月とカフェ
文字数 3,189文字
さっきから頭が重いのは、季節外れの高い気温のせいだろうか。
砂田幸寿 はそんな事を考えながら、雑踏の中を足取り重く歩いていた。
だが足取りが重いのは体調のせいばかりではない。
原因は2つある。一つは職場。
仕事が酷く忙しくなっており、その日々が自分の心を酷くカラカラに乾かしている事を実感していた。
そしてもう一つは…
考えようとして幸寿は止めた。
心なしか自分以外の人達がみんな気分良く足取り軽やかに見えるのは、気分が沈んでいるときのクセだ。
今から一人のアパートに帰るのかと思うと心なしか胸が苦しくなる。
幸寿はバッグからもそもそと携帯を取り出した。
こんな時に真っ直ぐ一人のアパートに帰る気になれず、どこかの店で美味しい物でも食べて帰ろうと思ったのだ。
そして良さげなイタリアンを見付けたので、携帯を見ながら歩いていたが、考え事をしていたこともあり、突然横の通りから飛び出してきた人物に全く気が付かなかった。
「きゃっ!」
それは相手も同じだったようで、お互い出会い頭に勢いよくぶつかり、幸寿は尻もちをついてしまった。
「す、すいません!大丈夫ですか!」
ぶつかったのは女性のようで、慌ててしゃがみ込み幸寿を覗き込んだ。
元々気分が沈んでいたこともあり、さらに冷たい地面に尻もちをついた不快感や痛みもあったが、彼女の顔を見た途端そんな感情は何処かに行ってしまった。
第一印象は日本人形みたいだ、と言うものだった。
灰色のチェックのワンピースを着た彼女は恐らく小学6年生くらいだろうか?もしかしたら中学生かも知れないが、恐らくその辺りだろう。
艷やか黒髪をおかっぱボブにしており、大きく形の良い瞳に、それを引き立たせる小ぶりだが整った全体の造作は幸寿の貧困な語彙力でも、日本人形と言うのは表現として的確だと思えた。
思わずじっとしまっていた幸寿を、怒っているのだと勘違いしたのだろう。
少女は困ったような表情でさらに頭を下げた。
「本当にすいません。私ってこういうところがあって…何てお詫びしたら良いか」
幸寿はようやく我に返り、少女が自分が不快なために返事しないのだと誤解されているのだと気付いた。
「あ、すいません!僕こそボーッとしててちゃんと周りを見てなかったんです。気にしないで下さい。自業自得です!」
何で敬語使ってるんだろう、と思いながらも少女の大人びた雰囲気や言葉遣いについつい背筋が伸びるような気持ちになる。
慌てて頭を下げた幸寿に少女はホッとしたような笑顔を見せた。
「怒ってらっしゃらないなら良かった。…あ、いえ。そんな目にあわせて良かったもないですが」
「全然です。そちらこそお怪我とかしてませんか?」
「私は全然大丈夫です。私が悪いのにそんな事まで言ってくださって、お優しいんですね」
そう言いながら立ち上がろうとする幸寿を支えていたが、そのため少女の顔が至近距離に来ていることに幸寿は自分でも驚くほど胸が高鳴っている事に気付いた。
いや、ドキドキしては駄目だろう!
そんな趣味はないはず…だ。
幸寿は不安になったが、恐らく少女の雰囲気や整いすぎている容姿のせいで緊張しているのだろう、と思った。
「顔が赤いですが大丈夫ですか?」
「や、あの、大丈夫で…だよ。ちょっと顔が冷えちゃったのかな。はは…」
「え!じゃあやっぱり私のせいで。良かったら少し暖まって行きませんか?私のお店がすぐ近くにあるんです」
私のお店?え、この子供が…
幸寿はさっき会ったばかりの少女に急激に興味が引かれるのを感じた。
多分父親がやってる店なんだろうけど、道で偶然出会った少女の店に招待されるなんて、なにかのドラマみたいで少しワクワクする。
それまでの鬱々とした気持ちがかなり晴れるのを感じた。
姑息なようだが、彼女の罪悪感に乗らせてもらおう。
幸寿は神様なんて信じていないが、今回に限ってはもしかしたら嫌なことばかりの自分に神様がちょっとした埋め合せをしてくれたのかも知れない、とも思えた。
「…有難う。じゃあご好意に甘えさせてもらおうかな」
少女の店は先程の場所から10分ほど歩いた住宅街にあった。
民家風のカフェになっており、かなり小ぢんまりとしているので、教えてもらわなければ見つけるのに骨が折れそうだ。
だが、地味かと言えばそんなことはなく、赤い屋根と白い壁のコントラストが周囲の住宅の中でも埋もれない、上品な存在感を出していた。
「お洒落な感じだね。隠れ家的で」
「えっ!本当ですか。嬉しいです!実はそういうお店を目指してたんです」
目指す?
