異世界転生

文字数 6,721文字

 表通りから二つ逸れた道沿いに構えられた小さなバーは、外装こそ儚げなみすぼらしさを漂わせていたが、店内は綺麗だった。大抵のバーは、その店内の薄暗さから、細かなところの掃除が行き届いていないことが常なのだが、この店は埃一つなく清潔だった。

 僕は一番端のカウンター席に座る。店主にウィスキーを頼む。

 店内を見回してみても、とても繁盛しているとは言えそうになかった。僕の他には反対側のカウンター席に一人、ボックス席に二人の客しかいない。時計を見る。時刻は既に二十三時を回っている。表通りから人が流れてきてもおかしくない時間だ。

 そんなことを考えていると、入り口のドアがカラン、と乾いた音をたてる。チラ、と目をやると、長い黒髪を濡らした女性が立っていた。店主が様子を見かねてタオルを渡すと、彼女は「ありがとう」と言って、髪を縦にし、タオルを押しつけるようにして水気を払った。

 彼女と目が合う。すると彼女は電車通勤をしている人みたいに一直線にこちらへ向かってくる。僕が気づかないふりをしていると、彼女は言った。「小林君でしょ? どうして気づかないふりなんてしてるのよ」

 彼女は僕の隣に座る。彼女の冷ややかな体温が冷気となってこちらへ伝わってくるようだった。

「君と小林君には悪いんだけど、どうも人違いらしい」

 彼女はもう一度こちらを見る。今度は無表情のまま、僕の顔を鑑識するみたいにじっと見つめる。僕が目を逸らすのもおかしな話だと思ったので、必然的に僕も彼女の顔を見つめる。まつ毛が長く、鼻が小さい。美人とは言えない普通の顔立ちであったが、薄白い化粧は彼女の顔の特徴にあっているらしく、魅力的な容貌をしているとも言えた。

 五秒くらいそうしていただろうか。彼女は口を開く。

「嘘ね。だって、黒子の位置も同じだし、声の高さとか、話し方とか。雰囲気も、小林君そのものだもの」

「それなら僕はその小林君って人なのかもしれないな」

「面白いことを言うのね。否定するのが面倒くさくなっちゃった? 気まずいものね。あなた、そういうところあるし」

 初対面の全く面識のない女性に、自身がどういう人間なのかを言い当てられるというのはとても違和感のある体験だと思った。「冗談は置いといてさ」

「僕は本当に、君の知る小林君じゃない」

「本当なの?」

「本当」

 彼女はもう一度だけ僕の顔を見つめる。「へえ、他人の空似もここまでくると不気味ね」と言ってコートを店主に預け、ワインを一つ注文した。席を移動する気配はなかった。

「家に帰ろうと思ったら、ものすごい雨が降ってきて、すごかったのよ。大粒の雨。あんなの初めてだわ。地面にこれくらいの大きさの雨跡がついてるの」と言って彼女はオーケーのハンドシグナルを作るように人差し指と親指の先をくっつける。「雨が止むまでの間、少し話し相手になってくれないかしら? かなり角度のついた雨だったから、すぐに止むとは思うんだけど」

 僕は少し考える。そして、ウィスキーに口をつける。グラスを置くと、カラン、と氷の音が鳴った。「まあ、僕は構わないよ。どうせここにも時間を潰しに来てるだけだしね」と僕は言う。「ならよかった」と言って彼女も店主から手渡された赤ワインを一口飲んだ。

「あなた、街の噂については詳し方?」

「こんな場所に通ってると、まあ少しは」

「そう。なら、勇者の末裔のことも?」

「最近はそんなことばっかり聞くね」

「あなたはどう思う? 魔物の活動が活発になって、治安が悪くなるだとか、魔王復活の因子がどうだとか」

 僕は自分が彼女に腹を立てていることが分かったので、もう一度ウィスキーを胃の奥に流し込む。彼女は頬杖を突きながら、お金の枚数を数える時みたいに目を細めて言った。「嫌になっちゃうわね」

