第1話

文字数 10,714文字

あなたが14世紀に書いた『神曲』。地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部からなる長編叙情詩。中でも地獄篇は当時の多くの人に読まれ、それまで抽象的だった地獄の概念を人々に植えつけることになったって聞きました。それから7世紀経った現在、神曲が書かれたイタリアから数千キロ離れた東京に住む、英語すらろくに読めない私でさえ、地獄のイメージを頭に思い描くことが出来きます。ダンテさん、一つ質問させて下さい。あなたの見ていた地獄は私が見ているものと同じでしょうか。

 電車が止まると同時に私は隣のくたびれたスーツ姿のおじさんと一緒にホームへ押し出される。肩にかけた黒いレザーのバッグが今度は違うくたびれスーツおじさんと、結構シュッとしたスーツお兄さんの間に挟まれ、左に引っ張られた。バッグの紐に締められた肩が痛い。運転を見合わせていた電車がやっと動いたのは数十分前、車内はタイムセールで無理やり特売品を詰め込んだビニール袋のように、ぎゅうぎゅうに人が乗っていた。彼らが一気にホームへと降りる。降りるというよりも押し出されているといった方が表現としては近い。人間が一斉に同じ方向へ動いた瞬間の力はものスゴく大きいなといつも思う。まるで大きな波のようで、逆らって逆に進むことは出来ない。
 身体の向きとは別方向に引っ張られたレザーのバッグが、やっとのことで私の元へ戻って来る。乗り換えの駅で流れていたアナウンスでは人身事故って言ってたな。もう全く迷惑なことしてくれたもんだ。そう思ったのもつかの間。前のめりになったおかげで張り出したお尻に何かが這う感覚がした。この感覚には社会人6年目にもなれば慣れっ子になる。私の体を触ったのが誰か確かめたいけど、バランスを崩しているおかげですぐには後ろを振り向けない。やっと態勢を整えて後ろを振り向く。若作りをした50代くらいのおばさんが私の方を「何?」といった感じできっと睨んできた。今日もまた私の大きくも、すっきりもしていないお尻を好んで触る、もの好きの顔は拝めなかったか。女性専用車両に乗ればと夏菜子は言うけど、女性専用車両は一両目にしかない。私が乗り継ぐ階段は、だいたい9両目から10両目の間くらいにあるから、電車を一本見送らないと安全地帯にはたどり着けない。
 若作りおばさんの顔から逃げるように視線をそらす。逸らした視線を横に向けても、上に向けても、みんなスマホをいじるか、足元を見るかして、ただひたすら前の人に続いて改札へとつながる階段を上っている。単線の駅の中で一番、一日の乗客率が高いらしいこの駅は、私の勤務先の最寄りだ。こうして毎日たくさんの人が、死んでもいないのに死んだような顔をして出勤をしている。みんな同じような顔で、前の人にただ続いて、同じ歩調で階段を上っている。私もその例外ではなく、彼らと一緒に階段を上る。毎朝ホームに降りる度、このホームが私にとっての地獄、そしてここから地上に出るまでの階段が煉獄だなと思う。ちなみにその先に天国はない。
 でも、今日だけは違う。今日は一緒には上らない。私は人々が上に向かう流れになんとか逆らい、ホームの柱に寄りかかった。ふーっと息をつき、煉獄を上る彼らが過ぎ去るのを静かに待つ。さっきの痴漢男にも、睨んできたおばさんにもムカつかなかった。ただただ、地上へと向かう罪深い人々を哀れに思う。
「かわいそう。」
そう心の中でつぶやく。その頃には、なだれ込むように電車を降りた人々の姿は全て階段の上へと消えていた。
 ホームは遠ざかる足音の他何も聞こえない。とても静かだ。私は静かなところが好き。28年間の最後にしては悪くない。ただ、今朝の人身事故は本当に迷惑だ。同じ日に二回も起こしてしまっては、駅員さんがかわいそう。あれって片付けとか結構大変らしいから。
