御殿場線への招待状(御殿場線、南御殿場駅)

文字数 10,441文字

御殿場線への招待状

今日も、私は持っていた原稿用紙を破ってゴミ箱に捨てた。もう、なんだかなと思う。書いてもろくなものが描けない。いつも書こうとするときにわいてくる、すごいものが、今の私には涌いてこないのだ。

そんな私に、夫は、少し休んだらどうだ?なんてにこやかに言ってくれた。そこだけは私も感謝している。そういう寛大な人でなかったら、女である私にこういう仕事は務まらない。

結婚した時もよく言われていたけれど、繭子さんは、特に、主人に稼いでもらっていることを、忘れないで頂戴よ、と、年寄りたちはよくまくし立てた。男がこういう仕事をしていると、かっこいいなんて、若い人も絡んでくるが、女である私がこういう仕事に就くと、あまり好感は持たれないようである。それよりも、たくさん子供を産んでいる私の姉のほうが、この地域では尊敬されているようだ。結局、女にとって、一番すごいことは、子供を作ることか、私は、そんなことで名声なんかほしくないと、母や姑に反抗したこともあったが、今となっては、そっちのほうが正しいなと思ってしまう。

そういわれないように、大作を三本も書いた。単行本は、598ページにもなる大長編となった。現実からかけ離れた、いわゆるファンタジーというものであって、テレビゲームを生き写しにしただけで、何も意味がないと批評する文芸評論家もいたが、それなりに売れた。映画化とか、テレビドラマ化されたわけではないけれど、私は、本を書いて収入を得て、やっと、一人で自活するという、夢をかなえることはできたので、あまり批評家のことは気にしなかった。

しかし、大作三部作を書くと、そのあとどうなっただろう。それ以上書きたいものが出たわけでもないし、良いセリフが浮かんできたわけでもない。いつも原稿用紙に向かって、一生懸命格闘するのみ。相手といえばこの自分だ。そして、何か閃いても途中でわからなくなり、ああ、もう!と怒鳴って、原稿用紙をゴミ箱に投げ捨てるのである。

川崎繭子はもう終わった。

テレビや雑誌などで、そう嘆いている声が聞こえてきそうでこわかった。

「繭子。」

ふいにガチャンとドアが開いて、夫が入ってきた。

「そんなに自分を追い詰めるなよ。ちょっと一人旅でも出てみればいいじゃないか。例えば、山奥の温泉に行ってみるとか。」

夫は、そういうところは本当に優しかった。私は日ごろから、いい迷惑だと言っていたが、今日ばかりは、そういうわけにはいかなかった。

「そうね、行ってみたいけど。」

「お前は、燃え尽きたんだよ。あ、でも悪い意味じゃないよ。あんな大作を無理やり書かされて大変だっただろ?それなら、少し休んだほうがいいよ。そうすれば、また何か書けるようになれるさ。今は、少し休めと言っているんだよ。」

「誰がよ!」

夫は、変なところで信心深い人で、時折神仏のことを持ち出してくる癖があった。

「すくなくとも、俺はそう解釈することにしている。変な時に仕事ができなくなったときは、神様が休めと指示を出しているとな。そして、そういうときは、静かに従うべきだと思っている。」

「男の人っていいわねえ。一生懸命働いているって、みんな知っているでしょ。それだから、たやすく休めるのよ。でも、女は食事の支度とか、親の介護とか、そういうことをみんなしなきゃならないから、休もうと思ったら、もうみんなから文句たらたらよ!」

姉と同じセリフを私は言ってしまった。姉はよく、男の人はお金を稼いでいるという意識があるからか、具合が悪くなればすぐに休ませてもらえるけど、女は子供たちの面倒でそうはいかない、なんてよく愚痴を言っていた。だからやっぱり女は、こういうコンプレックスがあるのだろうか?