「何故だか分からないけど、今日はとても君と話したい気分だ」と僕は言う。彼女は驚いて顔を上げる。「下手くそなナンパ」

「これから話すことは、甚だ意味が無くて、あまりにも馬鹿げた話だ。聞いてくれるかな」

「もちろん。そういう話は好きよ」

「ならよかった。ちょっと難しい話なんだけど」と言って僕は一呼吸開ける。「僕が初めてRPGゲームを買ったのは小学四年生のときだった」

「ゲーム? 小学?」

 僕の予想通りの彼女の反応に、僕は頷く。「ゲームってものは……ちょっと説明しづらいけど、僕の存在しない、現実とは全く異なった架空の世界を体験できる道具だと思ってくれたらいい。小学っていうのは僕の言葉のミスだ。十歳くらいだと考えてほしい」

「へぇ、架空の世界を体験する道具」彼女はおもむろに咀嚼するよう僕の言葉を繰り返した。「素敵な道具ね。そんなものがあったなんて知らなかった」

「その架空の世界っていうのは、空が飛べたり、魔法を使えたり、魔物を討伐したりして、最終的に魔王を討ち取るっていうストーリーだったんだ」

「なんだ、意外と夢が無いのね。現実的。もっと突拍子もない素っ頓狂なことができると思ってたわ」

 彼女は一気にワインを飲み干す。そして再び店主に注文をする。どうやら先ほどから少しずつ席が埋まっていたらしく、店内は割合に賑わっていた。煩わしいと言うほどの喧騒ではなかったが、隣の客の声が気にならないくらいの程よい雑音だ。聞き流しのラジオをかけている感覚に似ている。

 僕は彼女に対してほんの淡い希望を抱いていたが、そんなものは彼女の髪に滴った水分と共に、とうに雲散霧消していた。

「この世界は僕か、僕以外でしかない」と僕は言う。「この世界は、別の世界で十歳の僕が体験した、そのゲームを基に作られた架空の世界なんだ」

 彼女は二杯目のワインを口に含む。雨に打たれて、たまたま入った店先で知人によく似た男が突拍子もなくこんなことを口にしたのなら、僕だったら間違いなく席を立つ。我ながら的を得ない発言をしたと思っているが、彼女はグラスを置いて言った。「面白いじゃない。続けて」

「僕がもといた世界……。ここじゃない、僕の認識では、架空ではない、と思える世界。ゲームというものも、その世界にしかないと思うから君が知らないのも無理はない。そこで僕は今、昏睡状態に陥っているんだと思う。何らかの事故で、何らかの重大な欠損を身体に抱えて。でも、正確なことは分からない」

 彼女は少し考える仕草をする。

「今、私とあなたが話しているこの空間は、その別の世界で昏睡したあなたが見ている夢のようなものだってこと?」

「理解が早くて驚くよ」

「言ったでしょ? そういう話は結構好きなのよ。でも、別にあなたの夢というか、想像の世界ではないんじゃない? あなたが死によく似た死以外の別の結末を迎えて新たにこの世界に来たとか」

「いや、それは無いと思う。ただの感覚だけどさ。それと、この世界と僕が実際の頃に体験したゲームの共通点が多すぎる」と僕は言う。「他にも、この世界の人たちも皆、僕が向こうの世界で会ったことがある人たちだと思う。親友や恋人だったかもしれない人もいるだろうし、街ですれ違っただけの人もいるだろうけど」

「なら、私の存在はまるっきりあなたの想像という訳でもないみたいね」と彼女は言う。「それにしても、随分と変な話をするのね」

「それは僕も承知しているよ。だから滅多にこの話はしないんだけど……。君を見たら、何だか話したくなった」

「誰にでもそう言っている訳じゃなさそうね」と彼女はクスクス笑う。「あなたの言う世界では、私とあなたはどんな関係だったのかしら」

「それは分からないな」

 彼女は揶揄うように言う。「本当に私を口説くつもりがないみたい」

「本当に君を口説こうと思うなら、出会ってすぐにこんな話はしないさ」

 彼女は頬杖を崩して両手を重ねる。「それもそうね」

 僕は彼女が持つ赤ワインのグラスを眺める。闇を含んだ真紅の液体は、気味が悪い程透き通っていた。薄いオレンジ色の照明を吸収して鈍く光っている。

「ワインも」と僕は言う。「他にも、ワインがそうだ。僕はウィスキーについての記憶なら幾らか持ってるけど、ワインについては一欠けらもない。きっとあちらの世界では僕に馴染みがなかったんだ。君はどう思う? もし僕の仮説が正しかったら、きっとワインはみな同じ味がすると思うんだけど。僕はワインの味なんて区別できないから」

