第1話

文字数 4,996文字

「なあ、お前、許せないものってあるか?」
 その問いに、私は鏡を睨みつけた。手に持つ携帯を投げつけて鏡を粉々にしてしまいたい心を押さえつけながら私はドレッサーの前から退き、吐き捨てる。
「アンタの存在」
 おいおい手酷いな、と声が追いかけてくる。
「そんなこと言うなよ、ずっと仲良くやってきたってのに」
「仲良くやってきた? 馬鹿言うのはやめてよ」
「辛いことだって、二人で乗り越えてきたじゃねぇか」
「――ウルサイっ! わ、私はアンタのせいで……っ!」
 肩で息をして、頭を掻きむしる。これから会社に行って、もっとストレスがかかるというのに、私の心は既に軋んでいる。
 それが、アイツからもたらされているということが、我慢ならない。そんな私にアイツは、きっといつも通り、気遣うふりした声を投げてくるのだろう。
 私はそれを聞くまいとイヤホンを耳に入れ、大音量で音楽を流し、家を出た。

 会社での私は、まさに完璧。
 仕事も早く、何でもそつなくこなす。困っている人がいれば積極的に助けて、笑顔だって欠かさない。上司からの信頼は厚く、部下からも慕われている。
 会社での私は、完璧なのだ。そうでなければ、いけないのだ。
 今日も、自分に渡された仕事だけではなくて人から頼まれた――「今日は飲み会が」「合コンがあって」「お願いできる?」――ものまで、しっかりこなしている。時計の針はどちらもてっぺんを指している。でも、そんなことは私が完璧であるためには関係ない――が、この時間まで集中し続ければ、頭は疲弊する。
 ああ。いけない。集中力が切れてしまった。
 仕事に集中することで無視出来ていた音に苛立ちを覚え、私は、周囲を確認して、携帯電話を手にとって耳を当てた。
「ウルサイのよ、アンタ。何なの」
「お前は……俺には辛辣だな本当に」
「消えて。ほんとに」
「本当にお前は……――ま、いいや。いや、ほら、もうイライラがヤバいだろうな、と思って。今一人だろ? 話し相手になるよ」
「そんなのお願いしてないでしょ」
「されてないけどさ、お前、無理ばっかりするから」
 耳障りのいいことを言う。そうやって、私を完璧から引きずり落そうとする。
 それが、どうしようもなく嫌だった。許せなかった。
 ――なにより、その言葉に救われる自分が許せなかった。
「ほら、俺に吐き出せ。な?」
「う、ウルサイ……!」
「何をそんなに頑なに。昔は、何でも話してくれたじゃないか」
「黙って……黙ってよ……!」
「誰かに何かを言われたか?」
 蛇みたいな声。林檎へ誘う声だ。
 頼むから黙ってほしい。頼むから。
「気にするなって。何度も言ってるだろ?」
 手元の書類が悲鳴を上げる。手に持つ携帯が呻く。
「他人の言葉なんか、話半分で聞けばいいんだ。いいんだよ、全部全部聞かなくたって」
「黙れってば……!」
「俺は、ずっと、お前の味方だよ」
 ウルサイ。ウルサイウルサイウルサイ、ウルサイ……!
 ――お前さえいなければ、私は、疵一つ、シミ一つない、完璧な――!
「なあ、なんでも吐き出せばいいんだ。それをしない人間なんて、いないんだぞ。俺が無理やり聞き出すより、お前が自分から話してくれた方が、ずっと楽に――」
「知った口でウルサイのよアンタっ! 何も知らないくせにぃあああああ!」
 私は、ソイツに気をとられて、完全に気が抜けていた。
「だ、大丈夫ですか?」
 後ろからかけられた言葉に、心臓に冷や水をかけられた気持ちになる。怒りで荒くなっていた息は、今や、恐怖に凍り付いている。
「あの……?」
 控えめな中年男性の声。私は、この声の主を知っている。この会社の警備員の一人である中川さんだ。私は彼に聞こえないように深呼吸をして、笑顔を作って振り返った。
「お疲れ様です、中川さん」
「あ、ええと、お疲れ様です。あの、大声を出しておられましたが……」
「あ、すみません。ちょっと……」
 携帯を指し示し、私は眉を下げる。
「ちょっと、揉めてしまって……お恥ずかしい」
「ああ、いや! 気にしないでください、そういうの、あなたくらいの年齢ならよくあることでしょう。いやぁ、温厚なあなたをあそこまで怒らせるなんて」
 随分ひどい相手なのでしょうなあ、と同情を顔に乗せる中川さん。
 私は彼に曖昧に会釈して、それから今度はパソコンを指さした。
「電話はもう終わりにして、仕事に戻ります」
「いつもいつも遅くまで残っておられて。そんなあなたに、こちらを」
 彼の手にあるのは、リンゴ味の飴。私はそれを受け取って、それから、部屋から出て行くのを確認して、パソコンに向き直った。
 飴は、ゴミ箱に捨てた。
 そうすると、それを咎める声が響き始めて、それがまた私の神経を逆なでする。会社ではあまりイヤホンをしたくなかったけど、仕方ないから、私は携帯に乱暴にイヤホンを突き刺して大音量で音楽を聴く。そうやって声をやり過ごし、私は仕事を終えた。
 時計は、二時を示していた。

