Nothing is too late

文字数 2,301文字

 男はしばらく通りを歩き、最初に目についたバーに入った。午後の店内は客もまばらで、NFLの試合の再放送を映すテレビがぼんやりと薄暗い空間に光を放っていた。男は一番安いバーボンを頼んだ。代金を払おうと財布を取り出すと、紙幣に交じって少し硬い紙のようなものが指先に当たった。どこかの町で客が撮ってくれたポラロイドカメラの写真だった。バイオリンを抱える男とポーズを決める少女。人生に期待することを忘れた男の顔と、人生への期待と希望で作られたような少女の顔。男はカウンターに写真を置き、しばらく少女の顔に見入った。昨日まで毎日見ていた顔だ。それが今ではもう二度と訪れることの無い、かつての思い出の街の様に見える。

「いい写真だな」バーテンが声をかけた。「親戚の子かい?姪っ子さんとか」
「いや、仕事仲間だ」と男は答えた。
「なるほど。可愛い相棒だな。パフォーマンスか何かやってるのか」
「ああ」と男が答えた。「ブレイクダンスがうまいし、なによりプロフェッショナルなプランナーなんだ」
「そうかい、儲かりそうだな」
「ああ、儲かったよ」ウイスキーを一口飲んで男は言った。「でもコンビはもう解散なんだ」
「そりゃまた、なんで?」カウンターを拭きながらバーテンが聞く。
「彼女はダンスの世界に進むのさ。公認会計士の道から離れて」
「随分思い切った転身だな」
「何でもできる子なんだ」
「そうかい」
「さえない中年と遊んでいる暇はないんだよ。未来があるんだ」
「なるほどね」
 そこまで話すとバーテンはまた別の客のところに注文を取りに行った。男はそれから立て続けに数杯バーボンのロックを煽った。旅の疲れがのせいか、友人との再会のせいか、気付けば瞼が落ちかけ、目を開けたまま鼾をかきそうなほどの眠気に襲われた。男はもう一度ポラロイドの写真を取り出し、気が済むまで眺めてから財布にしまった。それから席を立つと体がふらつき、洞窟のような店内がゆっくりと揺れた。
「あんた大丈夫かい?」バーテンの声が背中越しに聞こえた。男は黙って手を上げて、ゆっくりとバーを出た。

 午後の眩しい日差しに目を細め、怪しい足つきで通りを歩くと、大陸横断の道中が脳裏に蘇った。青春が戻ったような時間だった。毎日演奏をして、自分を信じてくれる仲間がいて、ありふれた言葉だが、もう一度自分を信じることが出来た、そんな日々だった。彼女はしばらくあのスタジオにいるのだろうか。いや、あの子のことだから、また何かやりたいことを見つけて、どこか別の場所に行ってしまうかもしれない。そうなる前に、もう一回ぐらい会っておくかな。急いで家に帰る必要はない。遅すぎることは何もない、か。またスプラッタショーをやってもいいじゃないか。いや、あの子のことだからまた新しい演目を思いつくことだろう。次は何をやらされることやら。殺人ピエロの次はエイリアン?それとも合衆国大統領かもしれない。ただし、今回金を回収出来なかったことは黙っていよう。そんなことを考えていると何だかおかしな気持ちがこみ上げてきて、男は声を上げて笑った。久しぶりに愉快な気持だった。
 ふと、少し遠くに怪しい動きをしているピックアップが見えた。赤信号を無視して、交差点を蛇行したあと歩道の消火栓に激突した。それからすぐにパトカーのサイレンが聞こえた。ピックアップはバックでよろよろと車道に戻ってから、ものすごいスピードで急発進した。しかし車体は制御できないまま再び歩道に乗り上げ、気付けば男の目の前に迫っていた。その次の瞬間、男は今まで経験したことのない衝撃を全身に受け、ふわりと空中に舞い上がった。青い空と白い雲が目の前に広がり、それからスローモーションで遠ざかっていった。歩道に叩きつけられても痛みは感じなかった。ただ遠くに、サイレンの音と自分の心臓の音が響いていた。
 まいったな、そう呟いたつもりだったが唇からは言葉の代わりに一塊の血がこぼれた。もうサイレンの音も心臓の音もかすかに聞こえるだけだ。水の中の世界にいるようだった。それから一瞬の間に、もしくはものすごく長い時間をかけて、男の身体はその世界に沈んでいった。

 その頃、少女はアパートの窓際の小さなテーブルで、コツコツとペンを走らせていた。少女が書いているのはショーのアイデアとビジネス計画。男との道中でやったサックスとブレイクダンスのコラボも入っているし、もちろんスプラッタ仕立てのパフォーマンスも。もっとアイデアがたまってしっかりとした計画書が出来たら銀行も話を聞いてくれるかもしれない。クラウドファウンディングでもいいな。いやその前に、これをもう一度あの人に見せよう。あの人がこの街を出る前に、この企画書をモーテルに持っていこう。
 少女は十数枚にわたる企画書を封筒に入れて封をした。それからカーテンを閉め、午後のひんやりとしたシーツの上に寝ころんだ。大きく伸びをして目をつぶるとハイウェイを走る車の揺れを思い出す。砂と岩だけの荒野や、ところどころに浮かぶ緑の木々。街のダイナーで飲んだミルクシェーク。バッファローの群れ。「楽しかった」少女は小さな声でそう言った。それから「終わっちゃったな」と言って枕を抱きしめた。
 しばらく寝がえりを繰り返してから少女は起き上がった。テーブルに置いてあった手紙の封を開ける。それから新しい紙に、大きく   
Nothing is too late!! 
と書いて封筒に滑り込ませた。

 再びベッドに横になるとゆるやかな眠気とともにアストロのエンジン音と振動が暗闇によみがえる。そうして少女の心はまた荒野のハイウェイへと駆けていく。

Fin
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