 彼女はきょとんとして、ワインを持つ手を揺らす。「確かに、そうかもしれない」と彼女は言う。「正直に言って、私もワインの良し悪しなんて分からないわ。でも、それはあまり関係のなさそうな話ね」

「僕も話している途中でそう思った。根拠がない。気を悪くしたのなら申し訳ないよ。まあ、夢の中でも美味しいウィスキーが飲めるなんて、ついてる話ではある」と僕は言って、グラスを空にする。

 彼女は身を乗り出して僕の方を見る。小さい背丈の分、行動が実際よりも大きく見えた。「なら、あなたはある意味全知全能ってわけ?」

「理論上はそうだと思う。僕の頭から構成された世界なんだから、僕の知らないことなんて、ない」と僕は言う。「でも、それは僕が自分の脳を完全にコントロールできるっていう条件が成り立っていればの話だ。どれだけ小さな記憶の残滓が、世界の構成に紛れているかも分からない」

「なら結局、私たちと何ら変わらないわけだ」

「そうなる」

 何人かの客が一斉に席を立つ。僕は窓の外に目をやる。雨は止んでいるらしかった。先ほどから天井を打っていた雨の音も聞こえない。「雨、止んだね」と僕は言う。「あら、本当」と言って彼女も窓の外を見る。しばらく僕たちはそうやって窓の外を見ていた。

「興味深い話だから随分聞きこんじゃった。もっと聞いていたい。社交辞令じゃないのよ?」

 僕は笑う。「君が聞いてくれるなら」

「そう? なら丁度、おうちに美味しいワインがあるんだけど。お腹が空いてるならピザも焼いたげる。得意なの」

 僕は時計を見る。長針は五十五分を、短針は二十三時を指していた。

「なら、お言葉に甘えようかな。美味しいワインが楽しみだ」

店主は忙しそうだったので、代金は飲み干したグラスと共に置いておく。僕と彼女は雨の冷気をまとった十一月の夜の街を歩いた。



       〇



「どう? お口に合えばいいんだけど」と彼女は言う。

 僕はワインと一緒に彼女が焼いたピザをいただく。「うん。とても美味しい」と僕は言う。「それにしても、驚いたな。普通、一人暮らしをしている部屋に、ピザ窯は置いていない」

 僕はキッチンの傍らに立つ彼女の方を見る。彼女の背後にはキッチンスペースの半分以上を占める大きなピザ窯が構えている。

「皆、同じ反応をするわ。まあ、ちょっと事情があってね。ピザ窯付きの部屋が格安だったから」

 彼女はピザを食べる僕を横目にベッドの上に座る。そして、枕の横に置いてあった知恵の輪をくるくると弄んだ。

「君は食べないのかい?」

「お腹、空いてないの。それに、自分のピザなんてもう飽きるほど食べたから、食欲もそそられないわ」と彼女は言って、ベッドの脇に置いてある小さなテーブルの上のグラスにワインを注ぐ。

 彼女はワインを一口飲んで、横臥したまま言った。「もっと、聞かせてよ」

「こんな話、面白いかな」

「あなたが話したくなったんでしょう?」

「それもそうだけどさ」

 僕はゆっくりとピザを食べる。特別なことなんて何もない、小さなマルゲリータだ。クラフトが少し厚い。

 外ではまた雨が降りだしていた。閉めたカーテンの奥からぴしゃぴしゃと窓を打つ音が聞こえる。

「さっき、別の世界での君との関係は分からないと言ったけど」と僕は言う。彼女はこちらを見ずに「うん」とだけ言う。

「僕の、別の世界の記憶は、そう多いものじゃないんだ。ゲームの話だけは特殊だけど、他には、いくつかの静止画が断片的に思いだせる程度でしかない。不思議な感覚だよ。それで、その静止画の中に何枚も、君が写ってる」彼女は何も言わない。「その中で、君は笑ったり、泣いたり、怒ったりしてる。正直、君があのバーに入ってきたときは、呼吸も忘れて驚いた」

 僕はワインを飲む。やはり、ワインの味は分からない。バーに置いてあったものと貼ってあるラベルは違うが、きっと中身は同じではないのだろうか。それとも、僕以外の人が飲めば違いが分かるのだろうか。そもそも、僕が抱いているこの世界の違和感なんてものは、端から存在しないもので、ただ単純明快、僕の頭がおかしくなってしまっただけなのだろうか。

