第1話

文字数 1,984文字

 
 編笠を被った侍は、春うららかな昼過ぎの岩山に入り、越えようとうねうねとうねる道を曲がった時だった。
 倒れている老人らしき男と、べたりと座ってその顔を窺っている町娘がいた。
「いかがした?」
 紺がすり姿の町娘は答える。
「この峠を父と歩いていますと、いきなり岩が降ってまいりまして、父を直撃してしまいました」
 なるほど近くに血のついた拳大の岩が転がっている。
 見上げると、いかにもごつごつした岩壁でいつ岩が降ってきてもおかしくはなかった。
 老人は頭から血を流し、白目をむいて、町娘の問いかけにも応じない。
「お侍様、お助けくださいまし」
「拙者は医者ではない。ただの素浪人だ」
 ここからこの老人を担いで行ったとしても、着く頃には息絶えていることだろう。
「助かる見込みはないといってよい。あきらめよ」
 町娘は喉に黄色い手拭を巻いていて、お腹辺りを触った。そこには町娘の物らしき黄色い巾着と老人の物らしき茶色い紙入の端が見えていた。
「助かる見込みがないのなら、いっそのこと……」と唾を飲み込む。「ひとおもいに天国へと……」
「良いのだな」
 町娘は涙ながら頷いた。
「さがっていよ」
 町娘にさがらせた。
 町娘は正座して目をつぶって、手を合わせている。
 侍は長刀を抜き出し、その銀色の刃を輝かせると、死にていの老人にひとおもいに突き立てた。
老人がぴくりとも動かなくなると静けさに包まれ、このままにしてはおけまいと二人で近くの茂みに埋葬して良い岩を選んで墓石を立てた。
町娘はいつまでもそれを拝んでいた。
「では拙者はこれにて離れるぞ」
 町娘は振り向くと、
「ありがとうございました。この御恩はけっして忘れません。父がこのようになってしまいわたくしは天涯孤独となりました。病気がちな父と最後の思い出との気持ちであくせくお金を貯め、旅に出たのございます。せめて、次の宿場までお供させてくださいまし」
「たしかに娘一人では不安であろう。次の宿場までついてくるがよい」
 侍が歩きだすと少し離れて娘はついてきだした。
 侍はふと振り返り尋ねた。
「そなたの名はなんと申す」
「お菊でございます」
「父の名は」
「茂吉でございます。お侍様のお名前は何でございましょう」
「そうだな。風のように吹いては流れる風之助と申しておこうか」
そのあと風之助とお菊は日暮れまでになんとか次の宿場まで辿り着き、居酒屋で腹ごしらえをしてから同じ宿に泊まることになった。
お菊は先に湯をすまし、もう就寝すると襖越しに告げて廊下を去っていった。
風之助は疲れと酔いで動くのが億劫になっていたが、なんとか立ち上がり、湯に浸かりに行くことにした。
湯場はもはや深夜のこととて誰もいなかった。
 灯りがぼんやり辺りを浮き上がらせている。
 侍は籠に着物、紙入、刀を差し込み、湯手という手拭を持って湯に浸かりに進む。
 温泉は入った時はとてつもなく熱く感じられたが、わりあいすぐ慣れて心地良くなってきた。
 そのまま眠ってしまいそうになりかけた。
 すると脱衣場で何かが動いたような気がした。
 猫か、犬か、それとも鹿か、猿か、猪か……。
 風之助は音をたてぬように湯からあがり、湯気にまみれて脱衣所に近づいた。
 侍の籠にくっついている者があった。
「おのれ何奴、顔をあげい!」
 それは町娘お菊だった。手には風之助の紙入があった。
「おぬしはその紙入をどうするつもりか!」
「い、いえ、これは……」慌てて籠に戻す。
「拙者は怪しいと思っておったのだ。あの峠で父は瀕死だが、まだ死んだわけではないのに、すでに老人の紙入はおぬしの懐にあった。あれは父ではなく、元から紙入が目当てではなかったのか」
「そんなあれはわたくしの父でございます」
「嘘をつけ。おぬしはあの老人を岩で殴ったのではないか。そのあと紙入を懐に入れたのではないか」
「そんな、何を証拠に」
「おぬしがあの老人と親子という証拠があるのか」
 お菊はおし黙る。
「そして次は拙者の紙入か」
「それは違います!」
「まだ認めぬか! それならばその首の手拭をとるのだ!」
 侍は素早く刀をとると抜き身の先を向けた。
 刃の先で催促をして、やっとお菊は手拭をとる。
「その突き出た喉仏はなんだ! おぬしは男ではないか!」
「これは……」
相手がまだ認めないので着物を脱がせた。
胸に膨らみはなく、股間の茂みには棒状の物と袋状の物があった。
「これは何だ。おぬしは男だ。誰がどう見ても間違いない」
 お菊と名乗っていた者はぶるぶると震えていた。
「どうかお願いでございます」消え入りそうな声で言う。
「このたわけが! まだ裏声を使うのか。おぬしは拙者の紙入をとったあと逃亡する時は男に戻るつもりだったのだな」
 お菊と名乗っていた者はぶるぶると震えながら、しばらくしてやっと渋々頷いた。
「成敗してくれよう。覚悟せい!」
 風之助は刀を振り上げ、一閃させたのだった。

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