「いや、お世辞じゃないよ」
「いえいえ、お世辞でも本当に嬉しいですよ。さ、さ。中にどうぞ。今日は休業日なんで誰もいませんので」
「え!休みだったんだ?せっかくのお休みなのに悪いよ!やっぱりここで…」
「いえいえ!お気になさらず。ぜひお詫びを…もし気がとがめるのでしたら、こう考えては?『この人は新商品の味見を誰かにして欲しがっている。そのお手伝いをしてもらいたいんだ』って」
そう言って、少女は優しく笑った。
「周りを笑顔にさせる」とか聞くけど、彼女はまさにそんな感じだな。
幸寿が顔をほころばせたのを見て、少女も嬉しそうに言った。
「あ、そう言えばまだ名前を名乗って無かったですね。私は『金崎鈴音 』と言います」
(鈴音か…この子によく合ってる)
日本人形みたいな見た目に合った、美しい自然和風の名前だと思った。
「僕は砂田幸寿。この近くの『マチダコーポレーション』と言う文具メーカーで仕事してるんだ」
「えっ!マチダコーポレーションでお仕事されてるんですか!凄い。マチダの文具って可愛いし暖かさがあって好きなんですよ。私も仕事や家でもよく使ってます」
鈴音の無邪気に喜んでいる様子に幸寿は少し恥ずかしくなった。
こんなに行ってもらえる文具を産み出す裏では、その暖かさとは似ても似つかぬゴチャゴチャがあるんだよな、と。
鈴音はそんな幸寿の気持ちなど気づきもしない様子で、扉を開けるとペコリと頭を下げた。
「どうぞ。中に入って下さい」
中に入ると、外観から予想していた以上に落ち着いておりお洒落な雰囲気だった。
小さめの木の丸テーブルと同じく木の流線型の椅子には深い赤色のビロードだろうか、落ち着いた色合いのクッションが付けられていた。
それらが3セットほどしかないため店内は非常にこじんまりとしていたが、それがまるで包み込まれるような安心感を与えてくれるように感じて、幸寿はすぐにこの店が気に入ってしまった。
それを伝えると鈴音は照れくさそうに微笑んだ。
「有難うございます。本当に砂田さんはお優しいです。殆どのお客様は時間がかかり過ぎるので嫌がるのですが」
「そんな、コーヒーは豆から挽くのが1番美味しいんだよ。大学の時の友人がコーヒー好きで、彼も豆から挽いてたけどあれでコーヒーが好きになったんだ」
「そう言って頂いてますますやる気になりました。ではしばしお待ち下さい」
満足感に浸っている幸寿を横目に鈴音はエプロンを着けるとコーヒーの準備を始めた。
「所で、ご両親はどこにいらっしゃるのかな?ぜひこんなにしてもらっているお礼もしたいんだけど」
「両親はいません。祖父と住んでます。奥の離れで寝てると思います」
「…そうか」
ご両親は亡くなられてるのか。
幸寿は申し訳無さを感じた。
そんな幸寿の表情を見て内心を察したのか、鈴音は言った。
「あ、気にしないで下さい。もう死に別かれて長いので。慣れちゃいました」
その口調が先程までの朗らかなものではなく、何処か淡々と事務的に話しているように思えて、幸寿はますます気まずさを感じた。
何を言おうかと考えるものの上手く言葉が出て来ない。
シンと静まり返った店内に鈴音の挽くコーヒー豆の心地良い音だけが規則的に響いている。
だが足取りが重いのは体調のせいばかりではない。
原因は2つある。一つは職場。
仕事が酷く忙しくなっており、その日々が自分の心を酷くカラカラに乾かしている事を実感していた。
そしてもう一つは…
考えようとして幸寿は止めた。
心なしか自分以外の人達がみんな気分良く足取り軽やかに見えるのは、気分が沈んでいるときのクセだ。
今から一人のアパートに帰るのかと思うと心なしか胸が苦しくなる。
幸寿はバッグからもそもそと携帯を取り出した。
