文字数 4,695文字

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 花乃は二つ下の妹で、時折私の一人暮らしの部屋に遊びに来ていた。確か今が大学三年生で、学校が私の(うち)から近いこともあり、講義が終わった後に来てご飯を作っていってくれることや、時には朝や講義の合間なんかに仮眠を取りに来ることもあったらしい。私は基本的に家事炊事を自分でやっていたので、花乃はたまに家に来てはご飯を作ったり掃除をしてくれる家政婦さんのような、あるいは母のような、いずれにしてもラッキーだなという程度の認識だった。
 私が働き始めたのは花乃との年齢差から分かる通りこの一年の間のことで、花乃が(うち)に来るようになったのは、それから一、二ヶ月経った頃と記憶している。正直に言うと、当初は一人暮らしができるという悦びと期待から、(うち)に花乃が入った形跡を見つける度に鬱陶しさや若干の苛立ちを感じていた。
 当時の私達の仲は良いとも悪いともつかないもので、花乃が中学に上がった頃から全くの不干渉、というより互いに互いへの興味がなかったことから、実家では必要以上のコミュニケーションは取っていなかった。もしそうでなかったら、私は花乃を早くに追い払っていたと思う。私は自分の空間を侵されるのが嫌だった。それは実家にいた頃もそうだったし、侵すのが家族であっても例外ではない。しかし、たまにでも夕食の支度を省けるのはあまりにも都合が良かったし、花乃が余計なことをしないというのもわかっていたので、初めこそ感じていた憤りは次第に諦めへと変わり、そしてそれも霧散していくのだった。つまり、私は私の中に花乃の存在を認めざるを得なくなった。
 花乃が(うち)に来ることになったのはおそらく、私を心配した母の指示で間違いないだろう。だがその内に、ここまで世話を焼けという文句があったかは不明である。花乃は私の(うち)を便利に使い、私はその対価として世話を焼かれる。花乃が一方的に持ちかけてきたこの契約を、私は知らず知らずのうちに結んでいたのだ。これは花乃から私への多大なる干渉だったんだろうと、今ならそう考えることもできる。
 とは言うものの実際に顔を合わせたことは初めのうちはほとんどなく、前述したように私のいない間に実家から持ち出した――母から渡されたであろう――合鍵で部屋に侵入し、仮眠を取るなりしていたようだ。また気まぐれに、その日の講義が終わった後に夕食をわざわざ作り置きに来てくれる。そんなのがしばらく続いていたのだが、やはり人間というのは横着なもので、ほぼ毎日通う学校の近場にタダで寝起きのできる場所があれば、使わない手はない。



