第1話

文字数 2,606文字

【エッセー賞】いつのまにか七十歳になってしまった。こんな歳になるなんて、若い頃は想像もしなかった。
パンプスの音をカンカン響かせながら、さっそうと誰よりも早く道を歩いていた私。だ
けど、今日、駅へ着くまでに何人の人が私を追い越していっただろう。自分では以前と同
じ速度で歩いているつもりなのに。
電車の中では、席を取り合う年配の女たちに冷ややかな視線を送りながら、空いている座席には目もくれずつり革につかまって文庫本を読んでいた私。それなのにいまは、いち早く
乗り込んで空いている席を探してはわずかな隙間にお尻を押し込んでいる。隣から「ちっ」
という舌打ちが聞こえる。
優先座席で若い男性が二人分の面積に座ってスマートフォンに熱中する姿を時々見かけ
る。LINEかゲームかライブか何を見ているのか知らないけれど、年寄りが乗ってこよう
が、赤ちゃんを抱いた母親が前に立とうが、「近頃の若いもんは」的な視線を浴びようと、
周囲には全く関心がない。スマホの画面しか見ていない。あんたが息子でなくてよかったよ。
かたや、こんな娘がいなくてよかったと思う金髪、ピアスの若い娘が席をゆずってくれたりする。「いいんですよ、大丈夫ですから」と口は言い、「ええとこあるやん」と足はほくそ笑む。時間がかかっても歩けるうちは歩きたい。電車に乗って行きたいところへ出かけたい。

こんなことができなくなるなんて、若い頃は想像もしなかった。握力が弱くなって手に
力が入らない。ジャムのガラス瓶のフタが固くて、ジャム無しで食べるクロワッサン。そ
ういえば母の絞った雑巾がゆるくて、床を濡らす。「もっと固く絞ってよ」と言ったら、
母が困ったような顔をして私を見ていた。同じような歳になったいま、そういうことだっ
たのかと合点が行く。
食後のクスリを飲んだかどうかがわからなくなって流しにガラスコップがあるのを確認する。二階にたどり着くのだけれど、私、何しにきたのかしら? 一階に戻って用事を思い出すいまいましさ。テレビに出てる有名人の名前が出てこない。ほら、あの人よ、大河ドラマにに出てたでしょと独り言。誰も答えてくれない。部屋はシーンとしている。
ビートルズのドラマーの名前が思い出せない、ほらほら喉まで出てるのよ。ジョン・レノンはわかるのにね。
なんか頭の中がスカスカして風がヒューヒュー通り抜けているみたい。私に一体何が起こっているの?
 
六年前に母が九十三歳で他界した。弟と二人で家族葬で見送った。その二年後、弟が癌
で急死した。膀胱にできた癌が骨に転移してあっという間に旅立っていった。自分の家族
がこの地球からいなくなってしまうなんて、そんなことがあるなんて、想像もしなかった。
弟が亡くなったすぐ後、飼っていた猫も亡くなって、気がつけば、私は築五十年余りの家
でおひとり様になっていた。
年金が少ないからパートで働いている。いつまで働いたらいいのか、いや働けるのか、
元気なうちはいいけれど。先が見えない不安。夜中にふと目が覚めて眠れなくなる。私に一
体何が起こっているのか、これから先、一体何が起ころうとしているのか。
この国は高齢の独身女性に冷たい。日本の年金制度は夫婦単位で成立している。夫婦で
もらって生活していけるようにできているので、独り者は厳しい。特に女性の場合、人生
の節目節目で仕事を辞めざるを得なかったり、仕事を続けていても出世が遅かったり、男性
に比べると生涯の収入は少ない。女性の老後は貧困になりやすい。もっといえば制度上貧困になるようになっているのだ。女性が一人で生きていくのは大変だ。女性が輝く社会なんて、どの口が言っている? 高齢女性は女性のうちに入っていないのか。
もちろん悠々自適の老後を謳歌している人もいるんだから、現在の自分の境遇は、身か
ら出た錆、自業自得、いまどきの流行りで言えば自己責任。そんな冷たいこと言わないで。
誰も好んで年取ったわけじゃない。誰も選んで一人になったわけじゃない。誰にも老後は
平等にやってくる。

私にも若い頃はあった。薄紅色の口紅を初めて差した時の華やいだ気持ち。キャリ
アウーマンと呼ばれてオフィス街を颯爽と闊歩した日々。会議に追われ、夜はクライアン
トとの宴会、最終電車に飛び乗って一日が終わる。そういえば『しば漬け食べたい』というコマーシャルがあったっけ? 街はバブルで浮かれ騒めいていた。
そんな喧騒の片隅で、恋もした。好きな人を思って、星占いの恋愛運を立ち読みした本屋さん。いまじゃ、ついつい目が行くのは金運か健康運だけど。やがてやってきた理不尽な別れには、泣き明かして朝を迎えた。それでも人恋しくて、また恋をする。
あの頃からずいぶん遠くまでやって来た。仕事に追われてただただ忙しくしているうちに、気がつけば、時代も社会も変わっていた。今日もテレビでは、高齢者の交通事故の話題を声高に取り上げている。まるで鬼の首を取ったようだ。高齢者は免許証を返納しろ、高齢者は車を運転するな、と言うのなら、運転しなくていい社会を作ってよ。
年金制度を表すために、若い世代が何人もの高齢者を肩に乗せて歯を食いしばっている
イラストがよく使われる。まるで高齢者が若者を押しつぶそうとしているかのように悪者
扱いしているけれど、こんな社会を作ったのは政治であり、社会であり、政府の未来予想
の甘さではないか。高齢者にばかり肩身の狭い思いをさせないで。若い世代への応援は必
要だけど、そればかり強調されると、高齢者は寂しい。高齢者だってこれまで働きに働い
て、子どもを育てて社会を支えてきたんだから。高齢者に自分が無能で不要な存在と思わ
せる社会は間違っている。若い世代も働き盛りも高齢者もそれぞれ役割があるんだから、
みんなで一緒に力を合わせて社会を作っていきましょうと言ってほしい。

仕事帰りのスーパーのレジで、「あら、これはダメよ。ちょっと待ってて」
 と、白ネギを取り替えてきてくれた同年輩のレジ係の女性。
「葉が枯れているのは古い証拠。葉が青いのが新鮮なのよ」
 この歳になって、白ネギの選び方を教えられた。女性の開けっぴろげな笑顔が私の心に
そっと温かい火をともす。この歳になったら、優しさが一番。夜道を歩く足取りが軽くなる。
あ、思い出した! リンゴ・スターだ!
 ふと見上げる夜空に、大きなまん丸のお月さま。フフフと笑っているように見えた。明日もがんばろう!〈完結〉
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