第1話

文字数 3,507文字

朝、キッチンに行くと、食卓には僕の大好きなパンケーキが置いてあった。
焼きたての良い匂い。生クリームと艶やかなイチゴまで添えてある。

「ユイ、朝から焼いてくれたの?」
感激しながらユイに訊くと、彼女はエプロンを外しながら、にっこりほほ笑んだ。

「タカトの喜ぶ顔が見たかったの」
照れたようにそう言うと、ユイはいつもの様に出勤の用意を始めた。
忙しい合間を縫って、いつも僕に優しい気遣いを見せてくれる。
とても愛おしい人。

けれど、僕らは恋人同士なんかじゃない。ただの同居人だ。

「ねえ、ユイ、ほんのちょっとだけ、話をしない?」
勇気を出して切り出してみた。ついさっきまでは、言わないつもりだった。
けれどパンケーキの優しい香りが心を揺り動かしてしまった。

「ごめん、電車に乗り遅れちゃうから、またあとで。今日のパンケーキ美味しいと思うから、ゆっくり味わって食べてね」

僕の勇気など知る由もないユイは、いつもの様に爽やかに笑うと、軽く手を振って玄関ドアを飛び出して行った。

取り残された僕は、何とも言えない喪失感を持て余しながら、食卓に着き、ユイの作ってくれたパンケーキを頬張った。
とてもおいしかった。悲しいほど美味しかった。だって、最後のパンケーキだ。

僕はきちんと食器を片付けたあと、引き出しから“特別製”の便箋を取り出し、買ったばかりのペンで、一心に文字を綴り始めた。
はじめから、こうするつもりだった。

『親愛なるユイへ。

いきなり手紙なんか残されて、君はびっくりするだろうね。でも、僕の本心を綴った、最初で最後の手紙を、どうか受け取ってほしい。

実は、僕は人間じゃない。天使なんだ。
正確に言うと、免停中の天使。今は罰として下界に落とされている身なんだ。
あ、手紙を捨てないで!
真面目な話なんだ。どうか最後まで読んでください。お願いします。

僕はある日、天上で、全天使業務に支障をきたすウッカリミスをやらかしてしまった。
(本当に恥ずかしい凡ミスなんで、内容は割愛するね)
で、そんな未熟ものには100日間の、人間界での修業が義務付けられる。
内容は至ってシンプル。
人間のふりをし、何か困難に直面している人と100日間生活を共にし、その人が自信を取り戻し、前を向いて生きて行けるようにサポートすること。

覚えてる? 初めて二人が出会った夜のこと。
君は職を失い、雨に濡れながら、住む場所も希望もなく街を彷徨っていた。

ただ支え合う目的で、部屋をシェアして一緒に住もうって、僕の方から提案したよね。
僕も実は、アパートが火事になって住むところを失ったんだって伝えると、「似た者同士だね」って、君は笑ってくれた。

ごめんね。優しいふりをして、嘘までついて、君に近づいた。
君を修行の道具に使ったと思われても仕方ないよね。

でも、これだけは信じて。
僕はあの時から今日まで、君の事を本当に大事に思って接してきた。
やがて離れなければいけない日が来る事に胸を痛めつつ、いつも見守り、君が一人で生きていく元気を、育ててあげたいと思った。
出会ったあの夜の君は、本当に折れてしまいそうな一輪の花だったから。

ここまで読んでくれたら、もう分かるよね。
今日がその100日目なんだ。僕の意思とは関係なく、僕は今日、君の元を離れなければならない。

君は聡明で優しくて健全な女性だ。
僕が居なくても、幸せに生きていける元気を、ちゃんと取り戻せたと思う。
僕の方は、……君が居ない日々に慣れるまでずいぶん時間がかかると思うけど、これもきっと罰のひとつなんだろうね。
神様って、意外と意地悪なんだ。

長々と書いてしまってゴメン。
この手紙は、君が読んだあと、5分で消えて無くなるはずだ。
そしてこの手紙を読んだ記憶も、数分でじんわり消えて行く。
僕と過ごした日々の記憶も、いつかこの手紙と同じようにじんわり消えて行けば、いいな。

ゴメン。最後の一行は嘘。
ちょっとだけ強がりを言ってみた。本当にごめん。

君の焼いてくれたパンケーキ、すごくおいしかった。本当においしかった。
100日間、一緒にいてくれて、ありがとう。
これからの君の幸せを、心から祈ってる。』

僕はティッシュで涙を拭い、鼻をかんでから手紙をきちんと折りたたみ、封筒に入れた。
さよならと、愛してるは、書かなかった。
どうせすぐに消えて無くなる手紙と記憶だ。