 ある日、私が家に帰り扉を開けるとリビングの明かりが点いていた。初夏で日も長くなったとはいえ十九時を回ると嫌でも太陽は地球の影に隠れていってしまうわけだが、はて今朝家を出るときに電気を点けっぱなしだったかと思い玄関を入ると、カチャカチャという音が家の奥、キッチンの方から聞こえてくる。瞬間、全身の筋肉がガチリと固まるような緊張が走った。泥棒だと思ったのだ。しかしキッチンを漁る泥棒というのもおかしな話だし、静かに立ち尽くし耳に神経を集中させていると、「ああ」だの「もう」だの素っ頓狂な声が聞こえてくる。それは女の声だった。女に空き巣に入られ、ましてや料理なんて作られるようなおかしな話は――あった。その女の心当たりが一人あったのだ。それに気がついたとき、全身の緊張が一挙に放たれ、私は風のない鯉のぼりのように、覇気も威厳もなく呆然と立ち尽くした。まだ強く脈打つ心臓の衝撃で忽ち正気に戻ると、私は「ただいま」と一際大きな声を部屋中に轟かせた。すると5秒位して「おかえり」と先の女の声が返ってきた。リビングの前にあるキッチンから顔をひょっこりと出した花乃が「びっくりした。泥棒かと思った」と笑い、それに釣られて私も笑った。同じことを考えるなんてやっぱり兄妹なんだなあと感心しながら、兄妹なのにも拘らず互いが互いを泥棒だと思っていたのが滑稽で仕方がなかった。
 それから私は全身に滲んだ汗々を洗い流すためにシャワーを浴びた。頭からかぶるお湯が熱で全身の筋肉をほぐし、脱力させていく。しかし熱を浴びれば浴びるほど、夕食を取ったり椅子に座ってリラックスしたり、夜を活動する余力すらも水に溶けて流れていってしまう感じがしたので、早々に済ませてることにした。さっぱりと、しかし一層疲労の感じる身体でリビングへ向かうと、普段は一人でしか使わないこぢんまりとしたテーブルに、二人分の、色合いの良い温かそうな料理達が対になるように並べられていた。花乃がどこからか引っ張り出してきた椅子に座って、私が向かいに座るのを待っている。料理をするために結われたポニーテールがどことなく幼い頃の花乃を思い出させ、妹ももうこんなに成長したんだなと人知れず兄冥利に頬を綻ばせた。
「遅いよ」
「ごめん、よしじゃあ食べよう」
「何笑ってんの、気持ち悪いよ」
「こんなに豪華な夕ご飯が食べられることにワクワクしてるんだよ」
そう言うと花乃は「えー」とか言いながら嬉しそうににんまりと笑みをこぼす。こういうとき、目線を下げて合わせようとしないところが私の記憶にある花乃そのものだった。
 花乃としっかりと話すのはいつぶりだろう。三、四ヶ月前までは実家という同じ屋根の下で暮らしていたんだけれども、そのときは「ご飯できたよ」だの「お風呂入って」だの言われ、それに対して私が「うん」だの「わかった」だの返す、それしか口を利いた記憶がない。ただこれは口を利くとは言えても話すとは言えない。最後の会話はきっと兄妹としての何の取り留めもない会話なんだろう、しかしそんなことをいちいち覚えてはいない。だから、本当にいつぶりにこう面と向かうのかわからない。それでも私達は

話すのだ。

(にい)は彼女さんとかいるの?」
前の会話の脈絡もなく、唐突にそんな問いかけをされた。
「いや、いないけど」
「そっか」
不自然な返答で会話が途切れた。私は構わず、母の味の味噌汁をズズズと啜り、心の安寧に浸った。
「最後に付き合ってたのはいつなの?」
瞬く間に心の安寧は味噌汁みたいに掻き回されてしまった。私はもう一度、お椀を大げさに仰いだ。不自然なほどに長ったらしく。
「あ、でも学生の頃の(にい)のこと全然知らないから聞いても仕方ないか」
「いやあ、味噌汁もおかずも全部、本当においしい」
言葉とは裏腹に全くだと心の中で返す。いようがいまいが何でもいいじゃないか。今度は私が「そっちこそどうなの」と聞こうと思ったが、それこそ聞いても仕方がないし、第一、家族のロマンスを正直あまり聞きたくないので、その問は味噌汁と一緒に飲み込む他になかった。妹ならなおさら聞きたいとは思えない。
「なにそれ」
クスクスと花乃が笑う。私は黙々とご飯を平らげる。嘘は言っちゃいないんだ。温かくて美味しいご飯を食べられる幸せを私は噛み締めた。花乃は少量だったのだろう、すでに食べ終えていて、それからは自分が作った料理の食べられるところを、頬杖をついてじっと眺めていた。

