第1話

文字数 1,994文字

パンデミック宣言から十日目の朝、俺はいつものように自宅のパソコンの電源を入れた。程なく曲が流れ、六分割された画面に映し出された面々が怠そうに体を揺らし始める。
日課のラジオ体操だ。
俺は課内で一番真面目なタナカに何気なく目を向けた。
いつもは率先して動く奴だが何故かじっとしている。
顔色も悪く、苦しそうだった。
「タナカ君、どうした?」
課長が深呼吸をしながら声を掛けた。
「す、すみません・・今朝から体調が悪くて・・」
蚊の鳴くような声でタナカが答える。
その台詞に触発されたか、突然「うっ」と口を押さえ画面から姿を消した。デスクの下に座り込んだようだ。間髪入れず、嘔吐する音が聞こえる。
「大丈夫かね、タナカ君・・!?」
課長が驚きの声を上げた。
すでに曲は止んでいたが、皆深呼吸の体勢のまま固まっていた。
やがて、デスクの端からモゴモゴと何かがせり上がってきた。
タナカの背中だった。
机上に手をつき、起き上がったタナカの顔は酷かった。
血の気の無い頬は腫れ上がり、見開いた眼球は真っ赤だった。口から黄色いよだれが垂れ落ちている。
「大丈夫か、顔色が悪いぞ。無理しなくていいんだぞ。」
再び課長が上擦った声で言った。
「ううっ・・」
頭を揺すりながら声を出すが、何と言ったのか分からない。
「・・そうか、じゃ暫く休んでいたまえ。」
分かったのか!?今のが・・
全員の驚きと懐疑の視線が課長の顔に集中した。
課長は平静を保つ為咳払いを一つすると、ごそごそと書類を取り出した。
それを合図に全員席に着く。
朝のミーティングだ。
「さて、本日の連絡事項だが・・」
「うごぉ!!」
課長の言葉を遮るようにタナカが吠えた。
思わず全員総立ちになる。
「き、気にするな。風邪の時は酷い咳が出るもんだ。」
今のは咳か!?
いや、それ以前にタナカはいつ風邪だと分かったのだ?
今流行りの新型ウィルスじゃないのか。
喉元まで出掛かるが急いで飲み込んだ。
差別表現だと悪者扱いされてはかなわない。
皆渋々着席した。
「いい知らせだ。今月の安全月間の標語募集で、何とタナカ君の作品が最優秀賞に選ばれた。いや、おめでとう。」
課長が無理矢理満面の笑みを浮かべ拍手した。
他もそれにつられて拍手する。
俺はタナカの挙動に気を止めた。
机上の書類をじっと眺めるタナカ。
(やはり、嬉しいのか・・そりゃそうだろ)
おめでとうと言いかけた俺の目前で、タナカは書類を口に放り込むとムシャムシャ食ってしまった。
俺は笑みを浮かべたまま凍りついた。見ると全員が俺と同じ状態だった。
「ま、まあ何にしてもウチの課としても鼻が高いと言うもんだ。いや、よく頑張ったな。」
課長の取り繕った笑い声がモニターに響く。
それに倣って皆も懸命に笑おうとする。
タナカ一人無表情で、体を揺すっていた。
さすがに課長も気まずくなったのか、言葉を詰まらせ沈黙が流れた。
「・・お、おう、そうだ。最優秀賞の賞金を忘れていた。これを手にしたら、風邪など吹っ飛ぶんじゃないか!」
『最優秀』と書かれた封筒を取り出し、課長が大仰に振り翳した。
タナカは答えず、下を向いて「ぐるる・・」と唸った。
当てが外れて窮地に陥った課長は、目をくるくると回転させ必死に何か考えているようだった。
「・・そ、そうだ!これからお見舞いを兼ねて、皆でこれをタナカ君に渡しに行くというのはどうだろう。勿論、長居せず玄関先だけでの受け渡しになるが。生で受け取った方がタナカ君も元気になるんじゃないか。どうかね。」
課長の予想だにしない提案に言葉を失った全員が、タナカの方に視線を向けた。
今まで無表情だったタナカの顔に、嘘のような笑顔が浮かんだ。
その顔はどう見てもいつものタナカだった。
全員の表情が一気に緩む。
やはり、課長の言うように只の風邪だったのか。
「分かりました。そうしましょう。」
緊張の解れた俺が口火を切った。
新型ウイルス蔓延期だが、接触さえしなければ感染の恐れは無い。マスクと消毒液持参で何とかなるだろう。
ここは課長に花を持たせるとするか。
画面の全員が頷いた。
「そうか、良かった。では後程お邪魔するよ、タナカ君。楽しみにしていたまえ。」
訪問時間を決めてミーティングが終わると、パソコンの電源が落とされた。
俺は残った仕事をこなし始めた。

真っ暗の画面を見ながら、タナカの顔はまだ笑ったままだった。
皆が話す会話の意味など全く分かっていなかった。
勿論、今自分が置かれた状況も理解していない。
頭にあるのは底無しの空腹感・・ただそれのみ。
ただ、今から自分の元に何か【いいもの】がやって来る事だけは本能的に察知していた。
それはきっと【思う存分腹を満たせるもの】に違いない。
画面に映っていた六人の顔を思い浮かべ、またよだれが垂れ落ちた。
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