序章 化粧坂

文字数 3,972文字

 この日、俺と雲子(くもこ)化粧坂(けわいざか)に来ていた。ここは海蔵寺手前の住宅街をちょっと脇に入った所にある坂だ。坂と名前はついているが、来てみればガチの山道だ。いやいや、ここ道でも坂でもなくてむしろ崖だろ、と突っ込みをいれたくなるほどの急斜面から、大きな石がボコボコと突き出している。インドア派の俺にしてみれば命の危険すらあった。鎌倉には、こんなトラップのような場所があちこちにある。ガキには格好の遊び場かも知れないが、俺たちみたいな地元の高校生がわざわざ来るようなスポットじゃない。だが雲子は筋金入りの斜面フェチだ。こいつから声をかけられて連れて行かれる先には、必ずこんな山道や急坂が立ちはだかっている。



 雲子は俺を置いてきぼりにして、ジャージの上に履いたスカートをひらひらさせながら、カモシカのように急斜面を駆け上がってゆく。岩と岩の間をピョーンと跳びつつ、バレエダンサーみたいに両手両足を広げて、恍惚とした声で叫ぶ。「ああ、この33.5度の傾斜角がたまんないいいい!」変態だ。紛れもない変態が俺の前にいた。しかもなんのエロスもない。こいつの叫びは少女があげるエクスタシーの声というよりもビールを飲み干したおっさんの「クーッ!」に近い。俺はといえば、彼女のはるか下で、早くも息が上がりかけていた。「おーい待て!」コケだらけの大岩の上で雲子が足を止めた。おでこの上で短い黒髪がさっとなびき、明るい瞳が俺をレーザーのように照射した。「トロい奴だなあ、お前の名前が泣くぞぉ、坂道(サカミチ)ィ!」雲子はパッと踵を返して次の岩に飛んだ。

 そう、俺の名前は坂之上坂道という。ふざげた名前だと思うだろう。俺も同感だ。この名前を俺につけたのは死んだ母親だ。もっとも俺は彼女のことを全然知らない。俺を生んで間もなく南アルプスで滑落死したからだ。病的な斜面フェチだったらしい。俺は今までこのアホな女をずいぶんと恨んできたものだ。変な名前をつけられた上に勝手に死なれちゃたまったものではない。だが今では半分くらい感謝している。

 俺たちは私立雪ノ下学園高等部の一期生だ。俺は中等部からのエスカレータ組で、雲子は受験組、いわゆる外様だった。四月、入学間もない雲子が、目をキラキラさせながら俺に近寄ってきたのだ。「ねえねえ、坂之上君、私とつき合わない?」第一印象は山猿みたいな奴、だった。背はそんなに高くない。どちらかというと痩せ型。ショートの癖っ毛。日焼けした小さな顔の中で目だけが大きい。灰色の制服スカートの下に紺のジャージという今どき誰もやらない埴輪スタイル。雲子はその時すでに変わり者で通っていた。授業中はいつも上の空。休み時間はといえば、友だちも作らず、階段を一階から四階まで駆け上っては駆け下りてをひたすら繰り返していた。けどまあ、こんな奴からとはいえ、生まれてはじめて告られたのですよ。俺は天使のファンファーレを聞く心地だった。今日から俺も!って感じ。鎌倉駅前のマックで俺は聞いた。「なあなあ、俺のどこが気に入ったの?」すると雲子はシェイクをズズーッとすすりながら、「ん、名前」と答えた。俺はちょっと拍子抜けしたけど、すぐにポジティブシンキングに切り替えた。好きな理由は名前、上等じゃんか。好かれる理由が顔とか才能とか性格とかだったら、飽きられればそれまでだし、正体を見破られてもジ・エンドだ。でも親からもらった名前はいつまでも変わらない。エヴァー・グリーンだ。鉄壁だよ、違う?俺は見も知らない母親に生まれて初めて感謝した。
 俺が「いいよ、つき合おう」とクールに答えると、雲子は「じゃあ早速」と言って立ち上がった。彼女は俺の袖を引っ張って、観光客で一杯の小町通りをずんずんと奥に進んだ。俺は何かねだられるんじゃないかと警戒したが、雲子は両側に並ぶ土産屋や飲食店には目もくれず、たちまち通りの外れに出た。たまたま信号が青だったので、そのままノンストップで参拝客がごった返す横断歩道を渡った。八幡宮の境内に入ると、雲子は俺に「ちょっと待ってて」と言いおいて、ダッと駆け出した。彼女は真っすぐ伸びる参道を一直線に走ってゆき、本宮に上がる長い石段をあっと言う間に三往復すると、燕のようにビュンと戻ってきた。「さあこれから本番、本番」と言って俺の肘をぐいと掴む。驚いたことに、全く息が乱れていない。俺たちは流鏑馬の馬場を抜けて神社の外に出た。そのまま道路を渡って山際の道に入る。雲子が立ち止まったのは住宅街のどん詰まりだ。そこから先は細い山道が薮の中に消えていた。俺は青少年の希望に胸を膨らませた。(おいおい積極的すぎるだろ。いきなり人気のない場所にご招待ですかあ?)すると雲子が言った。「ここが鎌倉七口のひとつ、巨福呂坂(こぶくろざか)切通(きりどおし)というわけね」そして俺を放っぽって、ひとりで薮の中にガサガサ入っていった。俺がついて行こうか行くまいか迷っているうちに雲子が戻ってきた。「なんだ、たいしたことなかったよ」顎に拳をあててため息をつく。「短いし、傾斜角も15度いかないし、期待はずれもいいとこ」「で?」と俺。「ん、おしまい」と彼女。つまり、こいつが言う「つき合う」とは、坂登りにつき合えという意味だったのだ。俺は愕然とした。なんという(カルマ)だ!おぎゃあと生まれた時点で既にお腹いっぱいだというのに、俺は斜面フェチと縁が切れないのか。というか雲子が俺の名前に惹かれて寄ってきた時点で気づくべきだった。俺の母親への感謝の念はこうして大幅に差し引かれた。