こんな時に真っ直ぐ一人のアパートに帰る気になれず、どこかの店で美味しい物でも食べて帰ろうと思ったのだ。
そして良さげなイタリアンを見付けたので、携帯を見ながら歩いていたが、考え事をしていたこともあり、突然横の通りから飛び出してきた人物に全く気が付かなかった。
「きゃっ!」
それは相手も同じだったようで、お互い出会い頭に勢いよくぶつかり、幸寿は尻もちをついてしまった。
「す、すいません!大丈夫ですか!」
ぶつかったのは女性のようで、慌ててしゃがみ込み幸寿を覗き込んだ。
元々気分が沈んでいたこともあり、さらに冷たい地面に尻もちをついた不快感や痛みもあったが、彼女の顔を見た途端そんな感情は何処かに行ってしまった。
第一印象は日本人形みたいだ、と言うものだった。
灰色のチェックのワンピースを着た彼女は恐らく小学6年生くらいだろうか?もしかしたら中学生かも知れないが、恐らくその辺りだろう。
艷やか黒髪をおかっぱボブにしており、大きく形の良い瞳に、それを引き立たせる小ぶりだが整った全体の造作は幸寿の貧困な語彙力でも、日本人形と言うのは表現として的確だと思えた。
思わずじっとしまっていた幸寿を、怒っているのだと勘違いしたのだろう。
少女は困ったような表情でさらに頭を下げた。
「本当にすいません。私ってこういうところがあって…何てお詫びしたら良いか」
幸寿はようやく我に返り、少女が自分が不快なために返事しないのだと誤解されているのだと気付いた。
「あ、すいません!僕こそボーッとしててちゃんと周りを見てなかったんです。気にしないで下さい。自業自得です!」
何で敬語使ってるんだろう、と思いながらも少女の大人びた雰囲気や言葉遣いについつい背筋が伸びるような気持ちになる。
慌てて頭を下げた幸寿に少女はホッとしたような笑顔を見せた。
「怒ってらっしゃらないなら良かった。…あ、いえ。そんな目にあわせて良かったもないですが」
「全然です。そちらこそお怪我とかしてませんか?」
「私は全然大丈夫です。私が悪いのにそんな事まで言ってくださって、お優しいんですね」
そう言いながら立ち上がろうとする幸寿を支えていたが、そのため少女の顔が至近距離に来ていることに幸寿は自分でも驚くほど胸が高鳴っている事に気付いた。
いや、ドキドキしては駄目だろう!
そんな趣味はないはず…だ。
幸寿は不安になったが、恐らく少女の雰囲気や整いすぎている容姿のせいで緊張しているのだろう、と思った。
「顔が赤いですが大丈夫ですか?」
「や、あの、大丈夫で…だよ。ちょっと顔が冷えちゃったのかな。はは…」
「え!じゃあやっぱり私のせいで。良かったら少し暖まって行きませんか?私のお店がすぐ近くにあるんです」
私のお店?え、この子供が…
幸寿はさっき会ったばかりの少女に急激に興味が引かれるのを感じた。
多分父親がやってる店なんだろうけど、道で偶然出会った少女の店に招待されるなんて、なにかのドラマみたいで少しワクワクする。
それまでの鬱々とした気持ちがかなり晴れるのを感じた。
姑息なようだが、彼女の罪悪感に乗らせてもらおう。
幸寿は神様なんて信じていないが、今回に限ってはもしかしたら嫌なことばかりの自分に神様がちょっとした埋め合せをしてくれたのかも知れない、とも思えた。
「…有難う。じゃあご好意に甘えさせてもらおうかな」
少女の店は先程の場所から10分ほど歩いた住宅街にあった。
民家風のカフェになっており、かなり小ぢんまりとしているので、教えてもらわなければ見つけるのに骨が折れそうだ。
だが、地味かと言えばそんなことはなく、赤い屋根と白い壁のコントラストが周囲の住宅の中でも埋もれない、上品な存在感を出していた。
「お洒落な感じだね。隠れ家的で」
「えっ!本当ですか。嬉しいです!実はそういうお店を目指してたんです」
目指す?