「そんなことないよ。うちの家はまた別だろ?子供もないし、介護する人もいないし、いつでも君の仕事は好きなようにできる。だから、そんなことは気にしないで、いつでも休めばいいのさ。」

私は、夫にそんなことを言われて、大きなため息をついた。

「結局のところ、私はどうしたらいいわけ?」

「結論から言えば、少し休むことだ。どこかの温泉でもゆっくり入ってのんびりすること。あ、そうだ、会社の同僚に聞いたけど、御殿場にすごく大きな温泉施設ができたそうじゃないか。そこで、二、三にち、滞在してみたらどうだ?」

「わかったわ。」

結局、私は、夫に従うことにした。

翌日、夫の車で、私は自宅から一番近くにある、最寄り駅、国府津駅まで送ってもらった。駅に着くと、そそくさと夫は帰っていった。べらぼうに広い駅で、私は一人になった。

どこへ行きたいかなんて考えてもいなかったけど、私は、人が多くいる東海道線には乗りたくなかったので、あまり人のいない、御殿場線に乗ることにした。確か、温泉施設は、御殿場駅から、迎えに来てくれるはずだ。

御殿場線は、東海道線に比べてがらがらだった。だんだんに都会の風景から外れて、田舎の田園風景になっていった。そして、周りは森ばかりの山岳地帯へ来た。スピードのないローカル線は、なんとも心地よかった。外の風景をぼんやり眺めていると、私は次第に眠くなってしまって、どこを電車が走っているかなんて全く分からなくなってしまった。

目が覚めると、電車はある駅で止まっていた。なんとなく御殿場という声が聞こえてきたようなので、急いで私は電車を降りた。駅の表示板に「ごてんば」と書いてあるかと思ったら、

「みなみごてんば」と書いてある。確か温泉施設は御殿場駅からシャトルバスが来るはずだった。ここは御殿場ではなくて、南御殿場。ああ、降りるところを間違えてしまったか。

仕方なくというか、いつまでも駅の中にいては怪しまれるような気がしたので、私は改札口へ行って、駅の外へ出た。

そこは、都会とはえらい違いの田舎町であった。すごく大きな建物があるわけでもなく、民家ばかりが立ち並んでいる。その中に小さな飲食店のような建物があった。よく見ると、「おひるごはん始めました。」という貼り紙がしてあった。もうそんな時間か。

この店では何か食事ができるのだろう。お昼ご飯というのだから。何を売っている店なのかはわからないが、そこへ入ってみることにした。

店のドアを開けると、店内は静かな邦楽が流れている。作りは意外に高級店であった。気軽に入れるカフェというよりかは、小規模な料亭に近い。ただ、私が見る限り、一見さんお断りという雰囲気はない。以前、私は出版社の人と話したときに、料亭をつかったことはあった。なので、大体の雰囲気は知っていたというだけであるけど。

「いらっしゃいませ。」

暇そうな感じで、店長さんと思われる男性が声をかけた。

「ご予約でございますかな?」

「いえ、予約はしてないんですけど、、、。それともこちらは完全予約制のお店ですか?」

私は思わず聞いてしまうが、

「大丈夫ですよ。ご予約のお客様もいますけど、そうでないお客様もおられますからどうぞ。」

店長さんは優しく、にこやかに言ってくれた。

「どこへ座ったらいいのですか?ここは予約席とか、あるんですか?」

「いえ、気にせずに好きなところへ座っていただければ結構です。」

店長さんに言われて、私は、人目に付きにくい、一番奥の席に座らせてもらった。

「はい、どうぞ。」

店長さんは、水と、お品書きをもってきてくれた。それを開いてみると、何が何だか訳の分からないメニューばかり。とりあえず、都内のエスニック料理店で食べた、ビーフンとフォーは理解できたが、ほかのものはすべてまったく知らない名前である。バンティアオ、フーティウ、クイアティオ、クイティウというように、いったいこの店は何を提供してくれる店なんだろうか?