 この時間に帰ることが増えてから、私はアパートを引っ越した。今住んでいるのは、歩いて十五分で会社に行けるマンション。
 少し家賃は張るけれど、その値段の分だけ、私は完璧で、イイ人でいられるのだ。
 カギを開け、無言で部屋に入る。電気をつけて服を脱ぎ、シャワーを浴びて化粧を落とす。同じことを毎日繰り返す。毎日、毎日。
 味のない食事を終える。ベッドに入る。寝る。
 毎日、毎日、同じこと。辛さもない、楽しさもない、悲しさも。
 ベッドに入ると、いっそう近い距離で、アイツの囁きが聞こえる。
「なあ、頼むよ」
「アンタなんかいらない」
「頼むから、お前に入らさせてくれ」
「消えて」
「だって、そのままじゃ……」
「これでいいの。これで完璧なの。いいから、消えて」
 でも、と追いすがる声を無視して、私は気を失うように眠りについた。

● ● ●

 コイツは、無理をする。
 原因は、コイツの親だ。
 小さい頃から、完璧を求められてた。誓って言うが、コイツの両親が飛びぬけて素晴らしい能力を持つ人間だった、なんてことはない。むしろ、学生時代に遊んで暮らし、時代の流れに乗って割といい会社に入り、実力なんてないのに上に上がった、そう言う人間だと、少なくとも俺はそう思ってる。
 その人間が、コイツに、完璧を求めるのだ。
テストは必ず百点を取るよう求め。いい大学に入れさえすればいい人生を送れるから、と塾に押し込んで。
 少しでも反抗すれば、きつい仕置きを。
 特にコイツが堪えたのは、『そんなこともできないなんて、お前なんか、もっと良い子と交換してもらうよ!』という言葉。そうして削られていった幼いコイツは、親の期待に応えるだけの、ロボットみたいなやつになってしまった。
 糞みたいな親だ。でも、コイツにとっては、唯一の両親だ。
 俺は、コイツの事を何だってわかってる。親の希望通りに、超一流の中学、高校に入学して、成績は常に上位をキープして。大学だって、親の言う通りの所に入って。一人暮らしが始まって、やっと解放されたかと思っても、月に何度も電話が来る。男を作ってないか、成績は、先生に媚を売れ。そんな内容ばっか。何度も、コイツの心は壊れた。だから、コイツが外に反応できない間は、俺が電話を取っていた。そのせいで親が乗り込んできたこともあったけど、俺は、絶対に、そいつらを家にはあげなかった。
 何度も言ったよ。あんな親、絶縁しろって。でも、それを言うと、コイツは泣くんだ。私にはお父さんとお母さんしか居ないのに、って泣くんだ。
 だから、俺は耐えたよ。
 何度殺しに行こうと思ったか。
 何度、コイツを逃がそうと思ったか。
 でも、そうしようとするたびに、コイツが泣くから。
 俺は、何も、出来なかった。
 結局、コイツは会社も、親が求めるところに面接に行って、採用された。もう、悲しいを通り越して笑えてきたのがこの頃だ。だって、コイツ、本当は食品関係の会社に行きたかったんだぜ。それを、ただ名が売れているってだけの、興味も持てない会社に入って。
 俺は、何度も何度も、自分の好きな事をしろって言った。
 そうやって何度も言って――何回目だっただろうか。コイツが、俺に「消えろ」というようになったのは。
 いなくなってくれ、と。
 泣くんだ。
 正直、ショックだった。でも、コイツの言い分も分かるんだよ。
 コイツは、あの両親という目に監視されて潔癖になって、綺麗な部分だけしか外に出せなくなっていた。自然、黒い感情は、コイツの中に沈殿するだろう。俺はコイツが抱えきれなくなった黒い感情を一手に引き受けていたから、いつからか、コイツにとって俺は、臭くて汚くて真っ黒で、存在するだけで怖気が走る汚点に――疵になっていた。
 完璧であるはずの自分に落ちた、悍ましいインクの染み。それが今の俺。
 でも、言われた通りに消えてやるわけにはいかなかった。俺は、悍ましいインクであり続けなければいけないんだ。
 だって、そうじゃないと、コイツはすぐに死んでしまう。
 見かけだけ綺麗な箱庭で生まれて、嘘の無菌室で毒を注がれて育って、なのにコイツは、清流でしか生きられない体になってしまった。
 知ってるか? コイツ、会社で、陰口言われてるんだ。
 媚売り女って。
 コイツはただ、かくあれかしと育てられて、完璧でいい人になろうと苦しんでいるだけなのに。そこに付け込んで仕事を押し付けていくやつらは、コイツに感謝なんか一つもせずに、陰口言ってんだ。
 コイツになんか聞かせられないから、そういう時は、無理やり体を奪ったよ。そんで、俺だけの記憶として留めたよ。
 そうして、俺はまた黒く染まる。それを、コイツは許さない。
 