 程なくして食べ終えると、花乃は済んだ皿を流しへと運んでいく。運び終えるた花乃は、一度髪を後ろに流し両腕を捲った。
「いいよ、俺がやる」
その言葉を聞くと花乃は流しと私の方とを何度か目で往復し、最後に時計を一瞥すると
「えー、じゃあお言葉に甘えて」
と、ポニーテールに結っていた髪をほどいた。さらさらと艶のある黒い髪が流れるのを横目に流しへ移動し、私は皿を洗い始めた。時刻はすでに二〇時を回っていた。
 帰り支度のする花乃を背中に、私はさっきの会話を思い出し、振り返りもせずに言った。
「そりゃあ、あるよ」
花乃は「え?」と間抜けた声を出すと、すぐに「ああ、彼女の話ね」と私の言葉の欠落した部分を補った。
 学生なんて大体、普通に過ごしていれば一人くらいはできるもんだろうとも言おうと思ったけど、妹にそんなことを言うのも気持ち悪いなと思ったのでこれ以上続けるのはやめておいた。なぜそんなことを聞いてきたんだろうという素朴な疑問も、私は泡と一緒に排水溝へ流しやった。
 私が皿洗いを終える時には支度も済んでいたようで、花乃は「それじゃあ、おやすみ」と玄関へ向かっていった。駅までも一〇分とかからないしそのまま一人で行かせてもよかったが、もう外も暗いのでここは兄らしく「駅まで送る」と花乃に並んでサンダルを履いた。花乃は私の顔を見て、ただ「うん」と言い、私達は外へ出た。

 外はまだ昼間の熱気とじめじめした空気が残っていて、空には一筋の雲もなく、月や明るい星が街灯や家々の眩い光にも負けず私達の頭上に輝いている。
 肩を並べ、何か言葉を掛け合うこともなく、花乃の歩調に合わせてしめやかな夜の住宅街をゆっくり歩く。時折花乃の方を横目で見ると、花乃は後ろの街灯から落とされる自分の影を眺めていた。後ろへ通り過ぎていく光に、影は前へ伸びては消えていく。なんとなく、影は花乃の歩みを急かしているように見えて、しかし花乃はそれに抗って一歩一歩をゆっくりと踏みしめているい風に見えた。
 花乃とこうやって並んで歩くのは、会話よりももっと昔のことのように思う。いやむしろ、昔は花乃が私の後ろを追って歩いていた。いつも目の前に映る興味に向かって一心不乱に歩いていく私を追いかけてきて、でもその時の私は花乃が後ろにいることなど全く気にしていなかったし、花乃も花乃で、ついてくるくせに私がどこに行くのかもわからないまま、しかし一人きりにはなりたくなくて、ただただ私を追いかけていた。そんな、もういつとも判別のつかないある日の幼少の二人の姿がふと思い浮かんだ。そう思い返してみると、並んで歩いたことはもしかしたら過去に一度もなかったではないか。花乃はもう、行く先のわからない道標に頼ることはない。私もそんな花乃の姿を振り返り、隣を歩くことができる。花乃は、私達は、大人になったのだ。この小さな時間は、私をセンチメンタルにさせるには十分だった。
 私は花乃の方を向いて、横顔をじっと見つめた。そこには昔と変わらない妹の横顔がある。でも少し大人になった顔つきかもしれない。あんまりじっくり見るもんだから、不思議に思ったのか、気持ち悪がったのか、それに気づいた花乃がこっちを見返した。
「何」
「いやあ」
そう言いながら、照れくさくなった私は視線を前へとずらす。私は初めて実感するこの兄妹という時間が愛おしかった。でも、それをあえて表現する手立ても名分も見つけられなかったから、誤魔化すことしかできなかった。しばらくサンダルのアスファルトに擦れる音だけが鳴っていた。
「学校は?」
ふと、私は何ともつかない質問を突拍子もなく飛ばす。
「んー、ぼちぼちかな。でも楽しいよ。(にい)こそ仕事、どうなの?」
「大変だけど、面白いよ。今がもう面白いんだから、今後もっと面白くなると思うとわくわくする」
「へえ。まあでも、それは見てて伝わってくるかな。全然苦じゃなさそうだし」
「今はまだね。でも苦しくなってきてからが一番楽しみかな」
「なにそれ」
花乃は含み笑いする。
「じゃあ、私の手伝い要らないね」
「それは話が別だわ」
なおも笑う花乃に、私もつられて頬を綻ばす。気がつけば薄暗かった路地を通り越し、光のあふれるその中心まで到達していた。私達は駅の入口で歩みを止めた。
「それじゃ、気をつけて」
「うん。(にい)もありがとね」
「お母さんとお父さんによろしく」
最後に「おやすみ」と掛け合って、花乃は階段を登っていく。私はその後ろ姿を見えなくなるまで見届けた。
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