すると、店のドアがガチャンと開いた。

「すまんすまん。電車に乗り遅れて、予約した時間の30分遅刻してしまった。もう、ほかのお客さんに席を取られているかもなんて噂していたが、やっぱり、ガラ空きなんだねえ。」

入ってきたのは一人の車いすに乗った男性だった。不思議なことに、彼は和服であった。もちろん詳しい人であれば、もうちょっと和服のことをしっかり説明できるんだろうけど、そういうものに縁のない私は、何も説明できなかった。着物はわけのわからないことが多いので。

「おう、杉ちゃん。よく来たな。しかし、急に予約の電話をしてくるから、おじさん、びっくりしたよ。今日は、ときのすみかのイルミネーションでも見に来たのかい?それにしては時間が速すぎると思うのだが?」

杉ちゃんと呼ばれた人のしゃべり方は強烈で、なんだかやくざの親分みたいなしゃべり方だった。私は少し怖くなった。

「理由なんてないんだけどね。こいつがどうしても、さいごにビーフン食べたいっていうもんで。ほらあ、覚えていないかい?ビーフン大好きな、天下一の美男子。」

も、もしかしたら、暴力団が若頭でも連れてやってきたのだろうか?そういえば、暴力団の組長が和服を着ているのは、テレビでも見たことがある。

そして、そのさいごにという四文字がとても重大な文字であることを、私は知らなかった。

「覚えてるよ。ビーフン大好きというか、それがないとだめになってしまう、いわばビーフンが命綱のような人。」

店長さんも、感慨深そうに言った。

「よし、覚えていてくれたみたいだな。じゃあ、入れ。」

杉ちゃんという人が外へ向かって言うと、

「はい。わかりました。じゃあ、水穂さん、俺が支えますから、ゆっくり歩いてみてください。」

続いて二人の男性が入ってくる。やっぱり二人とも和服姿である。一人は、私の夫よりもずいぶん不細工な男性であるが、彼に肩を貸してもらっている男性は、そう、たとえて言えば

砂糖菓子のような甘い印象がある、文字通りきれいな人であった。強引にたとえて言えば、

「わあ、本当にきれいな人。妖精の国の王子様みたい。私なら、小説のキャラクターにしてしまいたい。」

と、言ってしまうほど、現実離れした美しさだった。

「水穂さん、座りましょうか。とりあえずここに。」

肩を貸してやっている男性がそう語りかけると、彼はその人に支えてもらいながら、一番手前の席に座った。というより、崩れ落ちた。

「お品書き持ってきたよ。おいおい、大丈夫なのかい?」

店長さんまで心配している。

「まあ、見てのとおりよ。あんまりにも夏が暑いのと、いつまでも梅雨時みたいななまったるい天気ばかり続いているもんで、こんな風に弱っちまった。天候ってのは残酷だなあ。」

と、杉ちゃんという人が説明した。店主さんは、その彼の姿を見て、一瞬茫然としてしまったようである。

「そういうことよ。こっちへ来るときもさ、もう僕と二人だけでは心配なので、誰か歩ける奴についてもらってくれと、命令までされる始末なのよ。だからこのブッチャーに来てもらった。つらいことだが、仕方ないので受け入れている。」

その、ブッチャーと呼ばれた体の大きな男性は、

「はい。俺はあんまり連れ出すのはどうかと思っていたのですが、布団の中にずっと寝かしておくのもかわいそうだとは思ったんで、ちょっとでもよければ、こうして連れ出すようにしよう、と、考え直しました。」

と、小さくなっていった。

「そうかい。じゃあ、どんどんうちの料理を食べて元気になってもらわなきゃな。もう沼津で見かけた時よりも、かなり窶れているもの。少なくとも、衣紋を抜いて着るようなことはしていなかったような気がする。」

店長さんがそういっているのを見ると、この三人は、顔見知りの関係ということがわかった。なんだか、その大切な時間を邪魔してしまっているだろか?と私はおもった。

「それよりも、あのかわいい姉ちゃんの注文はすんだのか?」

杉ちゃんは、私のほうを見て、店長さんにそんなことを言っている。かわいい姉ちゃんって、私はもう、40代の後半だ。当の昔におばさんである。

「あ、そういえばそうでした。すみません。ご注文は決まりましたか?」

店長さんが私に向かって声をかけた。

「ここはな、量が結構あるからな、女はミニサイズで頼むといいよ。それだけでも、姉ちゃんには十分すぎる量だぞ。」

杉ちゃんは私にそういう。と、いうことは悪い人ではないらしい。こうしておせっかいをしてくれるのだから。

「すみません、ここにあるカタカナ単語の意味は何でしょうか?ハンティアオとか、フーティウとか、これはいったいどういう食べ物なんでしょうか?」

私は思い切って、杉ちゃんにそう聞いてみる。

「あ、それはね、みんな米粉で作られた麺のことなんだ。」

つまりライスヌードルか。それならそう書いてくれればいいじゃないか。

「できるだけ、本物に近い麺を提供したくて、現地語で表記してあるんだよね。ほらあ、こうして困っちゃう人が出るだろ?できるだけ早く、料理見本を作ってあげな。そうすればもっとたくさん客が来るようになるよ。」