 以来、俺はなし崩し的に色々な坂に連れてゆかれた。この日も雲子は、俺がヒイヒイ言いながら岩にしがみついている間に、崖みたいな化粧坂を上から下まで四往復した。坂を上がり切った先はゆるくくねる尾根道で、俺はほっと一息ついた。木々の枝の間から西陽が射して眩しい。雲子は上機嫌で、地面に落ちる縞々の影の上を、ウサギみたいにスキップしていた。詐欺のような出会いからもう二ヶ月が過ぎていた。俺は未だにこいつが何を考えているのかさっぱりわからない。それでも別にいいっちゃいいのだ。俺たちは屋根つきの休憩所で一休みした。雲子はベンチに座り、スマホを一心に見つめている。「坂、坂、坂…」明日のターゲットを探しているのだ。俺はそんな彼女の顔を真下から見上げている。頭の下にはパンパンに張った太股がある。雲子は俺にキスすら許してくれないが、膝枕はOKしてくれたのだ。俺は温かい岩石のような腿筋に頬をおしつけて、うっとりと目を閉じる。ジャージの布越しに、大腿直筋が流線型に盛り上がっているのがわかる。俺はその曲面に沿って顔をスリスリさせる。最・高・だっ!その盛り上がりの両側で小さな山脈をなしている外側広筋もっ!内側広筋もっ!

 自分が腿筋フェチだったなんて、今まで生きてきて夢にも知らなかった。その真実が、俺の脳髄めがけて稲妻のように降りてきたのは、雲子が珍しくジャージなしで登校してきた時のことだ。短いスカートの下から伸びるがっちりした大腿四頭筋とヘビーデューティーな膝小僧、それに林檎の実のように丸々と固まったふくらはぎを目にしたとき、俺は目眩のような衝撃に襲われた。なんという神々しさ!今まで人生ってものにはあまり期待しないで生きてきた。だが、この世にはたしかにご褒美というものがあるのだ。それも俺の目の前に!それ以来、俺は雲子に本気で恋をするようになった。そりゃ恋じゃなくて、ねじ曲がった性欲だろうって?まあ否定はしない。だけど、ごりごりと盛り上がる筋肉をジャージごしに頬でスリスリしていると、俺は途方もなく安らいだ気持になるのだ。宇宙でここほど安らげる場所はないというくらいの安らぎだ。これを劣情と呼ぶなら呼ぶがいい。俺はこの至福を手放しはしない。あと俺の実存をフロイト流に解釈する奴は遠慮なく殴る。

 雲子は雲子で、単に俺の名前が気に入っただけはなさそうだった。俺と二人きりの時は、完全にリラックスして斜面フェチの己を解き放つのだ。学校での彼女は、決して内気というのではないにしろ、俺以外の友だちがいなかった。坂と階段しか興味の対象がないのだから自然とそうなる。鍛え抜かれた脚力を見込んで、陸上部とワンゲル部が熱心に誘いをかけてきたが、雲子は相手にしなかった。「私は坂と階段が好きなんであって、人との競争になんて興味はない」というのが彼女の答えだった。そんなわけで、俺と雲子は二人だけの世界を作っていた。俺たちは、それぞれに満ち足りていた。でも、何というか、向いているベクトルが互いに違い過ぎるのだな。俺たちの関係は、男女の恋愛というよりも、別種の動物どうしの共生関係に近いのかも知れなかった。花と蜜蜂とか、イソギンチャクとクマノミみたいな。これじゃ青春ぽい葛藤やドラマは生まれそうにない。それが俺には物足りないといえば物足りなかった。

 そんなことを、硬く締まった腿の上でぼんやり考えていると、雲子がいきなり立ち上がった。俺はごろごろと地面に転がった。「イテテテ」俺が起き上がると、雲子は海の方を眺めていた。俺たちがいる休憩所は展望台になっていて、鎌倉の街並と湘南の海が一望にできるのだ。にしても、地面の凹凸と傾斜にしか関心を示さない雲子が、平地と海を見つめているのは珍しかった。「どうしたんだよ」と俺が尋ねると、雲子は「わかんない」と言った。大きく開いた瞳に、ふと不安の影が差したように見えた。と、彼女はぶんぶんと頭を振って、「気のせいかな」と言った。今から思うと、雲子はこれから俺たちに次々と襲いかかってくる苛酷な運命を予感したのかも知れない。雪ノ下学園を牛耳る黄泉比良坂(よもつひらさか)家との戦いを。そして、日本全土を更地に変えようと画策する謎の組織、海抜(ゼロ)の野望を阻止する戦いを。


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