作品の一般的性質

文字数 2,392文字

 作品というと一種の芸術として崇高な頂き、あるいはその頂きへと向かおうとしている人間の過程であるかのような印象を与える。また、研ぎ澄まされた感性の咆哮だとか、神それ自身への内部的な接近など、なにかしら高尚なものを、究極的には想起される。
 およそ、四千年前ぐらいの早い文明を見渡しても文字記録や絵画、彫刻など建造物などに対して異常な熱心さが感じられる。それらは全く同時代に作られたというわけはなく、また一人の人間がこしらえたものでもなく、およそその文明に属した人間がそれぞれに何かしら崇拝するものへの希求、究極的なものへの追究を同じくして作り出したのだろう。集団的な幻想を持っていたのだ。
 それらは用途とはほとんど関係のない装飾であったり、何かしら暗示をともなった紋章であったりするが、それらはある種の正確性があればあるほど後代に見た者を魅了する。例えば、動物が見事に描かれているとかであったりもするし、また線は歪んでいるのだが質感が異常に表れているなど局所的なものなどもある種の正確性の高さが感じられよう。また正確性に欠けていると思われると、未熟な感じを人に与える。そして、そう思う人間はすでに一家言を持った基本的にはそういう通念を持ち合わせている。そしてそういう人間が一体どうやって一家言を持ち得たかというと、ある種の模倣からであろう。(第一に言語がそうである。)
 それは逆に言うと模倣に対する正確性が高いと言える。そしてそれはそう言う正確性を重んじる文明に生きているがためかもしれない。法律、規律、生産、などに対する構えとも同じくする態度である。また、一方で発展という通念も抱いている。法律では基本的には模倣によって正確なものは、いわゆる他人の作品を模したものは正確なものでも認められていない。これは文化的所産の公正な利用ではないとされている。そして、文化的発展に寄与する目的に法律も定められている。文化的発展とはどういうことか。要するに、模倣ではないものの何かしら正確性が高くオリジナリティのある作品が生み出されることを想定しているということである。
 作品とはおよそ適切である言葉としてある種の抽象的な「美」と一般的に言われることがある。模倣であるが具体的な誰かのものではなく、そこから抽出された「美」への正確性の高さを言うのではなかろうか。文化的発展において作品同士が干渉しあわないつまり権利を侵害し合わない、それぞれに独立して真性を有しているというのは。もっとも「美」でなくても何かしらの思うところのある種の再現性と言ってもいいだろう。ただし、美という言葉に集約されやすいというところかもしれない。
 それにしても上記から考えると、言葉ではそう言っても実際には、明らかな類似で溢れかえっている。ちょっとした変質を用いるだけで他人の作品が別の作品にすり替わっていても問題にはならない。例えば漫画であれば、名前、顔、設定、描写を変えただけでも明らかな模倣に過ぎないものでもオリジナリティは付与される傾向がある。そもそもとして全くゼロからものを考えるわけではないので、何かしらの土台があるのは必然であろう。ここに商品における作品性が表れてくる、動機である。そこに崇高なものを欲したがるのが集団的な幻想である。作品性の高さがここにもある。
 更に作品には両面がある。作る側とそれを見る側。作る側はおよそ神への接近だとかを熱心に考えたがる。そうありたいという意思があり、それはそうであってほしいと思うからでありまたそう思われるからでもあろう。そして分野毎に別れるごとに、そう言った感心は薄れる傾向にあり、自分の興味のない分野ではそう言った崇高な何かを欲するものでもただの野次馬と化す。ただし、作品として抽出されてくると、何かしらの気高いものとして感じられ、この気高さは、あるいはこの真面目さは、この歴史的な価値は、この共感されるところは、などなど言葉的にも変質するであろうが、集団的な何かしらの頂きを置くように、見る側でもその媒体そのものより出来事をも欲する。しかしながら、それは作品として、そのものとしてではなく、市場経済の原理によった類似的な商品群の中において見いだしたいのである。そして、そういう作品性をともなった商品が真性であるべきだと思うのは、すでに商品としてのみ消費されるべき作品の中でしか作品がほとんど存在しないからであろう。〔また、それがために素人が描いた絵画や、小説が売れないし、売れるわけがなく商品を擬制したとしても売れないのは簡単な話である。作品の域を出ないからである、換言すると商品としてのお墨付きがない、と現状は言え、またこう言うと論が立ちやすい。商品が作品を擬製しているのではなく、作品が商品を擬制している、と。それにまた単純に量の問題にも還元される。多すぎるというという問題もある。量において優位に立とうとする媒体であるがためにである。(しかしながら僅かながら漫画なら多少は売れる可能性も現在残っている。何故か物語の絵解き図画は好まれる傾向にある。)

 要約すると一般に作品とは商品の体をなしている中に見いだされるその作品性となる。
 そしてまた個人的な創作物が作品としておよそその創作契機となった商品なりと肩を並べようとするならば、その作品は商品に組み込まれなければならないだろう。現在のところ作品と呼べる人間のなすなした行為によって出来上がった物は、最終的に商品に組み込まれると同時に、売れようとしているうごめきが絶えずあるのは否定できまい。

 しかしながら、創作物が創作物のみに作用し、働かせ合う分野があるならば、それは虎の穴とも言うべきか。そこではおそらく、例の時代的だとか歴史的だとか、それにともなう作者なり作品に付与された幻想性は必要とはしないだろう。
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