第1話

文字数 5,691文字

 これは酒好きの叔父が若い頃に体験した話だ。

 ある日の週末、叔父の邦正は友人の武と二人で居酒屋に飲みに行った。だが週末という事で店は混雑しており、二人はニ時間程で店を追い出された。
 まだ全然呑み足りなかった邦正は、一人暮らしの自分のアパートで飲み直そうと提案。武も快諾した。
 しかしその為には酒とつまみを調達する必要がある。まだコンビニという物がない時代。遅くまで開いてる商店は数少なく、二人は態々遠回りをし、夜中まで営業している酒屋まで行き、酒とつまみを購入した。
 その帰り道。途中にある霊園の入口に差し掛かった時、
「近道するか?」と、邦正が霊園を指して言った。そのまま公道を通って帰るより、霊園の中を突っ切った方が5分程のショートカットになる。
「ああ、そうだな。いいよ」
 武も簡単に同意する。夜とはいえ街灯もあり、非常によく整備された市営の霊園である。桜の木が多く植えられており、春は夜桜見物に人が集まるなどで、薄気味悪い雰囲気は殆ど感じられない墓地だ。二人は迷う事なく霊園の中に入って行った。
 時刻は午後9時過ぎ。お盆の時期も過ぎた晩夏である。霊園の中には邦正と武以外誰も居ないが、遠くから国道を走る車の音が微かに聞こえ、人々の活動の気配がまだ空気を伝って感じられる。男二人は、好きな女の事や流行りのTV番組の話など、中身の無い会話を交わしながらブラブラと並んで歩いていた。
 すると突然、武が立ち止まった。
「あれ?おい、あれ見ろ」と、前方を指して言う。
「えっ、なに?!」
 邦正も釣られて立ち止まり、武が指し示す方へと目を凝らした。二人が居る場所から十数メートル先、そこは街灯と街灯の間の光が途切れる薄闇で、視力のあまり良くない邦正には、余程気を向けて見ないと、ただの暗闇にしか見えない場所だった。
「人?」
 邦正が武に聞いた。人が通路を遮るように横たわり、此方に丸めた背を向けて寝ている様に見えたからだ。そして何故かそれが男だと思った。
「人か?」
 武も邦正に聞き返した。
 その「人」は、周りの闇に溶け込むくらい黒く、全く動く気配が無い。もし本当に人が倒れているのだとしたら、それはそれで一大事なのだが、いくら綺麗に整備されているとはいえ、墓地という場所柄どうも気味が悪い。
「武、先に行けよ」
「なんでだよ、お前が行けよ」
 二人は互いに肩や脇腹を小突きながら道を譲り合うも、どちらも先に立って歩こうとはしない。しかしそんなことをしていても埒が明かない。邦正と武は相手が逃げ出さない様に、お互いの腕をがっしりと掴み合うお手々繋いで状態で、前方に横たわる「人」の方へジリジリと歩み出た。
 数メートル進んだところで、邦正の腕を掴む武の手の力が急に抜けた。
「あ、人じゃないわ」
 そう言うと武は横たわるそれにスタスタと近付いて行った。
「あれま、墓石じゃん」
 邦正も急いで後を追い、それの正体を確認した。
 それは墓石だった。和型の竿石と呼ばれる部分の、まだそれ程古く無さそうな、黒石を綺麗に磨き上げて造られた物であった。
「この上に有ったやつが、倒れて落ちたんだな」
 通路の直ぐ横に、台石だけで上の部分がポッカリと空いている墓が一つあった。周りの墓は特に何事も無く整然と佇んでいる中、何故にこの墓石だけが倒れて仕舞ったのか不思議ではあったが、何らかの原因で倒れたのだろう。
「どうする?」
 武が邦正に聞いてきた。
「えっ?」と聞き返すと、
「直すか?」と武が言う。
「こんな所に寝かせたままにしておくの可愛そうだろ」
 そう言うと、武は躊躇なく倒れている墓石に手を掛けた。
「うわっ、結構重いわ。一人じゃ無理だ。手伝え」
「ああ、うん」
 運動部で鍛えた腕力を持つ二十代前半の男二人でも、その墓石を持ち上げるのは容易な事ではなかったが、邦正と武は二人で力を合わせ、大汗をかきながらも竿石をなんとか台石の上に置く事に成功した。
 お陰で折角飲んできたアルコール成分が汗と共に一気に体内から流れ出て、すっかり酔いが覚めて仕舞った。とんだ大仕事である。
 それでも善行を行った後は気分が良い。二人は清々しい気持ちで霊園を後にし、邦正の部屋で夜遅くまで酒を飲んだのだった。

