第1話

文字数 1,987文字

「見つけた! (とも)くーん! 約束したでしょー?」
 浴衣姿(ゆかたすがた)小柄(こがら)な女の子が()けてくる。紺に(あざ)やかな黄色のひまわり(がら)、濃い(くれない)の帯を()めて、ふっくらした(ほほ)が金魚のような女の子。クラスメイトの(りん)だった。
 残暑が厳しかった学園祭の最終日の夜。今年はキャンプファイヤーにかわり打ち上げ花火大会を行う。主催は学園祭実行委員会。花火の購入から消防の手続き、近隣(きんりん)住民との交渉まですべて生徒が準備した。でも実行委員とはいえ1年で下っ端の俺は、校庭へ出るよう声をかけて回る地味な仕事をしていた。
 凛がやってきたのは、人気ない中庭から、校舎裏を回って校庭に戻ろうとした時だった。
「約束……冗談じゃなかったのか」
 一緒に見ようって指切りさせられたけど、委員の仕事で忙しくて、それきり話題にならず忘れていた。凜は片頬(かたほほ)をふくらませ「冗談じゃないよー!」と怒った。
「だって、何も言わなかっただろ」
「内緒にしてただけ! 驚かせたかったんだもん」
 その場でくるんと回って浴衣を見せ「どう?」と笑った。黄色の髪飾りが薄闇(うすやみ)で光のように揺れる。(つや)っぽい表情に目を奪われていると「早く、早く!」と俺の手を引き、凜は校庭に向かって駆け出す。……が、()きなれない下駄(げた)でよろめいた。
「危ない!」
 地面に倒れこむ寸前で抱きとめた。けれど、足をひねったらしく、凜は小さくうめく。(あわ)てて彼女を横抱きにしてベンチに運ぼうとした。でも予想以上に重い。いや、単に俺がひ弱なだけなんだけど。文化部の自分を呪いながらなんとか彼女を運ぶ。暑さでもともと汗ばんでいた。その上、彼女を抱きあげて汗がだらだら出た。軽々(かるがる)と運べるのは漫画とアニメの中だけらしかった。
「しっかりつかまってろ」
 凛はぎゅっと俺の首にしがみついた。浴衣は暑さのせいでしっとりして、包まれた体は柔らかくて甘かった。ベンチに降ろす瞬間、彼女の前髪が(ほほ)をくすぐった。思わず()みそうになって、さすがにそれはまずいだろうと身を引こうとした時。
 ぺろん。
 首筋を()められた。驚きすぎて声も出ない俺の肩で、慌てた様子で彼女は言い訳をする。
「目の前に流れてきたんだもん」
「何が?」
「汗」
 頭が真っ白になった。慌てて体を引いて立ち上がった。爆発しそうな心臓をしずめながら、()められた場所を手で押さえた。痛いくらい熱かった。
「オマエ、動物かよ! 人の汗なんて()めるかフツー!」
「ダメなの? 美味(おい)しいよ?」
 予想しない言葉が頭でこだまして、凛の髪のにおいがいっそう甘くなった。
「ただの塩化物。うまいわけないじゃん」
 心臓だけじゃなく鳩尾(みぞおち)や腹まで脈打ち、気持ちが高ぶった。
「塩だよ。塩化ナトリウム」
 声がブレないように(おさ)えた。化学の基礎知識を教える教師のように言うと、ん-……といまいち納得がいかない凜は言い放った。
「ただの塩じゃないよー。智くんの味だよ」
 凜は悪びれず、えへへっと笑う。
 こちらは心臓がバクバクで、死ぬほど振ったペットボトルのコーラみたく、全身の血がはじけそうなのに。
塩化(えんか)ナトリウムは塩、っと。忘れないようにしなきゃ。……あれ? じゃあ、塩化水素(えんかすいそ)って何だっけ? 塩に水……っていうんだから、汗のこと?」
 凜は見当違いなことをつぶやいて首をかしげる。化学のテストが赤点だったのもうなずける。
「人を劇薬(げきやく)にすんな」
「わ。ごめん、違った?」
「もう少し勉強してこい」
 わかったー! と凜はニコニコして、ぺんぺんと手でベンチを(たた)き、(となり)に座るように誘った。
「ここで見よ。人もいなくて見やすいよ」
 ためらって棒立ちになっていると、抵抗する間もなく引っ張られた。中庭のはずれにポツンと置かれたベンチは絶好(ぜっこう)穴場(あなば)で、最初の花火が打ちあがるのが綺麗(きれい)に見えた。赤や緑、黄色や青の花が開いて、まばゆい光が凜の横顔を照らした。
(すご)いね! 学校で打ち上げ花火なんて最高だよ!」
 見上げた瞳に光が映る。いまさら思った。びっくり箱みたいだけど、正直で(かざ)らなくて、可愛(かわい)い。
 すると、凜がこちらを向いて、指先で俺の頬を()いた。小さな声が花火の音でかき消された。
「何?」
 聞き返したその時、凜は背伸びをした。目の前に影がよぎり、くちびるに()れた柔らかいもの。まばたきひとつできずにいると、(はな)れたくちびるの隙間(すきま)で言った。
「甘いけど……智くんは違うの?」
 遊ばれてるように思えて、反論しかけて気づいた。浴衣の(ひざ)をぎゅっと(にぎ)った小さな手。怖さを我慢する子どもみたいに。泣き出しそうな気持が()れて伝わってきて、思わず手を伸ばした。白くてふっくらとした(ほほ)を手のひらで包み。凜がしてくれたのと同じことをした。
「甘い」
 こんなこと言える自分に驚く。のぞいた(ひとみ)がゆっくりと(うる)んだ。もう一度ついばんだ。
「もいっかい、して」
 恥ずかしそうにつぶやいた凜のくちびるをふさいで、抱きしめた。
 花火が終わっても、次の季節まで(となり)にいたいと思った。
 
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