第1話

文字数 3,357文字

 私だけが進んでいる。なぜかそれだけは実感することができた。
 他が遅れているわけではない。私だけが一人、前へと進んでいる。
「私はこの後どうなるのでしょうか」
 何度も膝の上に重ねた手を組み変えながら、やや後方にいる男に向かって問いかける。
すると男は少しはにかんだ。
「あなたは誰も到達できないような場所に行こうとしています、それはあなた自身が望んだことでしょう」
 男の声は柔らかく、心地が良い。その声に押されるように少しだけ首を前へと傾ける。
これは私が望んだこと、後悔はない。少し前、あの方と話をした時から既に覚悟は決まっていた。
「これが終われば私は自由になれるのでしょうか、今よりもっと前へと進んでいけるのでしょうか」
 覚悟していたはずなのになぜか不安ばかり募る。これはまだ私自身が人間の器を捨て切れていないからだろうか。
 男が私の両手の上に手を置き、顔を覗き込むようにして微笑む。
「大丈夫、あなたは何度も困難を乗り越えてきたじゃありませんか。これが最後です」
 思えばこれまでの人生、立ち止まってばかりだった。他の人が全力でジャンプせずとも飛べるハードルを、私は全力でジャンプしても飛び越すことができない。ダイジョウブ、ガンバレ、モウチョットダ、そうやって私が走っている脇で応援してくれる人もほとんどいない。
「本当に辛く長い人生でした。私を救ってくれたこと、私を前へと進ませ頂いたことに感謝します」
 新しい人生を思い描き、男に笑顔を贈る。その笑顔に男も答え、さらに男はポケットから花柄のレターセットを取り出した。
「新たな人生の門出に際して、誰か思いを伝えたい方がいれば記すようにとあの方から言われております」
 スッと私の前にレターセットと万年筆が置かれ、椅子と机しかなかった小さな部屋に彩りが生まれる。
「感謝します」
 私がレターセットを自分の方に引き寄せると男は軽くこちらに会釈し、重い扉を丁寧に閉め部屋を後にした。
「思いを伝えたい人・・・」
 思い当たる人は一人しかいないのにわざと探すふりをしてみる。その人のことを考えると苦しい。私は唯一私の人生を応援してくれたその人を振り切ってここにいる。
「お母さん・・・」
 母だけはいつでも私の味方だった。いつも笑顔を振りまいてくれた彼女は私にとって唯一の心の拠りどころであり、かけがえのない人だった。
 私がここに入ることを最後まで反対して、入ってから何度も何度も連れ戻しに来たが、私はうずくまり両手で耳を塞いで彼女の温かさに触れることを拒んだ。
 しばらくして彼女の姿をパッタリ見なくなったが、彼女の声はいつまでも私の頭をグルグルと回り続ける。
 今更何をこの紙に記せばよいのだろうか。
 私が新しい人生を歩み始めたら後ろを振り返ることは二度とできない。ただ目の前にある光の道を瞬きせず進んでいくことしかできない。
 それが進み続けている私の使命。本当なら彼女のことなど真っ先に切り捨てなければならないのだろう。けれどそれを断ち切る勇気が今の私にはない。
 思えば今回のことを決断したのも、彼女と決別するためだった。
 どれだけ祈っても、どれだけここのために働いても、必ず彼女の笑顔が、声が、心の隅っこの方でうごめいている。
 それは悪いものでは無いはずなのに、あの方はそれを『邪念』と呼んだ。
 あの方は正しいことしか言わない。私はあの方の全てを信じてきた。でも私の心の隅っこにいる彼女をどうしても邪念とは思えない。
 最初で最後の反抗をしよう。私は彼女を振り払うために新しい人生を始めるのではない、彼女を幸せにするために新たな人生を始めるのだ。
 万年筆を強く握りしめ、きれいなレターセットへ汚い字で彼女へのありったけの感謝を書き殴った。
 そして最後には「必ず幸せにするから」と自身へ言い聞かせるように書いて締めた。
「気持ちのこもった字だ」
 急に声がしたので驚いて振り向くとあの方がいつものように笑っていた。さらにその後ろには男が控えている。
「わたしが入ってくるのも分からないほど夢中になっているとは珍しい」
