり自然に閉まると雨の音も消え去り、しんとしている。正面にある郵便受け口に新聞が中途半端に入れられていて、逆さ向きに今にも落ちそうになっていた。新聞を取って中を開けると、その内側に郵便がいくつか入っていた。それにひっかかり、新聞が入らなかったようだ。
普段はたいてい麻美が取ってくる。
今日、彼がこの時間に帰って来たのは、会社帰りではないからだ。彼は郵便取りというやり慣れないことで、引っ張りだすのに手こずり、いらつくように強引に引っ張り出した。
郵便物と新聞を抱えると、エレベーターに乗り、ボタンを押した。疲れたようにため息をつき、首をゆっくりとぐるぐるまわす。
こうしてエレベーターに乗ったとき、いつもようやく仕事から解放され、素の自分に戻る気分になれた。
カタカタと音がし、足下が揺れている。彼ははっとした。さきほどの夢を思い出したからだ。ずっと落ちて行く嫌な夢だった。彼は不安そうにエレベーターを見回した。
3階の施納の家のとなりのドアの横には、3輪車が転がったままになっていた。また小さな子供のいる家のとなりだと、麻美が少し嫌そうな顔をしたものだったが、このマンションは防音も前のところよりしっかりしているのか、あまり隣近所の気配を感じることもなく、静かだった。
彼は鍵を取り出すとドアを開けた。
新聞をソファーに放り、鍵を机に置くと、窓を開ける。空気がよどんでいるようで、閉めきったままの部屋が嫌だった。冷たい空気を大きく吸う。雨のせいで、昼だと言うのに部屋の中は暗かった。
携帯を置き、背広を脱いだ。家の電話の留守録のボタンが光っていたのでそれを押し、いくつかの郵便の表を見ていく。
その中の自分宛のひとつの封筒に手が止まった。少し厚みがあるし、一見してダイレクトメールなど企業のものではない。裏を見るが、差出し人の名前は書かれてない。彼は開けようとハサミを探しに、隣の自分の部屋へ行った。
机の引き出しを開けていると、留守電の声が聞こえた。
『アース化粧品と申します。新商品のご案内ですが、また後日かけさせていただきます』
ピーッと音が鳴る。
『英ちゃん、あの、警察の方はどうでしたか?また連絡ください』
祖母の真城恭子からだ。施納はあっと小さく声を出した。今日は帰りに祖母の所へ寄るつもりだったが、すっかり忘れていたのだ。
祖母は今日はずっと彼がやって来るのを、一時も忘れずに待ち続けていたに違いない。施納はため息をつきながら居間に戻ると、ハサミで切って開けたままの封筒を机に置き、急いで祖母のところに行く予定を手帳に書きとめる。その間にも、次の録音が聞こえた。
『尾田ですが、麻美さん、明日のビーズ教室、1時からに変更になりましたのでよろしくね』
麻美はカルチャースクールに熱心に通っている。スマホを買い替えないとバッテリーが劣化して使えなくなっているが、新しい機種を決めかねていた。まだ買ってないのだろう。
だが、これまでもあまり電話で話しこむようなところを見たこともないし、家に誰か友だちが訪ねて来たということもなかった。
それは施納も同じで、会社の同僚たちとも仕事ぬきで飲みに行くことなどはほとんどない。たいてい断っていたので、そのうちみんな彼を誘わなくなった。彼ら夫婦はそういう点では似た者同士と言えなくもない。
また、ピーッと音が鳴る。が、何も音がしない。小さくノイズが聞こえ、つながっているが相手が無言のままなのがわかる。やがて受話器を置く音がして終わった。
そのとき、バサッと音がした。封を開けたまま机に放っておいた封筒から、何かが床に落ちていた。写真だ。何気なくそれを一枚手に取ると、彼の動きが止まった。
呆然とその写真を見ている。それはまさしく今日、警察で見せられた“傷”の写真だった。