この100日間、僕はユイが自信を取り戻せるように必死に支え、仕事復帰するのを見守ってあげたけれど、そんな日々は、傷心の僕の心にも、多くの潤いを与えてくれた。
ユイが僕に向ける優しい笑顔は、天界でミスを責められ、すっかり自信喪失になっていた僕の心をゆっくりと温め、補填してくれた。
かけがえのない人だった。過去形で語ってしまうのさえ、辛すぎるほど。
愛してた。

簡単な身支度を整えて、僕は改めて二人で過ごした2Kの部屋を見回してみる。
主な生活空間は別だけれど、キッチンではよく一緒に食事をした。
2人で選んだテーブルクロス、食器、ランチョンマット、クッション。部屋のいろんなところに浮かぶ、ユイの笑顔、ふとした仕草、僕を呼ぶ声、パンケーキの香り。

僕は首を何度も振って、辛い気持ちを弾き飛ばした。

もう忘れなきゃ。これからはまたちゃんと天上界で自分の仕事を全うするんだ。
それが自分の役目。

テーブルにその封筒をそっと置くと、ひとつ深呼吸して、僕は玄関に向かった。
出来るだけ何も考えないようにして靴を履き、下駄箱の上を何気なく見る。

その瞬間、僕の体が一瞬固まった。

―――まさか、そんなはずはない。嘘だろ。

僕はそのまま鍵も掛けずに部屋を飛び出した。
途中階段で何度も転びそうになりながらもとにかく走った。
人間の体はとにかく重い。この体で生きていく人間の苦労を改めて思いながら、僕は上着を脱ぎ棄てた。

ユイが出て行って何分が過ぎただろう。まだ居てくれるだろうか。まだ、この近くにいてくれるだろうか。
神様、どうか……。

ふっと体が軽くなるのを感じた。
時間が来たのだと分かった。僕は駅へ向かう下り階段の上でためらわずに足を踏切り大きくジャンプした。
バサリと懐かしい音がして、光の粉が舞う。体は重力を感じさせず、軽々と宙を泳いだ。

感慨もそこそこに高い位置から駅へ向かう人の流れを見下ろす。
僕の抜群の視力は、小さな公園の植え込みの横にポツンと佇む、さくら色のスプリングコートを見つけた。
風を切り、急降下で舞い降りる。
久しぶりの飛翔だったけれど、感覚は鈍っていなかった。

普通の人間には見えない僕の真の姿は、地上に影さえ落とさない。
普通の人間には見えない僕の羽根が一枚、ひらりと彼女の目の前に舞い落ちた。

ユイが目を丸くし、信じられないと言った表情で僕を見つめて来る。
僕は泣き笑いのような顔をするしかなかった。

手に握った、薄桃色の封筒をユイにそっと見せる。

「タカト……」

「うん、これ、君が僕にくれたお別れの手紙。僕の手紙は、あの部屋のテーブルに忘れてきた。でも、もういらないね。だってたぶん……」

ユイが真っ直ぐ僕を見つめ、泣き笑いを浮かべる。もうすべて理解できたみたいだ。
「たぶん、私の手紙と同じ事が書いてある」

100日前偶然出会ったのが、同じ罰を与えられた天使同志だったなんて、まるで安っぽいラブコメディ。
だけどそんな安っぽい偶然に僕は心の底から感謝した。

「その手紙、読んじゃだめよ。泣きながら書いたから……」
僕の手の中を手紙を見つめ、ユイが今度は真剣な顔で言う。

「読んでも5分で忘れちゃうんだろ?」
「あなたが人間だったらの話でしょ」
「分かったから。怒らないで」

朝のパンケーキは、ユイの精一杯の僕への優しさだったんだと改めて気づく。
愛おしくてたまらなかった。
僕に罰を与えようとした神様は、天上でちょっと悔しがっているかもしれない。

「いっしょに帰ろう、ユイ」
「うん」

スプリングコートを脱いで、純白の翼を広げたユイの、あまりの美しさに眩暈がした。
ふら付いた僕を引き寄せ、彼女はギュッとハグしてくれた。
周りには、駅へ向かうサラリーマンが何人かいたが、誰も気づかない。
見えないって、有難い。

僕の体温が上昇したせいだろうか。

ユイが泣きながら書いたさよならの手紙は、僕の手の中で粉になり、春の爽やかな空気の中に、キラキラと溶けて消えて行った。

(了)

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