タカラバタ
文字数 2,726文字
森の闇は息苦しいほどに粘りついてくる。
鬱蒼とした木々の重なりに吸い込まれてしまったように風はそよとも吹かず、不思議なほどに音のない夜だった。今夜は月もない。
山道には慣れているはずなのに、額にじっとりと嫌な汗が滲み始める。
やっぱり来るんじゃなかった。
「やべぇ! ケータイ落としてきたっ!」
真っ青になって叫んだ兄貴の横顔を思い浮かべたら舌打ちがこぼれた。つい十分ほど前のことだ。こんな日に限って親父と母さんがいない。
「頼む! タカラバタに取りに行ってきてくれ!」
その日、作業中に痛めたという兄貴の足は赤く腫れあがって、立ち上がるのもしんどそうだった。これでは自分では取りに行けないだろう。けど、こっちだって部活から帰ったばかりだ。ハードな練習の後に長い山道を歩くなんて冗談じゃない。
それにそもそも……。
「高校生じゃ、まだ立ち入り禁止だろ。一晩くらい我慢しろよ。ケータイ中毒かよ」
「そうじゃない! タカラバタに農具以外の物を持ち込んだら大変なことになるんだよ!」
「祟りとかか? ……んなの、迷信だろ」
「本当にダメなんだ。お前はまだわからないかもしれないけど、そのうちわかる」
「勘弁してくれよ。だいたい、もう持ち込んだんだからその時点で祟り決定だろ」
「頼むから! 頼むよっ……! お願いだから!」
珍しく必死の形相で頼み込まれて、ちょっと面白くなったのもある。
何をやってもかなわない兄貴。今日は立場逆転だ。
「わかったよ」
そう言ってやったときの兄貴の顔は、ケータイで撮り忘れたのが残念なほどレアな情けない安堵の顔だった。
早く早くと急き立てられて、懐中電灯片手にしかたなく家を飛び出した。タカラバタは裏山の奥深くにある畑だ。行ったことはないけど、兄貴から聞いた道は悪路だが一本道で間違えようもない。
山間にある小さな村。村中が家族のようなこの村で僕は生まれ育った。
村には伝説がある。
八百三十年ほど前、源平合戦で敗れて落ち延びた平家の人間がここへ流れ着き、作った村がこの村で、彼らの悲運を憐れんだ山の神が山中に供物の畑をひとつ作ることを条件に、災いから村や村人を守ってやることにした――というやつ。
どこかで聞いたような昔話だけれど、現代になっても村の人たちは伝説を信じ、「タカラバタ」と呼ばれる供物の畑を耕し続けているからびっくりだ。山の神の祭りも廃れることなく毎年盛大に行われ、大勢のひとが帰省してきて大騒ぎになる。
おまけにタカラバタには幾つかのしきたりがあって、それもまた律儀に守り続けられている。そのひとつを兄貴が破り、おかげで僕まで破らされているわけだけれど。
ようやく獣道のような細道を進みきって――。
はっとした。
目の前に広がっていたのは思ってもいなかった光景だった。大型のビニールハウスが幾棟も整然と並んでいる。村の畑で出荷用の野菜を育てている家でも、こんなに立派なハウスは持っていない。
「……なんだ……ここ」
胸が騒いだ。
なぜだか、来てはならないところに来てしまったような気がした。
いや……本当に来てはならないと言われているところなのだ。
とっとと兄貴のケータイ回収して帰った方がいい。
自分のケータイを取り出して兄貴の番号にかけた。音を頼りにして探す手間を少しでも省こうとしたからだったが。
『おまえ、いま、どこにいる』
すぐに男の低い声がして、僕は慌ててディスプレイを確認した。間違えてどこか別のところにかけてしまったのかと思ったからだ。でも、そこには兄貴の名前が光っている。
「……だれ?」
『いいから、どこにいる?』
「タ……タカラバタ」
観念したような気持ちで答えると、しばらく無言になったケータイから聞きなれた声がした。優しい声で名前を呼ばれて、それなのに冷たい手で背を撫でられたような気がした。
『そのままハウスを回って奥までおいで』
母さんの声だった。
なんで、母さんが?
