今夜の月は
文字数 1,996文字
東の空に月がのぼるころ、私はそっと外を見る。
隣の部屋に住む彼が、影を引きずるように坂を登ってくる。今日も疲れた顔してるのかな。
小銭を握りしめ小走りで外へ向かう。古いアパートの階段を駆け下り、敷地のアーチをくぐる直前に止まって息を整える。
そして彼の足音が近づいてくるのを確かめつつ、ゆっくり一歩を踏み出すのだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶すれば、応えてくれる。
不自然じゃない程度に笑いかければ、同じ感じで微笑み返してくれる。
でも、それだけ。
私はアパートの前にある自販機で飲み物を買う。入れ違いにアーチをくぐったあの人は、階段を上がっていく。
まだ新しそうなスーツの背中を見送りながら考えてみる。
どうしたら距離を縮められるんだろう?
どうしたらもっと色々なことを話す間柄になれるんだろう?
同じ安アパートの隣人に、ストーカー扱いされずにお近づきになるには、いったいどうしたらいいのか。いくら考えても名案は浮かばないから、こんな風に待ち伏せして、すれ違いざまに挨拶することしか出来ないでいる。
せめてもう一言、何か気の利いたことを言えたなら……奥ゆかし過ぎる自分が恨めしかった。
夏が終わるころ。
駅を出て歩き出したら、小雨がぽつぽつ落ちてきた。慌ててビニール傘を買うほどの降りではなかったので、コンビニ前を素通りして、アパートへ帰るべく長い坂を登りはじめる。
午後七時。今夜は就活仲間とご飯を食べてきたので、彼を待ち伏せ出来なかった。
三年と少し前、引越しの挨拶をしに行って、彼のやさしい応対にほっとした。それから見かけるたびに心惹かれて、気がついたら初心者には手に負えない大きさにまで恋心を育ててしまっていた。
今年から社会人になったらしい彼が、どこに勤めているかはわからない。朝早く出て行き、おおむね午後六時過ぎには帰ってくる。残業のない職場なのか、新人だから早く帰れるのか。私は彼のことを何一つ知らない。
歩きながら小さくため息をつき、しっとり濡れてきた髪に手をやり、空を見上げる。やっぱり傘を買えばよかったかな。
「こんばんは」
いきなり声をかけられ、私はびくりと動きを止めた。やさしい響きを持つやわらかい声。聞き覚えがあるどころではない。
どきどきしながらふりかえると、白いワイシャツにネクタイを締めた隣人が微笑んでいた。
「こ、こんばんは」
小さな声で挨拶を返すと、彼はブルーの傘をさしかけてきた。
「風邪ひきますよ」
「えっ?」
「一緒に帰りませんか?」
夢でも見ているんじゃないかと思いつつ、うなずく。
「あの、ありがとうございます」
ちょっと歩いてから、お礼も言ってないことに気づいて慌てて彼を見た。
「どういたしまして」
すぐ近くに顔があり、やさしい目が私に向けられている。頬が火をふいたように熱い。
「大学四年生?」
何でもないことのように彼は質問してきた。
「はい。専攻は日本の近代文学で、今は就活中です」
思わず余計なことまでお知らせしてしまった。
「実家は遠いの?」
「北陸です」
「じゃ、卒業したら地元に帰っちゃうのかな?」
「いえ、こっちで就職したいなって……」
「そっか、よかった」
よかった……?
どういう意味かと隣を見ると、にっこり笑って見つめ返された。どうしよう。胸が早鐘のようにどくどく音を立てている。こんなの心臓に良くない。
「慣れない仕事帰りのこの坂、なかなかキツくて何度も引っ越そうと思ったんだけど」
彼は立ち止まって、私をじっと見た。
「アパートに着くと、きみが笑って出迎えてくれるから離れがたかった」
内側から燃えてしまいそうなぐらい、全身カーッと熱くなってきた。
「なんてね……勘違いだったら恥ずかしいな」
私は必死に首をふって、彼の目を見つめることしか出来なかった。胸がいっぱいで言葉が出てこない。
「いつも挨拶ありがとう。疲れが癒される気がして、きみに会えるとうれしかった」
再び歩きはじめた彼に、私は力の入らないふわふわした足取りでついて行く。
「あ、雨止 んでる」
いつの間にか雲が割れて月が顔を出している。傘をたたみながら、彼が言った。
「月がきれいですね」
唐突すぎて、すぐにはわからなかった。
「……はい。とても、きれいですね」
こんな返事でいいのだろうか。
かつて夏目漱石にそう言われた女性は、いったい何て答えたんだろう。
彼の手が、遠慮がちにあたしの手に触れ、それから思い切ったようにしっかりつかまえて繋ぐ。
息をのんで隣を見上げると、やさしい目をした好きなひとが微笑んでいた。
「きみの下の名前、教えてくれますか?」
(終)
隣の部屋に住む彼が、影を引きずるように坂を登ってくる。今日も疲れた顔してるのかな。
小銭を握りしめ小走りで外へ向かう。古いアパートの階段を駆け下り、敷地のアーチをくぐる直前に止まって息を整える。
そして彼の足音が近づいてくるのを確かめつつ、ゆっくり一歩を踏み出すのだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶すれば、応えてくれる。
不自然じゃない程度に笑いかければ、同じ感じで微笑み返してくれる。
でも、それだけ。
私はアパートの前にある自販機で飲み物を買う。入れ違いにアーチをくぐったあの人は、階段を上がっていく。
まだ新しそうなスーツの背中を見送りながら考えてみる。
どうしたら距離を縮められるんだろう?