 その次の日の夜の事。
 翌日は仕事だった為、邦正は自室で夕食と一緒にビールを飲むと、早々に布団に入った。どれくらい寝たのかは分からないが、恐らくは真夜中過ぎに邦正は目を覚ました。酒好きの邦正は、時々夜中に尿意で目を覚まし便所に行く事がある。この時もまた小便がしたくて目を覚ました。だが起き上がろうとするが何故か体が動かない。
「えっ、なんで?」
 まるでコンクリート漬けにでもされたかの様に体全体がガチガチに固まり、足の指すら動かせなかった。しかし瞼だけは開けることが出来る。
 どうしたものかと思いながら、眼球だけを動かして薄暗い室内に意識を向けた。すると仰向けに寝ている自分の布団の直ぐ脇に誰かが座っているのが見えた。
「うわあああっ!」
 邦正は心の中で悲鳴を上げた。恐怖の雄叫びを上げたいところだったが、金縛りで声も出せない。
 邦正は小さなボロアパートの一室で一人暮らしだ。薄暗い室内で、それは黒い影のようにしか見えず、顔も分からなかったが、何故かそれが男だと分かった。そして更にそれが、昨夜霊園で邦正達が直した、倒れていた墓石の主であるとも分かるのだった。最初は墓石だとは分からず、人が倒れていると勘違いした時に見た、あの男が布団の脇に座っていたのだ。
 男は前後左右に小さく不規則にユラユラと揺れていた。それは見ているこちらの気分が悪くなる様な揺れ具合だったが、邦正は目を離す事が出来ずにいた。見ていると、その揺れは徐々に大きくなって行く。それがまた不気味で恐ろしく、邦正の恐怖も頂点に達しようかとしたその時、男は大きく後ろに仰け反る様な姿勢を取ったかと思うと突然、邦正の上にドンッと倒れてきたのだ。
「うっ!」
 邦正は一瞬息が止まった。男は恐ろしく重かったのだ。まるで墓石が腹の上に倒れて来たような、そんな重さだ。
 恐怖と痛み、そして激しい尿意の三重苦が、一気に邦正を襲った。男が倒れこんできたのは、邦正の下腹部、丁度膀胱の上だった。寝る前に呑んだビールのアルコール成分の利尿作用で、邦正の膀胱は尿でパンパンに張っていたのだ。
「も、漏れるぅぅぅぅ!」
 最早、腹の上に倒れている男への恐怖なのか、尿漏れへの恐怖なのか分からなくなり、邦正はパニック状態に陥った。
「だ、駄目だ!もう限界!!で、でも、寝小便なんて、絶対に嫌だ。この齢でお漏らしなんて、末代までの恥じゃああああ!!!」
 邦正は尿道括約筋に満身の力を込めた。するとなんと驚いたことに、全く動かなかった右膝がピクリと動いた。
「あっ……」
 これは行けるかもと感じた邦正は、膝に意識を集中させた。すると今度は左膝が僅かに動いた。そしてその両膝から全身へ、水面に波紋が広がるように、力が全身に伝達していった。
「うおっっやぁ!」
 奇妙な叫び声を上げて邦正は跳ね起きた。そして脇目も振らずにバタバタと便所へと駆け込んだ。
「ハア……」
 膀胱内の全ての尿を勢い良く便器に放出し、邦正は安堵の溜息を大きく吐いた。だがそれも束の間、先程の恐怖が直ぐに蘇る。今度は便所から出られない。あの墓石の男が、まだ布団の脇に座っているのではないか。邦正は狭い便所の中で、どうしたものかとオロオロしていた。
 ジリリリリッ、ジリリリリッ……。
 その時突然電話が鳴り、邦正は吃驚して飛び上がった。便所前に設置されていた黒電話が鳴ったのだ。
 邦正は直ぐに便所を飛び出し、電話の受話器を取った。その電話が誰かと繋がり、助けとなってくれるアイテムの様に思ったのだ。
「邦正か?!」
 電話を掛けてきたのは武だった。
「た、武……」
 邦正の声は震えており上手く言葉が出てこない。
「お前、大丈夫か?」
 武に問われ邦正は自分が寝ていた布団の方を恐る恐る見たが、そこにはもう男の姿は無かった。
「う、うん、大丈夫。でも今、出たんだ」
「やっぱりか……」
 何が「出た」のかも言ってないのに、武には分かったようだ。
「俺の所にも来たよ。昨日の墓の男が……」
「えっ!!
「それで、婆ちゃんが突然俺の部屋にきて、明日、朝イチでお前を呼べって言ってるんだ」
 武は実家暮らしで、祖母のミツも含めた家族と一緒に暮らしていた。邦正と同じように、武の部屋にも墓石の男が現れ、金縛りにあって動けなくなったのだが、何かを察したミツが突然部屋に入ってきて、難を逃れたのだということである。
「倒れた墓石を直した話を婆ちゃんにしたら『身内以外の墓に触るなんて、絶対にやっちゃいけない事だ!』って、すげぇ怒られたよ」
 武はシュンとした声で言った。