「申し訳ありません、つい」
「いやいいんだ、それで誰に書いたのかな」
 相変わらずの優しい声で問いかけてくる。
「母です」
「お母さまですか、以前はよくここに訪ねてきていたからね」
 私の答えに少し意外そうな素振りを見せながら、うん、うん、とあの方がうなずく。母に対しての感情を邪念と呼んだことすらも、忘れてしまっているのだろうか。
「最近は来られていないようだが何か聞いてないのかね」
「いえ、私もしばらく会っておりません」
 ここで普段ならあの方に母への思いを吐き出し相談していただろうが、不思議とそんな気持ちにはならない。
「ダイジョウブ、きっともうすぐ会えるさ」
 私の肩に手を置いたあの方の顔を振り返って見た時、私は凍り付いた。
 あの方は笑顔だ、後ろに控えている男も、でも笑ってはいない。表情が一般的に笑顔と呼ばれる形をしているだけでまるで感情がない。母の笑顔を受け入れることができた今だからこそ分かる。この男達は笑っていない。
 気味が悪い。私は今までこんな笑顔を信じ、本当の笑顔を私にくれた母を見捨てたのだ。不甲斐ない自分に腹が立つ。
 そして何よりも、お母さんに会いたい。
 会って謝りたい、会って抱きしめたい、会ってこれからのことを話したい。その資格が今の私にないことは自覚している。それが無理だということは私が一番分かっている。でも会いたい。
「お母さ・・・母に会うことはできないのでしょうか」
 勇気を振り絞る。さっきまで笑顔の形をしていたあの方の顔がみるみる内に戻っていく。
「残念だけどそれはできない、君はこれから新しい人生を始めるんだよ。そこにお母さまは必要ないよ」
 一変して地を這うような低い声で話しはじめる。
「だからこそ会いたいのです、私には直接会って伝えたいことが山ほどあるのです、どうかお聞きください、私の最初で最後のお願いです」
 必死に食い下がる。
「君がここにどれだけ貢献してきたかはわたしが一番知っている。よく祈り、よく働き、たくさんのお布施を収めてくれた。でもこればっかりはダメなんだ、もう不可能なんだよ」
「そこをなんとか、お聞きください、どうかお聞きください」
 もはやあの方の声は耳に届ていない。椅子から崩れ落ち、あの方のズボンに縋りつきながら何度も何度もうったえる。
 その時、目の前が急に暗転して体が動かなくなった。
 自分の意識が失われていたことに気がついたのは、この薄暗いジメジメしていた部屋で目覚めてからだ。椅子に座っているようだが縛られているため体が動かせない。
 目の前に男が立っている。声が出せない。
「あの方はとても残念がっていました。あなたはどうやら道を誤ってしまったようだ」
 男の少し寂しそうな表情の形に向かって精一杯睨みをきかせる。
「でもご安心ください、あなたは生まれ変わる。この罪もきっと許される」
 罪などではない。この男は間違っている。でもこうなった以上私にできることはやはり『お母さんを幸せにすること』それしかない。
 きっと今から行われることも間違っている。でも微かな可能性にかけるほかない。
 お母さんごめん、どうやら会えそうにないや。さっきの手紙も渡してくれるか分からない。でもやっと分かったよ、お母さんは正しかったんだね。こんなバカな私を最後まで信じていてくれたんだね。
 涙が出る。助けないと、お母さんを助けないと。やっぱり私にはそれしかできない、それは私にしかできない。
 男が近寄る、右手には注射器のようなものを持っているようだ。
 大丈夫、私は生まれ変わってお母さんを助けるのだから。不安になる必要などない、私はやり直すことができるのだから。きっとこの先にあるのは光なのだから。
 意識が遠のく。さっきとは違って空を飛んでいるような感覚になる。ぼやける視界にニタニタとした顔の男が映る。こんな顔を見たことがない。
「それでは、天国のお母さまによろしくお伝えください」
 深い闇が訪れた。

 
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