 自殺するには何か大きな理由があるからって勝手に決め付けて、身辺を調査してドラマ仕立てに語るニュースとかがあるけど、私はそんな人ばかりではないと思う。結構突発的にやってしまう人もいるのではないか。私のように。毎日煉獄を上っているうちに「いつか」と思っていたけど、何となく今日かなと思った、そんな些細な理由で。
 静まり返ったホームに電車が到着するアナウンスが流れる。ああ、ついにこの時が来たと思った。後悔はなかったし、残していく人に対しての思いみたいなものはない。不思議と心は落ち着いている。自分でもびっくりするくらいに。もしかしたら自分は本当の地獄に落ちるのかもしれないなと思うと、少し怖いけど、そもそも地獄が本当にあるかもわからないし、私はキリスト教ではないから14世紀にイタリアの詩人ダンテが定義したような地獄には行かないだろう。
 電車がホームへと入ってくるゴオーッという音が遠くから聞こえる。右を見ると駅員が私のことなど気にも留めずに、やってくる電車のほうをじっと睨んでいる。きっと次の降車する波に備えているのだろう。これなら難なくいけそうな気がする。私は一歩足を踏み出し、線路へと近づいた。電車が近づく音は今や、髪に吹き付ける風とともに耳の中で大きな音を立てている。「ゴオーッ」という音が頭のなかでこだまし、鼓動の高鳴りを促進させる。
「今だ」
私は目を閉じて身体の力を抜く。力を抜いた身体は何かに吸い込まれるように線路へと誘われていく。警笛の高い音がする。きっと私に向けられたものだろう。でも、もう引き返せない。力の抜けた私の身体は、もはや自分の力では元の位置に戻ることは出来ない。「これでいい。」
そう思った。これいいんだ。ゴオーッという低い音と、ピーッという高い音の両方がだんだんと遠ざかっていく。私が自由になれる時が来た。


 「もうほんと人身事故とか勘弁してほしいよね!」
夏菜子の荒げる声に私は我に返って、
「えっ?」
と素っ頓狂な声を上げる。彼女は呆れたように視線をこちらに向けた。その視線は私を咎めているようで、心臓のドキドキという音が内側から聴こえてくる。
 夏菜子は同じ会社で働く同期。色白で目が大きくお人形さんのような顔立ちをしているだけでなく、その所作からは大切に育てられたんだなとわかる品の良さがある。そんな彼女に見つめられると、女である私でもドキッとしてしまう。もちろんさっきのドキドキはそれが理由ではないのだけれど。
「人の迷惑になるようなことわざわざするなんて信じられない。お父様が聞いたらなんて言うか。」
「お父様って大げさな。」
食堂のパスタを頬ばりながら、秋子がやれやれと言った表情をする。
「確かにそうだよね。もっと静かな場所選んでほしいよね。」
私は内心ホッとしているのを隠すのに、そう答えるのが精一杯だった。夏菜子に同情するふりをして、ほんと困ったねという顔をしてみる。
「本当に最悪。私今日寝坊しちゃって、すっぴん同然で来ちゃったから、トイレ行くついでに化粧直してたら、大橋さんに嫌味言われたんだから。」
大橋さんは、夏菜子と秋子のいる部署の一般職のお局。いつも、若くて男性社員からちやほやされる女性一般職をいじめていることで有名だ。夏菜子はその対象の例外ではないが、お嬢様育ちでありながらも、芯はしっかりしたところがある子だから、そんな軽いいじめではへこたれたりはしないようだ。ちなみに秋子も私達の同期。彼女はどちらかというとさっぱりとした男勝りの性格だ。その辺は私と似ている。
