第1話

文字数 1,632文字

 黒に呼ばれる。

 死という単語が脳内で乱舞する瞬間がある。黒に呼ばれる。喉元に刃物がかすめる妄想をする――。

「君に失望しているんだ」

 僕は指で自分の首をなぞる。漫画のキャラなら美しい絵面になるはずなのに、実際の僕の首は意味の分からない鳥肌とか、ざらざらとした夏の汗疹(あせも)だとかで、手触りは最悪だ。

「僕も失望してる……」

 鏡の中の僕が笑う。あいつが黒。君、君、君。僕を君と呼ぶ僕(黒)。何であいつは、へらへら笑っているんだ。

 僕は僕の目を覗き込んで深淵を探す。

 一般的な日本人の茶色い瞳孔。何の色もない。何の感情も宿さない。垂れた眉が悲しげなのに、目だけは僕を見据えている。涙一つも零れ落ちないくせに。だらしなく開いた口が息を吸ったり吐いたりしている。

「やられてもやり返せない。愛想笑いで誤魔化して、クラスの連中とは仲のいいふりばかりをしているんだよ、君は。本当にそれで大丈夫って言いきれる?」

 僕は黒に答える。

「大丈夫」

 偽りの「大丈夫」。「大丈夫」という言葉が「大丈夫」だったためしはない。我慢して、我慢して、我慢して、我慢しての「大丈夫」。我慢の積み重ね。「大丈夫」は現状維持。変化はない。これから先も。こうして鏡の前で呼ばれるために永遠に解決策を持たない「大丈夫」。   
 肩が嗚咽で上下する。痛みを反すうする。学校、先生、放課後、塾。どこにも居場所は見当たらない。明日からはじまる。明日から二学期がはじまる。夏休みはもう終わり。それなのに、公園であいつらに会ってしまったんだ。

 ただ、ボールを投げられただけだ。痛かったけど、何も言わなかった。あいつら、同じクラスの連中は僕を笑ったけれど何に対して笑ったのかは分からない。僕はあいつらの顔を見ないで引き返した。本当はコンビニでお菓子を買いたかっただけなのに。

 首周りから流れる汗がシャツに奴隷の首輪みたいな染みを残す。こういうことを考えるからいけないんだろうな。

「明日、絶対に学校に行くから」

 僕は鏡の向こうにいる僕に語りかける。すると、鏡の中でへらへらとした笑みが消えた。黒が怒った。直感する。あいつの本質は言葉ではない。あいつは、僕のことを一番よく知っていて、何でも「言葉」や「態度」で説明しようとする僕と異なる。

 冷ややかな視線が洗面台に落ちる。僕は、蛇口を捻って水を出す。激しい水音。全開まで開いた水が時間の経過を告げる。排水溝に詰まった姉貴の髪を眺める。左手で水をすくう。飲むわけでなく流れに帰す。姉貴の左手にはリストカットの痕があることを思い出して僕は左手を引っ込める。ズボンで手をふいて水で顔を洗う。濡れた前髪の間から卑屈な顔で微笑む黒が見えた。

「学校に行くのは姉貴のためかな。だとしたら、いつか姉貴と同じ道をたどる」

「や、やめてよ」

 僕は黒に抗議する。姉貴がリストカットしたのは学校だけが原因じゃない。姉貴は生きようとしているんだ。僕とは違う。姉貴は生きたくて仕方がないんだ。姉貴が「生」を実感できる方法がそれしかないだけなんだよ。僕は、姉貴にも誰にも心配をかけたくないんだよ。

 僕は僕の目を睨みつける。

「よく聞いて、僕は姉貴を尊敬してる。姉貴はいじめられてない。僕と違っていじめられてないんだ」

 姉貴こそ生きる資格のある人間なんだ。だから、きっと神様は姉貴じゃなくて僕にあいつらを差し向けたんだ。僕は誰にも心配をかけられない。僕は不幸な子になっちゃいけない。姉貴を守らないといけないから。僕は姉貴より不幸になったらいけないんだ。

「嘘つきだよ。僕は君が嫌いだ」

 僕は僕に嫌われている。そんなの、前から知っているよ。だけど、何でだろう。黒の顔から目をそむける。水道の蛇口を閉めると、鏡の中で黒が泣いている。いや、あいつは泣かないんだ。あいつは、僕をたしなめたり、嘲ったりする。それなのに、今日に限ってあいつがぽろぽろ生暖かい涙を零すから――姉貴が帰ってきた扉の開く音がよく聞こえなかった。
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