通話はすぐに切れた。言われた通りに歩き出すしかなかった。
ちらりと見えたハウスの中に、緑の葉を茂らせたおびただしい数の鉢が並んでいる。見たことのない植物。……いや……どこかで……。
わけのわからない不安感が頭をもたげた。
「ここよ」
「……母さん。……親父も?!」
小さな小屋の前。困った表情の母さんの横で、苦虫を噛み潰したような顔の親父が腕を組んで立っている。
さっきの男の声は親父だったのか。……わからなかった。
「親父も母さんも、なんでこんなとこにいるんだ? 今日は街に用があって泊りだって言ってただろ。それにここ、なんなんだよ。タカラバタじゃないのかよ」
「いいからお前はこれを持って早く帰れ。……まったく。こんなもんが他の者に見つかったら殺されるぞ。お前だってどんな目に合ったことか」
殺される? なんだ……それ。
兄貴のケータイを差し出されても、すぐに受け取ることができずに見つめた。
落とした時の衝撃だろう。ディスプレイにはひびが入っている。そのひびが、僕にはひどく生々しく見えた。
「……なぁ、このハウス、何育ててるんだ? 野菜じゃ、ないよな?」
このまま何も見なかったことにして帰るのが、最善の行動なのだろうと気付いている。
でも。
止められない強い力が、僕を押す。
親父がふうっとため息を吐いた。
「そういえば、お前は小さい頃から、察しの良いわりに頑固な子どもだったな」
諦めたように呟くのを聞いたとき。
僕の頭の中で何かがバチっと音を立てたような気がした。そうだ……あれは。
あの、植物は……。
「……大麻」
頭の中からそのままこぼれたように出てきた自分のかすれ声。
もう一度、親父のため息が聞こえる。
つられて見たその顔は、歪みながら笑っていた。
「タカラバタは宝畑だ……村を守っている山の神様そのものだよ。この畑で、俺たちは生きてきた。お前は不思議に思ったことはなかったか? たいした収入源もないのに、村のどの家も豊かに暮らしている。跡継ぎにも困っていない。こんな村が他にあるか? 全部、山の神の守りのおかげだ。それがなくなれば村はなくなる。誰も生きられない。お前もだ」
何を言っている?
この男は誰だ。その隣であやすように微笑んでいる女は誰だ。すべてを知っていて自分への罰を恐れて僕をここに来させた男は誰だ。
ここは……どこだ。
僕はのろのろと踵を返した。
帰るために。
そして立ち止まる。
……どこに?
僕は、どこに帰ろうとしているんだろう。
森の闇が体にからみつく。
鬱蒼とした木々の重なりに吸い込まれてしまったように風はそよとも吹かず、不思議なほどに音のない夜だった。今夜は月もない。
山道には慣れているはずなのに、額にじっとりと嫌な汗が滲み始める。
やっぱり来るんじゃなかった。
「やべぇ! ケータイ落としてきたっ!」
真っ青になって叫んだ兄貴の横顔を思い浮かべたら舌打ちがこぼれた。つい十分ほど前のことだ。こんな日に限って親父と母さんがいない。
「頼む! タカラバタに取りに行ってきてくれ!」
その日、作業中に痛めたという兄貴の足は赤く腫れあがって、立ち上がるのもしんどそうだった。これでは自分では取りに行けないだろう。けど、こっちだって部活から帰ったばかりだ。ハードな練習の後に長い山道を歩くなんて冗談じゃない。
それにそもそも……。
「高校生じゃ、まだ立ち入り禁止だろ。一晩くらい我慢しろよ。ケータイ中毒かよ」
「そうじゃない! タカラバタに農具以外の物を持ち込んだら大変なことになるんだよ!」
「祟りとかか? ……んなの、迷信だろ」
「本当にダメなんだ。お前はまだわからないかもしれないけど、そのうちわかる」
「勘弁してくれよ。だいたい、もう持ち込んだんだからその時点で祟り決定だろ」
「頼むから! 頼むよっ……! お願いだから!」
珍しく必死の形相で頼み込まれて、ちょっと面白くなったのもある。
何をやってもかなわない兄貴。今日は立場逆転だ。
「わかったよ」
そう言ってやったときの兄貴の顔は、ケータイで撮り忘れたのが残念なほどレアな情けない安堵の顔だった。
早く早くと急き立てられて、懐中電灯片手にしかたなく家を飛び出した。タカラバタは裏山の奥深くにある畑だ。行ったことはないけど、兄貴から聞いた道は悪路だが一本道で間違えようもない。
山間にある小さな村。村中が家族のようなこの村で僕は生まれ育った。
村には伝説がある。