 ピコんとLINEの通知が鳴った。画面を見ると彼からだった。私がスマホを見るのにも気づかず、夏菜子はまだ大橋さんの愚痴をこぼしている。ここは会社の食堂だから、近くにいるかもしれないのに、そんなことお構いなしといった感じだ。そんな夏菜子の性格が私も秋子も好きだが、もう少し気を使ってもいいのではと時々思う。
「そういう面では京ちゃんはいいよね。かわいいのにああいうお局には目付けられないからさ。元彼だってイケメンだったし。」
「ちょっと夏菜子。京子まだ立ち直ってないんだから少しは気を使ってあげなよ。」
秋子が今度はサラダに手をつけながら答える。
「えっううん、もう大丈夫だから。」
私は内心落ち着かずに答える。とても立ち直ったと胸を張って言えない。秋子の気遣いから逃れるように、送られてきたLINEのメッセージをちら見する。
『今朝は突然すみませんでした。声をかけるべきか迷ったんですが、気になってしまって。よかったら今度食事でもどうですか?』
いきなりの誘いに驚いた。少し戸惑ったが、
『いえ、こちらこそ朝からご迷惑をおかけして。はい。お時間あれば是非』
と素早く指を動かし仕事のような返事を返す。
「ごめんごめん。でも京ちゃん今日は少し顔色いいよ。」
夏菜子が悪気ない可愛い顔で私を見つめた。
「確かに。」
秋子も同調して私の顔を覗き込む。
「もしかして誰かいい人出来た?」
この子達はなかなか鋭いなと思う。
「ううん。まだそこまでは回復してないかな。」
私はなんとか笑ってごまかすが、ちゃんと笑えていただろうか。
 スマホが再び音を立てる。彼からの返信がきた。
『よかった。では明日はいかかでしょうか?』
彼も今お昼休憩なのだろう。素早い返信にテンションが上がるが、そんな言い訳をしてなんとか自分を落ち着かせる。すぐに返信しようか迷う。なんせあんなところを見られてしまったのだから。こいつメンヘラなのかと引かれかねない。返すのは業後にすることにして、二人の会話に加わり直した。


「すみません、お忙しいのに急にお誘いしてしまって。」
シャンパンで乾杯してすぐ、彼は照れくさそうに謝った。彼が連れてきてくれたのは、有楽町から銀座方面に歩いてすぐのビルに入っている、カジュアルなイタリアンレストランだった。昨日業後にLINEを返すと、すぐに返信がきて、待ち合わせの時刻を告げられた。見た目は童顔で柔らかい印象。昔どっかで会ったことありますよね?って感じの親しみやすさがある。でも、この急展開から察するに、以外と積極的な人なのかもしれない。そのギャップも悪くはないと思ったのも束の間、次の言葉でそんなことを考える余裕はなくなる。
「それにしても、京子さんみたいな人があんなことしようとするなんて意外でした。」
やっぱりその会話になってしまう。
「いえ、その節は本当にご迷惑をおかけしました。」
前菜で頼んだ生ハムに髪がついてしまいそうなくらい、深々と頭を下げる。彼の顔をちゃんと見られなかった。
「いえいえ、いいんですよ。でも結構びっくりしました。なんせあんな場に立ち会うのってドラマか漫画の世界だけだと思ってたから。でも、こんな綺麗な人でも死のうなんて考えるんですね。」
彼は照れくさそうに笑ったが、困った表情をしている私の顔を見て、
「すみません、昨日知り合ったばかりなのに、失礼なことを。」
と言って姿勢を正す。
「いえ、そんなことないです。お世辞でも嬉しい。」
私も同じように姿勢を正して、素直にそう答えた。
「あの・・・こんなこと聞くのは良くないかもしれないですけど、何かあったんですか?」
彼の目はとてもまっすぐだった。そんな目で見られたら、答えるのも答えられなくなってしまう。私の顔が拒絶の表情を浮かべているのを悟ったのだろうか、彼は、