 確かに、昔は少し状況が違った。俺も、綺麗だった。
 本当に昔。コイツがまだ幼くて、コイツの心が初めて壊れた時。
 その時、俺は生まれたんだ。
 生まれた理由は明白。苦痛を肩代わりするためだ。真っ暗な自分の部屋で、ベッドに深く潜って、夜な夜な泣いていたコイツを慰めるためだ。
 理不尽に怒り、悲しみに怒り、寄せられる期待に怒る。それが、俺だった。コイツに出来ないことをするのが、俺だった。
 コイツが幼いうちから捨てなければならなかった、素直な心。包み隠さずに、特に親には、そのままを受け入れられるべきだった心。それが俺だった。
 コイツが何もかもを諦めて、澱を心の底に貯めることを覚えるまでの俺の役割は、それだった。

 あの頃に戻りたいか、と言われれば、否だ。今はこんな状況だが、あの両親からは離れていられている。仕事が忙しいだろうから、と電話も控えられている。もしくは――コイツが大学の頃に生まれた妹にご執心なのかもしれない。なんでもいいが、とりあえず、拘束が緩まっているのだ。それに両親と顔を合わせたり、連絡を取っている時よりは、こいつの心に溜まる黒いドロドロも少ない。
 だから今のままでいい。
 コイツが寝ている間に、黒を搾り取って俺だけのものにしてしまえる。昔は丸一日体を借りなきゃ取り除けなかったことを思えば、随分良い状況だ。

 今日溜まった心の澱を取り除き、俺は溜め息を吐いた。そして、今自分が抱きしめているコイツの心の奥底を覗いて――俺はいつも泣きたくなるんだ。
 奥底、一番柔らかい部分。そこにあるのは、俺がどんなに頑張ったって取り除けない、真っ黒な氷だ。それを見ながら俺がどんなに泣いたって、結局はコイツの涙になってしまう。それでは、この黒い氷は解けださない。
 今コイツに必要なのは、コイツのために、泣いてくれる他人だ。
 他人なのだ。
 俺では、ダメなのだ。
 どんなに大切に思っていても、コイツの心から分裂した俺では、どうしようもないのだ。
 俺に出来ることは、コイツの澱を受け止めて、コイツを任せられる人間を見つけられるように祈って、それで――その人間を見つけられたら、きれいさっぱりいなくなることだけなのだ。

 それしかできない。
 俺は無力だ。どうしようもなく。
 それが、何よりも――許せなかった。
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