八百三十年ほど前、源平合戦で敗れて落ち延びた平家の人間がここへ流れ着き、作った村がこの村で、彼らの悲運を憐れんだ山の神が山中に供物の畑をひとつ作ることを条件に、災いから村や村人を守ってやることにした――というやつ。
どこかで聞いたような昔話だけれど、現代になっても村の人たちは伝説を信じ、「タカラバタ」と呼ばれる供物の畑を耕し続けているからびっくりだ。山の神の祭りも廃れることなく毎年盛大に行われ、大勢のひとが帰省してきて大騒ぎになる。
おまけにタカラバタには幾つかのしきたりがあって、それもまた律儀に守り続けられている。そのひとつを兄貴が破り、おかげで僕まで破らされているわけだけれど。
ようやく獣道のような細道を進みきって――。
はっとした。
目の前に広がっていたのは思ってもいなかった光景だった。大型のビニールハウスが幾棟も整然と並んでいる。村の畑で出荷用の野菜を育てている家でも、こんなに立派なハウスは持っていない。
「……なんだ……ここ」
胸が騒いだ。
なぜだか、来てはならないところに来てしまったような気がした。
いや……本当に来てはならないと言われているところなのだ。
とっとと兄貴のケータイ回収して帰った方がいい。
自分のケータイを取り出して兄貴の番号にかけた。音を頼りにして探す手間を少しでも省こうとしたからだったが。
『おまえ、いま、どこにいる』
すぐに男の低い声がして、僕は慌ててディスプレイを確認した。間違えてどこか別のところにかけてしまったのかと思ったからだ。でも、そこには兄貴の名前が光っている。
「……だれ?」
『いいから、どこにいる?』
「タ……タカラバタ」
観念したような気持ちで答えると、しばらく無言になったケータイから聞きなれた声がした。優しい声で名前を呼ばれて、それなのに冷たい手で背を撫でられたような気がした。
『そのままハウスを回って奥までおいで』
母さんの声だった。
なんで、母さんが?
通話はすぐに切れた。言われた通りに歩き出すしかなかった。
ちらりと見えたハウスの中に、緑の葉を茂らせたおびただしい数の鉢が並んでいる。見たことのない植物。……いや……どこかで……。
わけのわからない不安感が頭をもたげた。
「ここよ」
「……母さん。……親父も?!」
小さな小屋の前。困った表情の母さんの横で、苦虫を噛み潰したような顔の親父が腕を組んで立っている。
さっきの男の声は親父だったのか。……わからなかった。
「親父も母さんも、なんでこんなとこにいるんだ? 今日は街に用があって泊りだって言ってただろ。それにここ、なんなんだよ。タカラバタじゃないのかよ」
「いいからお前はこれを持って早く帰れ。……まったく。こんなもんが他の者に見つかったら殺されるぞ。お前だってどんな目に合ったことか」
殺される? なんだ……それ。
兄貴のケータイを差し出されても、すぐに受け取ることができずに見つめた。
落とした時の衝撃だろう。ディスプレイにはひびが入っている。そのひびが、僕にはひどく生々しく見えた。
「……なぁ、このハウス、何育ててるんだ? 野菜じゃ、ないよな?」
このまま何も見なかったことにして帰るのが、最善の行動なのだろうと気付いている。
でも。
止められない強い力が、僕を押す。
親父がふうっとため息を吐いた。
「そういえば、お前は小さい頃から、察しの良いわりに頑固な子どもだったな」
諦めたように呟くのを聞いたとき。
僕の頭の中で何かがバチっと音を立てたような気がした。そうだ……あれは。
あの、植物は……。
「……大麻」
頭の中からそのままこぼれたように出てきた自分のかすれ声。
もう一度、親父のため息が聞こえる。
つられて見たその顔は、歪みながら笑っていた。
「タカラバタは宝畑だ……村を守っている山の神様そのものだよ。この畑で、俺たちは生きてきた。お前は不思議に思ったことはなかったか? たいした収入源もないのに、村のどの家も豊かに暮らしている。跡継ぎにも困っていない。こんな村が他にあるか? 全部、山の神の守りのおかげだ。それがなくなれば村はなくなる。誰も生きられない。お前もだ」
何を言っている?
この男は誰だ。その隣であやすように微笑んでいる女は誰だ。すべてを知っていて自分への罰を恐れて僕をここに来させた男は誰だ。
ここは……どこだ。
僕はのろのろと踵を返した。
帰るために。
そして立ち止まる。
……どこに?
僕は、どこに帰ろうとしているんだろう。
森の闇が体にからみつく。