 武からの電話を切ってから、もう寝る事は出来ず、邦正は室内の電気を全て点けて朝を待った。そして夜が明けると直ぐにアパートを出て、武の家へと向かった。
 早朝にも関わらず、武もミツも身支度を整えて邦正を出迎え、直ぐに家へ上がらせてくれた。
 通されたのは立派な仏壇が置かれた仏間だった。邦正は武と並んで座らせられ、ミツは仏壇の前に座ると数分手を合わせた後、若い二人の方へ向き直った。
「今から教える言葉を紙に書いて、間違えなく覚えろ。しっかり頭の中に入れるんだよ」
 ミツはそう言うと、紙とペンを渡してきた。そしてお経のような、呪文のような言葉を唱えた。それは今まで聞いたことのない言葉で、一度聞いただけでは、なかなか覚えられそうになく、紙に書取るのにも何度か聞き返した程だった。有り難いお経とのことだが、ミツも意味までは分からないと言い、良くない霊や気味の悪い気配などを感じた時に唱えると良い言葉だと、子供の頃に教えられたとの事だった。ただそのお経を文字一つでも間違えると効果は無く、正しく唱える事が重要な為、しっかり暗記しなければいけないと念を押された。
 お経を教え終えるとミツは仏間を出て行った。
 邦正は武と二人、お経をブツブツと唱えながら必死で頭に叩き込んだ。暫くするとミツが朝食を盆に乗せ仏間に届けてくれ、邦正は武と一緒に有り難く食べた。その頃には昨夜の恐怖がだいぶ薄らいでいて、何だかあの出来事が、本当は夢だったのではないかと思うくらいになっていた。
 邦正は朝食を食べ終えると、ミツと武に深々と頭を下げて礼を述べ、仕事に向かった。

 日中は仕事の忙しさのせいで、前夜の男の事は忘れていられた。しかし夜一人暮らしのアパートに戻ると、流石に心細くなったので、ミツに教えられたお経を書いた紙を取り出し唱えてみた。すると不思議に気持ちが落ち着いた。
 簡単な夕食を取りテレビを見ていると、直ぐに眠気が邦正を襲ってきた。昨夜はあまり眠れなかった上に、日中は仕事が忙しかった。その場でゴロンと横になると、邦正はあっという間に寝入ってしまった。テレビも蛍光灯も点けっぱなしだった。

「クニマサ……」
 誰かに名前を呼ばれたような気がして邦正は目を覚ました。室内は暗くテレビも消えていた。そして昨日の墓石の男が、寝ている邦正の横に座っていた。
「出たあああ!」と叫びたい所だったが、声は出せなかった。金縛りだ。
「そうだ、お経を……」と思ったところで、邦正は初めて気が付いた。
「金縛りじゃ、声が出せないじゃないかあああああ!!!」という事に……。折角覚えたお経も、唱えられなければ効力が発揮できない。
 男は昨夜同様、不気味に揺れている。不規則にゆらゆらとした動きは徐々に大きくなって行く。
「ああ…ぐぅがわ……あ"あ"あ"…………」
 邦正は焦ったが、ただ恐怖に慄く以外何も出来ない。声にならない声を発するだけだった。
 男の顔や表情は見えないが、そんな邦正の様子を嘲笑っているかのように、揺れはますます激しくなっている。そして男がグググッと後ろに大きく反り返ったその時だ。
「ジリリリリリッ……」電話のベルが鳴った。
 その瞬間、邦正は飛び起きた。金縛りが解けたのだ。
「○✕○✕○✕○✕○✕○✕○✕○✕○✕○!!
 声を発せられるようになった邦正は、お経を男目掛けて投げつけるように放った。
 すると男の揺れがピタリと止まった。今度は男の方が金縛りに合ったかのようだった。そして次の瞬間、目一杯膨らませたゴム風船に針を突き刺した時みたいに、なんと男はパンッと弾け、黒い霧となって消え散ってしまった。
 目の前で起きた出来事に邦正は唖然となり、暫くその場に立ち尽くした。頭から水を被ったかのように全身汗でびっしょりだった。蛍光灯はいつの間にか点いており部屋は明るくなっていた。テレビの電源も入っており、画面には砂嵐が映っている。
「ジリリリリリ……」
 黒電話は鳴り続いていた。ハッと我に返った邦正は急いで受話器を取った。
「邦正、大丈夫か」
 武の苛立った声が聞こえてきた。
「う、うん、大丈夫」
 邦正は震える声で応えた。
「なかなか電話に出ないから、すげぇ焦ったよ」
 武の方でも、邦正とほぼ同じ状況だったようで、金縛りで声も出せずにいたところに、ミツが部屋へ入って来て動けるようになり、お経を唱えて男を払ったと言う。
「婆ちゃん、金縛りで声出せないことに気付いてなかったみたいで、まあそれは俺等もなんだけど、それじゃあ邦正が危ないと思ってさ、電話したんだよ」
「ああ、そうか。いやあ、お前の電話で助かったよ。ありがとう」
 邦正は額を流れる汗を拭いながら礼を述べると、やっとホッとした気持ちになれたのだった。

 数日後の日中、邦正と武は霊園に向かった。
 あの夜に倒れていた墓石を確認したかったのだ。そして、こっちは善かれと思ってやった事で悪気は無かったし、もしかして何か気に触る事があったとしても、あんなに恐ろしい想いをさせるなんてあんまりじゃないかと、文句の一つも言えればと思ったからだった。
 しかし霊園の通路を何度も行き来し確認したが、どうしてもあの時の墓石を見つける事は出来なかったとの事だ。


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