「僕も、実を言うと分からないことが多いんだ。さっきは君が聞いてくれるなら話すと言ったけれども、どうにも分からない。確証も無いし、ただ僕の中にある、ある種の確信を持った違和感みたいなものを語っているだけに過ぎないんだ。これを否定してしまったら、僕の根底にある大切な何かを失ってしまうだろうけど、もう、最近は僕の頭がイカれたんだと思い始めているよ」

「あなたは間違っていないわ」彼女が突然口を開く。「ごめんなさい。バーで誰かと間違えたなんて言って話しかけたけど、あれは嘘。私があなたに話しかけるための口実だったの。あなたは分からない、分からないって言うけれど、私の方がもっと分からない。どうしてこんなに泣きたくなるの? どうして、私は、何に怯えているの? 分からない。でも、あなたに私が必要なことだけは分かるの」

「酔いが回ってるんだよ」僕は彼女の長く伸びた綺麗な黒髪を撫でる。彼女は僕の方を向かずに小さな嗚咽を漏らしている。僕はワインを持って彼女の傍らに座った。僕が座った重みで、彼女の頭が僕の腰に触れる。僕がワインに口をつけると、彼女はおもむろに身体を起こして、僕の肩に接吻した。「あなたには私が必要なの」と言って、そのままベッドに倒れ込む。コトン、と控えめな可愛い音をたててワイングラスは床に転がっていった。僕の衣服と、彼女の髪と、ベッドのシーツが赤みがかった紫色に染まる。

 それから、僕たちは洋梨のような、ジャスミンのような香りが漂う中、淡い情交を共にした。彼女の顔を見るたび、僕に残された微かな記憶が激しい頭痛と共に揺さぶられた。デジャヴのような、追体験のような、僕は今夢の中にいるのだと錯覚するほど現実味に欠けた体験だった。否、それはあまりにも現実的過ぎた。僕の記憶の揺れは全身に呼応するように広がり、彼女の火照った身体へと伝わった。彼女の気息は、僕の三叉神経の収縮と同じく、実際に形を持ったプログラムのように規則的に連動している。白い小さなパズルピースを埋め合うみたいに、僕たちは身体を交わした。



 僕が目を覚ますと、彼女の姿はなかった。時計の針は午前十時を指している。僕はベッドから起き上がり、「朝食」と美しい字で書かれたメモの横にある牛乳を一口飲む。気分でなかったので、その隣にあるピザには手を付けなかった。

 僕は顔を洗い、服を着る。窓から差し込む光が強かったので、白いレースのカーテンを閉めてソファに座った。テーブルの上に置いてあった文庫本を手に取ったが、一、二ページだけ読んで止めた。

 昨日の悪天候が嘘のように晴天が広がっている。

 僕は放られた紙束みたいに乱雑に散らばった記憶の破片を、一つずつ整理していく。時折、別の世界の記憶が混合するのだ。僕は精巧な鶴を折るときのように丁寧に記憶を摘んでいくが、昨日の出来事は既に別の世界の記憶と融解してしまっていた。こんなことは初めてだった。「あなたには私が必要なの」という彼女の言葉が回遊魚のようにぐるぐると廻っている。

 僕は少しの間、じっと動かずにこうしていたが、気がついたら既に時刻は正午を過ぎていた。僕は、はっとして立ち上がる。

 その時、ふいに洋梨のようなワインと、シトラスのオーデコロンが混じった眩暈のするような香りが僕の鼻を掠めた。それは、僕の混濁した記憶に楔を入れる。何かの衝撃が加わるだけで、僕は全てを思い起こすことが出来そうだった。ぼろぼろと涙が溢れるように、断片的な記憶がその影を見せる。僕は貧血を起こしたときのように立ちすくんだ。

 しばらくして、僕は表面張力を起こすほどの並々ならぬ激しい頭痛を抱えた。僕はそれを一滴も溢さぬよう、慎重に歩みを進める。

 腹が減っていたことに気づいたので、僕はピザを一切れだけ食べた。厚いクラフトのせいで喉が渇いたが、さして気にならない。僕は「朝食」と書かれたメモに「美味しかった」とだけ書いて彼女の家を後にする。

 焦がしたカラメルのような色をした紅葉が冬の始まりを告げる乾いた風に散らされている。僕は鮮やかな落ち葉を踏みしめながら雑踏の中を歩いた。
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