こういう注意をしてくれるのだから、たぶん極道ということはなさそうだ。脅かして、お金をゆすり取ろうとか、そういう雰囲気はまったく見られない。

「姉ちゃん、早く何を食いたいか言ってごらん。僕らはこいつが落ち着くまで、時間がかかるからな。」

と、杉ちゃんは言う。

「ごめんなさい。私、こういうものを出すお店は初めてで、よくわからないの。だから、あなたたちが出してくれたのと同じものを注文することにするわ。」

「あ、そうか。じゃあ、そうするか。えーと、僕はカレービーフン。水穂さんに豆もやしビーフン。あと、ブッチャーは?」

「じゃあ、俺は焼き肉入りビーフンでいいですかね。」

私が尋ねると、杉ちゃんたちはすぐ注文を出した。そこで私は、水穂さんと同じ、豆もやしビーフンを注文した。

「せっかく、大好物のビーフン食べに来たんですから、しっかり食べましょうね。」

例のブッチャーと言われた不細工な人が、水穂さんにそう話しかけた。

「そうだぞ。もういらないなんて言ったら、怒るからな。」

杉ちゃんに言われて水穂さんはようやく、

「はい。」

と、だけ言った。

それにしても、なぜこの二人は、彼をここに連れてきたのだろうか?その後、杉ちゃんとブッチャーが世間話を開始したが、水穂さんは相槌さえ打つこともできず、椅子にもたれたままであった。

座ってるのも、辛そうじゃないの。なぜ放置したままでいられるの?変だわ、もしかして?

私が、そんなことを考えていると、

「はい、カレービーフンね。」

杉ちゃんの前にお皿がおかれた。

「焼き肉入りビーフンのお客様。」

ブッチャーの前にも、焼き肉入りビーフン。

「そして、豆もやしビーフンです。」

水穂さんの前に豆もやしビーフンがおかれた。続いて私の前にも、同じものがおかれた。

「よし、食べようぜ、いただきまあす!」

杉ちゃんもブッチャーも、おいしそうにビーフンにかぶりつくが、水穂さんだけが箸をとったものの、ビーフンに手を付けようとはしない。

「食べんのか?」

「杉ちゃんごめん。食べれない。食べる気がしない。」

杉ちゃんに聞かれて、弱弱しい口調で水穂さんは答えた。

「だって、電車の中では何とか食べられるって言ってたじゃないですか!」

ブッチャーがそういっても、食べる気はしないらしく、箸を持ったまま、そのままの姿勢でいた。

「食べる気がしないなんて、贅沢言うもんじゃないよ。昔の人は、食べものを粗末にすると罰が当たるなんて言ってたけど、名言じゃん。今でも正解だと思う。無理をしてでも食べなくちゃ。ほら、食べろ。」

杉ちゃんのいう通り、昔の人はそういうことを口にしていた。飽食の時代と呼ばれる現代、栄養ドリンクのような食べ物ではないけれど、栄養のあるものが横行しており、食べることを軽視している人が多いのを、私は知っていた。私も、一時期それで命をつないだこともある。でも、ここにいる水穂さんはそういう人ではなかった。明らかに栄養が足りないことを示すほど痩せていた。

何か事情でもあるんだろうか?単なるダイエットのし過ぎから、エスカレートして、ここまでがりがりに痩せてしまったのだろうか?ときに、入院まで必要になるほどダイエットにはまりすぎてしまった人の話を聞いたことがあったけど、、、。

急に激しくせき込む音がして、私は一瞬ぎょっとしてしまう。

「あーあ、またやる。これからは咳で返答するなんて、しないでもらいたいと、何べん言ったら気が済むんだろうか?」

杉ちゃんもブッチャーも、こういうことに慣れてしまっているのか、何も驚かなかった。でも、こういう光景は、時代劇でもなければ見られないと思われる、実に古臭い光景であった。