「あっいえ、すみません。なんでもないです。こんな見ず知らずの人間になんて話したくないですよね。なかったことにして下さい。」
と言ってグラスを持ちあげ、グイッと泡のたつシャンパンをあおった。パチパチ泡を立てるシャンパンは、昨日の朝死のうとしていた人間が口をつけるのは憚られるほどの「生」を感じさせた。私はその「生」に対して、免罪符代わりにシャンパンを一口飲む。なかったことにするのが、私を綺麗といった方ではなくて少し嬉しかった。

 その後は、特に昨日の出来事に触れることもせず、会話は主に、彼の仕事の話になった。彼は大手商社の営業マンで昨日はたまたま取引先に(それがうちの会社だったのだが)来るため、あの駅で降りたのだという。
「商社っていうと聞こえがいいけど、結構泥臭い仕事ばかりで。卸先の業者が納期遅延起こした時なんか、クライアントに土下座覚悟で謝りに行くことなんてザラだしね。」
いつの間にか彼は敬語ではなくタメ口になっている。お酒も進んで少し気が緩んだみたいだ。それでも彼のタメ口は全然嫌な感じがしない。商社マンって感じの偉そうな態度が全くなく、見た目通りに爽やかだ。そんな彼の雰囲気がそうさせるのか、それとも3杯分のシャンパンがそうさせるのか、気づけば私は口を割っていた。
「彼氏にふられたんです・・・。一ヶ月前。私、大阪出身なんですけど、大学でこっちに出てきてすぐに付き合った彼で、それ以来ずっと一緒にいました。私の中では結婚するなら彼しかいないって思っとったんですけど。」
思わず関西弁が出てしまった。東京へ出てきてからなるべく使わないようにしてきたのに。
「でも、彼には他に女がおって。それで、突然・・・」
心がせり上がって来るのがわかる。目の周りが熱い。溢れ出す言葉と感情を抑えられない。
「そうだったんですか。それはひどいですね。」
彼は突然の私の告白に戸惑ったのだろう。困ったようにグラスを持った。さっきとは違って、今度はゆっくりと少なくなったシャンパンを口に運ぶ。
「すみません。こんなことで自分から命を絶つなんてありえないですよね。でも耐えらんかった。なんとか吹っ切ろうとしたんやけど、どうしても彼のことを考えてしまう。仕事も全然集中出来なくて上司からは怒られ、夜は悪夢で目が覚める。夜になるのも朝になるのも怖くて全く眠れない。身体にムチをうって出勤しても、電車は毎日吐きそうなほどの人で詰まっている。降り立つホームはまるで、地獄、改札へ繋がる階段は煉獄みたいに見えるようになりました。うちはなんでこんなとこおるんやろう・・・そう思えば思うほど、もうどうでもよくなっている自分がいました。」
泣き出しそうになる私を気にして、彼は周りをチラチラ見ながら、
「いや、そんなことないよ。僕も少し違うけど、同じような経験をしたことがあるから。まあ、僕の場合は恋人ではなかったけど。」
彼は私にハンカチを渡すと、ゆっくり間を置いてから話し始めた。
「僕ね、学生時代ずっとスキーやってたんだ。まあ、自分で言うのもなんだけど、成績もそこそこ良くて。大学2年の時には日本代表にも選ばれたことあるんだ。」
彼は昔を懐かしむように微笑みながら続ける。
「でも、3年の冬、あれは新潟のスキー場だったな。合宿中に怪我をしてしまって。モーグルって知ってる?あのジャンプとかするやつ。そのジャンプした時にね、派手に転んだんだ。頭とか腰とか全身うってさ。気づいた時には病院のベッドだった。」
私は彼のハンカチを握りながら淡々と話を聞いていた。スキーなんてろくにしたことはなかったから、そんな危険が伴うものだと想像出来ない。
