黒い鞄

文字数 1,955文字

 夜遅く、裏通りのホテルに、黒い鞄を抱えた若い男が入ってきた。
 チェックイン手続きを終えた男は、九階の部屋に入ると、湿った生温かい空気を感じながら、明かりを点けた。
 そして、鞄を小さな机の上に置き、中身を確認した。

 その時、バスルームから水が滴る音が聞こえてきた。
 ポタ……ポタ……ポタ……。
 男が覗くと、シャワーからバスタブの中に水が垂れている。
 男は蛇口を締めようとバスルームの明かりを点けた瞬間、叫んだ。
「何だ!」
 垂れているのは真っ赤な液体である。
 男はシャワーの蛇口をきつく締めたが、赤い液体は止まらない。

 男はすぐに部屋からフロントに電話した。
「はい、フロントです」
 女性の声で返事があった。
「シャワーの蛇口が壊れている。すぐに修理に来てくれ」
「はい、すぐに伺います」
「じゃあ、待っている」
「修理代は三千万円になります」
「何だって?」
「ふっふっふ……嘘です」
 そこで電話が切れた。

 しばらくして、部屋をノックする音が聞こえた。
 男はドアを開けたが、そこには誰もいない。
 シャー。
 男はシャワーの音に気付き、中を覗くと、赤い液体が勢いよく吹き出し、バスタブに注がれている。
 バスタブには、足首くらいの深さまで、赤い液体が溜まっている。

 男はフロントに行くために部屋を出て、薄暗い廊下をエレベーターに向って速足で歩いた。
 すると、男の後ろから足音が聞こえる。
 男は振り返ったが、誰もいない。

 男はエレベーターに乗り、フロント階のボタンを押した。
 ふと、エレベーターの外を見ると、女性の靴が一足、こちら向きに揃えて置いてあり、靴の周りは赤い液体で濡れている。
「うわっ!」
 男は思わず声を上げ、閉まるボタンを勢いよく何度も押した。

 フロント階でエレベーターを降りて、男はフロント係の男性に言った。
「先ほどシャワーの件で電話したが、まだ誰も来てくれない」
「そうでしたか。では、私が伺います」
 真面目な顔つきで体格の良いフロント係は、男と共にエレベーターに乗り込んだ。
 男は安心して、ふっと息をついた。

 扉が閉まりエレベーターは動いたが、下がり始めたことに気づいた男は、前方を向いているフロント係の後姿に声をかけた。
「僕の部屋は九階だが……」
「いえ、安置室へ向かいます」
 フロント係が女性の声で返事をした。
「何だって?」
 よく見ると、後姿のフロント係の髪の毛は肩まで伸びている。そして両足とも裸足である。
 フロント係はゆっくりと男の方に振り返った。
「うわー!」
 フロント係の顔を見て、男は絶叫した。
 その瞬間、フロント係の姿は消えた。

 エレベーターはそのまま下がっていく。
 男はフロント階のボタンを何度も押したが、点灯しない。
 フロント階のボタンより三つ下の〈安置室〉と書かれたボタンが点灯している。

 しばらくして、ガタン、と音を立ててエレベーターは止まり扉がゆっくりと開き始めた。
 男は、閉じるボタンを何度も押し続けたが、扉は開き続け、完全に開いたところで止まった。
 
 扉の外は真っ暗で何も見えない。
 男は、何度も閉じるボタンを押し続けたが、扉は開いたままだ。

 しばらくすると、エレベーターの外から、赤い液体がゆっくりとエレベーターの床に流れ込んできた。
 男は、驚いて後ろに下がり、エレベーターの後面の壁に張り付いた。
 赤い液体は、ゆっくりと男の足元へ流れてくる。
 男は右足を上げたが、赤い液体は男の左足に流れ着いた。
 男の左足が液体に触れると足は赤く変色し始めた。そして、足は徐々に崩れながら赤い液体に変わっていく。
 そして、男の体全体が赤い液体となって、床に広がった。


 翌朝、男の部屋には、警察が数名来て調査をしている。
 バスタブの中では、男が溺死体としてうずくまっている。
 警察は、ホテルのフロント係に尋ねた。
「この男性を最後に見かけたのはいつですか?」
「昨夜九時くらいにホテルにチェックインした時です」
「その後は?」
「見かけていません」

 その時、警察の一人が言った。
「部屋に残っていた黒い鞄には、現金で三千万円ほど入っています」
「なんだと?」
「そういえば、この死亡した男性の顔は、例の詐欺事件の犯人の顔に似ていませんか?」
「ああ、女性から三千万円騙し取った事件のことか?」
「はい」
「そうかもしれない。もしそうなら、被害者の女性に金を返すことができたのに……女性も早まったことをせず、もう少し生きていればと思うと、とても残念だ……」

 同じ頃、誰もいない警察署の死体安置室に置かれていた一体の女性の顔が、わずかにほほ笑んだ。
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