その証拠に、水穂さんが吐き出したものは、印鑑の朱肉そっくりな朱色で、赤黒い色ではなかった。

「杉ちゃん、今回は失敗だ。なんとしてでも食べてもらいたくて、ここへ連れてきたけれど、かえって負担のほうを大きくさせてしまったかな、、、。」

ブッチャーは、水穂さんの背をさすって、そんなことを言っていた。

私も、何とかしたいけれど、こういう光景は、少なくとも明治生まれの人でないと、目撃したことはないと思うので、どうしていいのかわからず、そのままでいるしかなかった。

しかし、この時は比較的軽度で、さほど大量ではなく、数分でストップした。

「帰ろうか。そのうち、大きいのが来るかもしれないからな。」

杉ちゃんがそういった。

「でも、俺、無銭飲食はしたくないので、食べてからでもいいですかねえ、、、。」

ブッチャーはいかにも、礼儀知らずというか、食いしん坊な発言をした。確かに、注文までして、食べずに帰るのはおかしいので、二人はろくに味わうこともなく、ビーフンを食した。たぶん、きっと作戦が失敗して、がっかりしているんだろう。

「よし、帰ろう。駅まで歩かせるのもきついよ。だから、長距離タクシーでも使おう。」

杉ちゃんがそういう通り、駅へ歩かせるのも、電車に乗るものきついだろう。それに、電車は30分に一本しかないし、待っているのもつらいだろう。

「わかった、俺、呼び出してくる。」

ブッチャーはスマートフォンで電話をかけ始めた。ここは田舎だから、そういうシステムは、割としっかりしているのだろう。そこは私も知っている。田舎のほうが権力者のいうことが浸透しやすい。

ブッチャーは電話を切ると、店長さんに、

「無銭飲食のようですみません。今日のお勘定です。」

と、五千円を渡した。店長さんはしっかりお釣りをわたし、

「体調良くなったら、また出直してきてね。来年の春には、駅の周りに桜が咲きますからね。」

と、水穂さんに語りかけた。しかし、彼はそっと首を振り、

「もう無理でしょう。来年の桜なんて、見れそうにありません。ごめんなさい。最期に、お別れしたくて、こちらに来させてもらいました。」

といった。その一言が、私にとっては衝撃的であった。

「僕、タクシー待つために外へ出てるわ。」

杉ちゃんは、外へ出て行った。ブッチャーも、どこかへ連絡をするのかスマートフォンをもって外に出た。たぶん、私が聞いたら困る内容だったんだろう。私はそう解釈している。

だから、事実上、店長さんと水穂さんだけが店に残っていた。

「そうか、最期にビーフンといったのは、そういう意味だったんだね。」

店長さんは、水穂さんに話をしたかったようで、椅子に座った。

「でも、僕の人生って何だったんでしょうね。音楽学校なんていって、演奏したのはわずか二、三年で、そのあとはずっと床の上でした。だから、もうここで最期となっても構わないのですよ。少なくとも、周りの人の負担は一つ減るでしょうしね。」

水穂さんは、そう自虐的に言った。

「いえ、それは間違いだよ。そっちばかりを強調させてはいかん。君はほかの人に、ちゃんとたくさんの思い出を作ったと思うよ。それはおじさんもよく知ってるから。」

店長さんがそういうと、水穂さんはしばらく黙ってしまった。たぶん何か、ほかに言いたいことがあったのだと思うのだが、そこは言うべきではないと考え直したのだろうか。

「逝くときはみな一緒だよ。必ず誰かに思い出を残していくもんだ。うちの息子なんて、15年も生きなかったけど、口に出して言えないほどの思い出を残していった。もう、いくら紙があっても書ききれない。」

それなら、私が散々苦労して書いた、500ページ以上の単行本も、簡単にかけてしまうということだろうか?