「それで、意識が戻ってから知ったよ。足の骨がバラバラになってた。歩くのには支障がないくらいには戻るかもしれないけど、もうスキーは難しいって医者からは言われた。ショックだったなあ。京子さんじゃないけど、僕もスキーが恋人みたいなものだったから。そうだな・・・当時の僕は恋人も奪われ、スキーという世界からも遠ざけられた、まるでベアトリーチェを失って、フィレンツェから追い出されたダンテみたいだったのかも。」
「えっ・・・」
私の表情に彼が優しく微笑む。
「地獄と煉獄なんて表現使うくらいだから、きっと京子さん好きなのかなと思って。僕は少ししか読んだことないけど知ってるよ、ダンテの『神曲』」
「私は・・・」
「やっぱり京子さんに出会えてよかった。あんなかたちだけど、僕は現実ではちゃんとベアトリーチェを救えたみたいだ。」
彼はそう言うと、店員さんを呼んで追加のお酒を頼む。私はさわやかに注文をする彼を見ながら、昨日飛び込む寸前に彼が掴んだ右腕にそっと触れた。もう何時間も経っているにも関わらず、彼が掴んだその箇所は今でも暖かい。私はこの時思った。彼は私を救ってくれたんだと。

 ベッドに横になって部屋の明かりを眺めていると、遠くでシャワーの音が聞こえる。間接照明で薄く照らされた室内でシャワーの音を聞いていると、とても心地良くて眠ってしまいそうだ。この暖かさは自分だけでは作れないんだろうなと思う。少し乱れたシーツの隅の方は冷たいのに、さっきまで彼がいた場所は暖かい。この温もりと同じものを身にまとっていると思うと、ここ一ヶ月ぽっかりと穴の空いた心が一気に塞がっていくのがわかる。久しく味わっていなかった「生」を今感じている。不思議だ。こんなに暖かな「生」を感じているのに、今はとても眠い。生きるって眠いってことなのかな。
 そんなことを思った時、耳もとでアラームの音が鳴る。目を開けるとそこはホテルの一室ではなく、見慣れた自分のマンションだった。もちろんシャワーの音は消えている。
「なんだ・・・夢か。」
アラームを止め、ため息をつく。金曜日に北川さんと食事をした後、そのまま一線を越えた。今まで初対面の人とホテルになんて行ったことはなかったけど、北川さんは特別だと思った。お酒を飲んでいたせいもあるかもしれない。それにしてもあんなに私って大胆だったっけと思う。まるで別人のようだった。
 カーテンを開けると朝日が目にしみる。とろけてしまうような太陽の光に、身体がすこし拒否反応を示している。さっきまで見ていたあの夢の中に戻りたくてしかたない。彼の温もりをまた感じたいと思った。これも月曜のせいかと思い直してベッドから起き上がる。
 髪を整え、歯磨きをして、化粧台の前へ座る。今日は肌のハリがいい感じがする。女性は恋をすると綺麗になるというのはあながち間違っていない。この一ヶ月よっぽどひどい顔をしていたんだろうな。夏菜子や秋子は気を使って何も言わなかったけど、きっと相当病んでいたと、この前の話から悟った。でも、今日はちゃんとした顔で出社出来そうだ。
 化粧を終えてスマホを見る。土曜の朝にホテルで彼と別れてから連絡はない。今週は海外出張らしく、また連絡すると言っていた。今頃は空港だろうか。仕事とはいえ、海外へ行けるなんて羨ましい。最後に海外へ行ったのは学生の卒業旅行の時だ。その時はなんということもなしに、友達とイタリアのフィレンツェへ出かけた。一ヶ月前に別れを切り出された彼はその時に出会った。異国で日本人と会うと安心するのだろう、お互いの連れとともに、その後の2日間を4人で過ごした。過ごすうちにだんだんと距離が縮まっていったのを覚えている。たまたま入った博物館で一緒にダンテの物語を読んだ。ダンテなんて高校の授業で名前を聞いたことがあるくらいだったけど、博物館で知ったダンテの生涯の話がとても切なく、二人で感心してしまった。その時彼が、
「俺なら絶対ベアトリーチェを離さないけどな」