「いや、お世辞じゃないよ」
「いえいえ、お世辞でも本当に嬉しいですよ。さ、さ。中にどうぞ。今日は休業日なんで誰もいませんので」
「え!休みだったんだ?せっかくのお休みなのに悪いよ!やっぱりここで…」
「いえいえ!お気になさらず。ぜひお詫びを…もし気がとがめるのでしたら、こう考えては?『この人は新商品の味見を誰かにして欲しがっている。そのお手伝いをしてもらいたいんだ』って」
そう言って、少女は優しく笑った。
「周りを笑顔にさせる」とか聞くけど、彼女はまさにそんな感じだな。
幸寿が顔をほころばせたのを見て、少女も嬉しそうに言った。
「あ、そう言えばまだ名前を名乗って無かったですね。私は『
(鈴音か…この子によく合ってる)
日本人形みたいな見た目に合った、美しい自然和風の名前だと思った。
「僕は砂田幸寿。この近くの『マチダコーポレーション』と言う文具メーカーで仕事してるんだ」
「えっ!マチダコーポレーションでお仕事されてるんですか!凄い。マチダの文具って可愛いし暖かさがあって好きなんですよ。私も仕事や家でもよく使ってます」
鈴音の無邪気に喜んでいる様子に幸寿は少し恥ずかしくなった。
こんなに行ってもらえる文具を産み出す裏では、その暖かさとは似ても似つかぬゴチャゴチャがあるんだよな、と。
鈴音はそんな幸寿の気持ちなど気づきもしない様子で、扉を開けるとペコリと頭を下げた。
「どうぞ。中に入って下さい」
中に入ると、外観から予想していた以上に落ち着いておりお洒落な雰囲気だった。
小さめの木の丸テーブルと同じく木の流線型の椅子には深い赤色のビロードだろうか、落ち着いた色合いのクッションが付けられていた。
それらが3セットほどしかないため店内は非常にこじんまりとしていたが、それがまるで包み込まれるような安心感を与えてくれるように感じて、幸寿はすぐにこの店が気に入ってしまった。
それを伝えると鈴音は照れくさそうに微笑んだ。
「有難うございます。本当に砂田さんはお優しいです。殆どのお客様は時間がかかり過ぎるので嫌がるのですが」
「そんな、コーヒーは豆から挽くのが1番美味しいんだよ。大学の時の友人がコーヒー好きで、彼も豆から挽いてたけどあれでコーヒーが好きになったんだ」
「そう言って頂いてますますやる気になりました。ではしばしお待ち下さい」
満足感に浸っている幸寿を横目に鈴音はエプロンを着けるとコーヒーの準備を始めた。
「所で、ご両親はどこにいらっしゃるのかな?ぜひこんなにしてもらっているお礼もしたいんだけど」
「両親はいません。祖父と住んでます。奥の離れで寝てると思います」
「…そうか」
ご両親は亡くなられてるのか。
幸寿は申し訳無さを感じた。
そんな幸寿の表情を見て内心を察したのか、鈴音は言った。
「あ、気にしないで下さい。もう死に別かれて長いので。慣れちゃいました」
その口調が先程までの朗らかなものではなく、何処か淡々と事務的に話しているように思えて、幸寿はますます気まずさを感じた。
何を言おうかと考えるものの上手く言葉が出て来ない。
シンと静まり返った店内に鈴音の挽くコーヒー豆の心地良い音だけが規則的に響いている。