「何をおっしゃいます?思い出なんて何もないですよ。ただ床に伏して、多くの人に迷惑をかけて、愚痴の材料を作っただけです。こういう人間はそれしか提供できません。」

「いやいや、うちの息子だって、最期はずっと寝たままだったけど、それでも、思い出というものはあるよ。もしかしたら、その一日一日だって、重大な思い出だったのかもしれない。」

店の隅に、金属バットがおかれていた。

「あれでプレーしたのは一回だけだったけど、あの時の笑顔は忘れられないよ。」

バットの隣には、野球に関する漫画が大量に置かれていた。息子さんは、本当に野球が好きだったのだろう。私は、野球には詳しくないけれど、なぜかテレビでは、大体的に報じられるスポーツである。

「もうねえ、野球のことを考えるとね、息子がそばにいるような気がしてね。君もそうだったのではないの?君の演奏はきっと何か印象に残っているのではないかな?」

「そんなことありません。働かざる者食うべからず。そういうことです。」

水穂さんは、また、自虐的に言った。

「早く、タクシー来てくれるといいのにね。」

と、店長さんは言った。

「でもね、試合内容なんてどうでもいいのにさあ、時折テレビで野球が放送されるとさ、なんだか息子がそばにいてくれるような気がするんだよね。だから、野球中継をどうしても見ちゃうんだよ。」

「それがどうしたんですか。」

「だから、そういうことは必ずあるんだよ。だから、自分のことを要らない存在なんていってはいかん。必ず何か、つながっているものはあるんだけどなあ。」

「すみません。」

水穂さんはそういってまたせき込みだした。

「いいよ、謝らなくたって。あんまりしゃべらないほうがいいよ。じっとしてろ。」

にこやかにそういう店長さん。

「おーい、タクシー、やっと来たぜ。早く行こうよ。」

杉ちゃんが、改めて声をかけた。

「どうもありがとうございました。きっとこれで最期になると思いますが、ビーフン、食べられなくて申し訳ありません。あと、テーブル、汚してしまってごめんなさい。これで、塗りなおしてください。」

水穂さんは、一万円札を店長さんに渡したが、

「いいよ、来てくれただけでそれで十分さ。」

店長さんは、もう一度にこやかに言って、それを受け取らなかった。

「また来てね。」

水穂さんは困った顔をする。

「そういわせてくれないかな?」

店長さんは、そういう。水穂さんも、答えを考えるのに少し迷ったようだが、

「はい。また来ます。」

とだけ答えた。

ブッチャーに支えられて、店を出ていく水穂さんは、突然、奥の席にいた私のほうを見て、

「ご迷惑おかけしました。もう、ここへ来ることはないと思いますから、気にしないで食べて行ってくださいませ。」

と、一言言い残し、店を出ていった。

店の中には、事実上、私一人になった。

そのあとのことは、私は記憶していない。あの後どうやって、国府津の自宅に帰ってきたのか。ただ、覚えていたのは、二度と見ることはできない美しい顔をした男性と、その相手をしていた店主さんとの会話だけである。

店主さんが言った、野球の話は、今も、というかいつも頭にかみしめている。

内容はどうでもいいが、息子さんのことを思い出すために、野球を見ているのだと。

私が、目指すのはそこではないだろうか。

これまでは、本の内容ばかり考えて、肝心のものを忘れていた。本を書くということではなく、誰かの思い出つくりの道具を提供してあげるのが、私たち書く人の使命ではないか。

それを目指して、私は今日も文書を書き続けている。

何か、思い出を作らせるために。

正確には誰かの思い出のそばに、私の書くものがあってほしいがために。

あの時、食べたビーフンは、もうかなり時間がたっていたせいか、すっかり冷めてしまっていたし、ビロビロにのびてしまっていた。けれど実においしかった。本当においしかった。そこだけは、はっきり記憶している。あの店にいって、良かったと心から思っている。

そして、もし疲れたら、時折、御殿場線に乗って、どこかへ行けたらいいなあと、私は時々思うのだった。その招待状をくれた、私の夫は、今日ものんきにサラリーマンとして生活を続けている。本当にのんきな人だなあと、周りの人は言うけれど、ほんとにこの人、何をしているのかなと、いつも言われるのだった。

それでいいじゃないの。

幸せに生活が送れるから。

そう信じている。

それでいいと。

そして、いつも通りのことをしているのが、私ができる一番の感謝なんだろうなと、私は、思うのだった。
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