と私に向かって言ったことは今も忘れない。
 そんな彼ももうこの部屋に来ることはない。正直、彼が使っていた歯ブラシはずっと捨てられなかったけど、今なら出来る気がした。文字通り、地獄の底から私を救ってくれた人が現れたんだから。
 薄めの赤いリップを手早く引くと、洗面台へ向かい、元彼が使っていた青い歯ブラシをゴミ箱に捨てる。洗面所に残っているのは自分がさっき使ったばかりの赤いもの一つになった。まだ少し濡れている持ち手は、リビングから差し込む朝日を浴びて、キラキラと光っている。それは生まれ変わった自分を象徴するかのようだった。
 リビングへ戻って時計を見ると、家を出なければいけない時刻になっていることに気づく。急いでテレビを消そうとリモコンを手に取った。いつもの綺麗な顔をした女性アナウンサーがニュースを読み上げている。
「昨日都内の駅で起きました事故に関しまして、警視庁は何者かによって線路へ突き落とされたとの見方で聞き込みを行っております。被害者の橘秀樹さんがホームから線路内に転落する直前、何者かが橘さんを線路へと着き落とす映像が、ホームに設置された監視カメラに映っており・・・」
私はリモコンの電源ボタンに指をかけたまま、その場に立ち尽くした。今、彼女はなんて?リモコンを手にしたまま、テレビ画面を凝視する。そこには、見覚えのある名前があった。橘・・・秀樹・・・誰だっけ?見覚えがあるはずなのに、全く思考が追いつかない。つい最近見たはずなのに、なぜか全く知らない名前のように、頭の中の点と点が結びつかない。
「橘・・・秀樹・・・たちばな・・・ひでき・・・ひで・・・ひでくん。」
初めに頭に浮かんだのは、さっき捨てた青い歯ブラシだった。あの歯ブラシを使っていた人。私が5年間好きだった人の名前が、まるで他人のようにテレビ画面に映っている。その時の私の感情はどういったものだったんだろう。私を捨てた男が死ななかったことを憎たらしく思ったのか。それとも、まだ彼に対して残っている愛情が、突き落とされた彼を哀れんでいたのか。形にならない感情が身体の中をめぐり、その場から動けない。私が死のうとした直後に、偶然にも私の自殺動機を作った人が、どこの誰かもわからない手によって殺されかけた事実に、一瞬で体内の全ての機能が停止したような感覚になった。それこそ、ドラマの世界の話ではないか。
 やっと身体が動くようになり、テーブルに置かれたスマホを手に取る。まだ消していなかった彼の LINEに文章を打ち込む。とっくに私のアカウントなんて消してしまっているかもしれないけど、それでもとにかく連絡せずにはいられなかった。私になんかに心配されても困るかもしれないけど、この目で無事を確かめたい、不思議とそう思った。
 すぐに返信が来るわけもなく、会社へ行っても、全く仕事が手につかなかった。最近はもう上司も呆れて何も言ってこない。上の空の時間が過ぎ去り、彼から返信が来たのは3日後の夜だった。


「久しぶり」
病室のベッドで横になっている彼はかなりやつれて見えた。別れてから彼に会うのは、これが初めてだった。
「京子。わざわざありがとう。」
ベッドから上体を起こして言う彼の腕と脚には、白いギプスが巻かれている。
「大変だったね。変な事件に巻き込まれて。」
ベッドの脇にある低めの椅子に腰掛けながらそう言うと、彼は罰の悪そうな表情をした。
「うん。怪我もそうだけど、かなり驚いたよ。2、3日はショックで何も考えられなかった・・・。」
その後彼は、何かを隠すように黙り込んだ。
 私はギプスが巻かれた彼の腕に遠慮がちに触れた。直接触れることの出来ないこの腕で、何度抱きしめられたかわからない。でも、今はこのギプスが私たちの距離を感じさせるのにぴったりな障壁となっていた。