どうしたらもっと色々なことを話す間柄になれるんだろう?
同じ安アパートの隣人に、ストーカー扱いされずにお近づきになるには、いったいどうしたらいいのか。いくら考えても名案は浮かばないから、こんな風に待ち伏せして、すれ違いざまに挨拶することしか出来ないでいる。
せめてもう一言、何か気の利いたことを言えたなら……奥ゆかし過ぎる自分が恨めしかった。
夏が終わるころ。
駅を出て歩き出したら、小雨がぽつぽつ落ちてきた。慌ててビニール傘を買うほどの降りではなかったので、コンビニ前を素通りして、アパートへ帰るべく長い坂を登りはじめる。
午後七時。今夜は就活仲間とご飯を食べてきたので、彼を待ち伏せ出来なかった。
三年と少し前、引越しの挨拶をしに行って、彼のやさしい応対にほっとした。それから見かけるたびに心惹かれて、気がついたら初心者には手に負えない大きさにまで恋心を育ててしまっていた。
今年から社会人になったらしい彼が、どこに勤めているかはわからない。朝早く出て行き、おおむね午後六時過ぎには帰ってくる。残業のない職場なのか、新人だから早く帰れるのか。私は彼のことを何一つ知らない。
歩きながら小さくため息をつき、しっとり濡れてきた髪に手をやり、空を見上げる。やっぱり傘を買えばよかったかな。
「こんばんは」
いきなり声をかけられ、私はびくりと動きを止めた。やさしい響きを持つやわらかい声。聞き覚えがあるどころではない。
どきどきしながらふりかえると、白いワイシャツにネクタイを締めた隣人が微笑んでいた。
「こ、こんばんは」
小さな声で挨拶を返すと、彼はブルーの傘をさしかけてきた。
「風邪ひきますよ」
「えっ?」
「一緒に帰りませんか?」
夢でも見ているんじゃないかと思いつつ、うなずく。
「あの、ありがとうございます」
ちょっと歩いてから、お礼も言ってないことに気づいて慌てて彼を見た。
「どういたしまして」
すぐ近くに顔があり、やさしい目が私に向けられている。頬が火をふいたように熱い。
「大学四年生?」
何でもないことのように彼は質問してきた。
「はい。専攻は日本の近代文学で、今は就活中です」
思わず余計なことまでお知らせしてしまった。
「実家は遠いの?」
「北陸です」
「じゃ、卒業したら地元に帰っちゃうのかな?」
「いえ、こっちで就職したいなって……」
「そっか、よかった」
よかった……?
どういう意味かと隣を見ると、にっこり笑って見つめ返された。どうしよう。胸が早鐘のようにどくどく音を立てている。こんなの心臓に良くない。
「慣れない仕事帰りのこの坂、なかなかキツくて何度も引っ越そうと思ったんだけど」
彼は立ち止まって、私をじっと見た。
「アパートに着くと、きみが笑って出迎えてくれるから離れがたかった」
内側から燃えてしまいそうなぐらい、全身カーッと熱くなってきた。
「なんてね……勘違いだったら恥ずかしいな」
私は必死に首をふって、彼の目を見つめることしか出来なかった。胸がいっぱいで言葉が出てこない。
「いつも挨拶ありがとう。疲れが癒される気がして、きみに会えるとうれしかった」
再び歩きはじめた彼に、私は力の入らないふわふわした足取りでついて行く。
「あ、
いつの間にか雲が割れて月が顔を出している。傘をたたみながら、彼が言った。
「月がきれいですね」
唐突すぎて、すぐにはわからなかった。
「……はい。とても、きれいですね」
こんな返事でいいのだろうか。
かつて夏目漱石にそう言われた女性は、いったい何て答えたんだろう。
彼の手が、遠慮がちにあたしの手に触れ、それから思い切ったようにしっかりつかまえて繋ぐ。
息をのんで隣を見上げると、やさしい目をした好きなひとが微笑んでいた。
「きみの下の名前、教えてくれますか?」
(終)