「せっかくだから京子に言いたいことがあって。いや、その前に京子にはちゃんと謝っておかないといけないな。本当にごめん。」
彼はベッドの上で出来る最大限の深さで頭を下げた。怪我をしている人間に頭を下げられると、私は何も悪くないのに、心が罪悪感で締め付けられる。
「ううん。もうそれはいいの。そこまで引きずってないから。」
こう言うことが、ベッドに弱々しく座る彼の為に出来る唯一のことにように思い、ちょっとだけ強がってみせた。
「ありがとう。やっぱ京子は優しいな。」
「そんなこと・・・でも本当にもういいの」
それ以上、この話はしたくないと思い窓の外を見る。休日の午後の日差しが病室内の私たちの間に降り注いでいた。
「そっか・・・。あのさ、さっきの話の続きだけど・・・」
彼の目は真剣だった。彼はきっとこの話をするんだろうなと思う。
「俺の高校の先輩でさ。大学は違ったんだけど時々連絡取ってて。京子のことも少し話したことあるし、写真とかも見せたことある。可愛い子だねって言ってた。一回会ったことあるはずだよ。2年前くらいに俺が飲み会でけっこう酔っ払ってて、京子が迎えにきてくれた時に。あの時は悪かったな・・・」
彼は自分に呆れたように力なく笑った。腕と脚にギプスを巻いて、病院のベッドに座りながら話す彼の姿はなんだか哀れに思えた。目の前にいる、かつて愛したその男はあの日死のうとしていた私と同じくらい、とても力なく存在している。私には彼が話す当時の記憶はなかった。もともと女友達の多い人だったし、その人がどんな顔でどんな身体をしていたかなんていちいち覚えているはずがない。
「そっか。そんな昔から知ってる人なんだ。私は残念だけど覚えてないな・・・でもきっと素敵な人なんだろうね」
「ああ・・・」
私の顔を見ずに彼は頷く。
「スキーやってる人でさ。今はもう辞めちゃったみたいなんだけど、昔は結構すごかったんだよ。しかも今は商社で働いている。」
「へえーそうなんだ。ヒデくんそういう人好きだよね。そういう才能溢れる人。いいと思う。」
やはり話の続きはこのことだったかと思い、バカバカしくなった。突き落とされたことがよほどショックだったのか、元カノを捨てた理由を本人に洗いざらい話して、自分の罪を軽くしようとしているのだ。もうこれ以上聞きたくない。
「話したいのはそれだけ?なら、私はもう行くね。その人が見舞いに来るかもしれないし。気まずいでしょ。捨てた元カノと鉢合わせなんて。しかも私のこと知ってるならなおさら。」
今度こそ本気で吹っ切れそうだなと思った。急いで立ち上がろうとする私の腕を彼がギブスの巻いていない方の手でつかんだ。
「京子?なんか勘違いしてないか。俺が話しているのは女のことじゃない。」
振り返って彼を見る。彼は戸惑った目をしながら早口に続けた。
「俺がさっき話したのは、俺を突き飛ばした人のこと。俺も突然のことでびっくりしたんだけど、突き飛ばされる前に目が合った。それで言われたんだ。『俺なら絶対ベアトリーチェを死なせないけどな』って。北川先輩のあんな顔初めて見た。それに、これってダンテだよな?ベアトリーチェって誰のことを言ってんだか分からないけど・・・」
 彼の言葉に答えるように、ピコんとスマホが鳴った。震え始めた腕を動かして画面を覗く。届いたメッセージの宛先として映された北川宗介という名前。そのデジタルな文字列が、私の背筋を雪面のように冷たく凍らせる。


 親愛なるダンテ・アンギエーリ様
 先日の手紙のことですが、訂正してもいいでしょうか。私はまだ、本当の地獄というものを見ていなかったのかもしれません。
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