06:

文字数 7,428文字

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その椅子にゆっくりと近づいてみると、黒い革製の、何の変哲もない椅子の横に、四角い箱状の台があって、頭の上には手術用の…無影燈が消して在った。
座ってもいいなら、それなら、遠慮無く

「どうぞ」

そう答えたのは、桜希元子。自分のことを先輩と呼ぶ。一人称はあたしだ。

桜希元子はやたらと声が大きく、しかもアルペジオがかかっているようで、それはききとりにくくて耳障りだった。
提案されるままに、テーブルの高さに程よく合うように調整されたその胡乱な椅子に腰掛けた。

「先輩、画面を大分見逃してたようですが」

腰掛けると目の前の大画面には教室にいる自分の姿が映っているところだったが、先程まで聞こえていた声が、今は聞き取りにくい。そう思っていると、

「ヘッドフォンもありますよ、先輩」

と桜希元子は箱から引っ張り出してきたもの、頭に装着する有線タイプのそれを、こちら側の手に渡す。

「さあ、どうぞ」

この「さあ」という声も念入りに十回くらい響いた。
その時スクリーンが映し出していたのは、朝の教室で席に坐る自分だった。黒いヘッドフォンを被ると、息が詰まったような気がして、咳払いをした。この空間に、自分が咳払いをするときの何とも言えない詰まった音が響いた。この咳は誰がしているのだろう。
やがて担任の先生が、いつもと同じように教室に入ってくると、このスクリーンの向こうの起きている自分は、彼の「おはようございます」というあの挨拶に答えるように「おはようございます」と答えてみせた。それだけでなく、担任の先生が今日の予定を確認し始めたときには、記入帳を取り出してメモをしているようで、視線が鉛筆から白紙、自分の手、ペン先、とぐんぐん移動する。これはどういう事だろう。さっき挨拶をした声も、今書いているのも、間違い無く自分だった。勿論、この教室、この席取りがいつもと同じ位置だと分かっている時点で、スクリーンの向こうの主人公が自分であるということに間違いはないのだが、さすがに声まで聞かされると少し不思議が過ぎる。
いざ腰掛けてみると、この椅子は革のソファだった。一人がけの、あの来客用のソファ。黒い色をしている。そして、目線の高さの少し下には幾らかのボタンとつまみ、スピーカーなどが並んだ、飛行機のコックピットにあるものと本質的に同じような操縦機械一揃えがある。こんなに複雑な機械を見ると、眠たくなってきた。目の前のスクリーンに焦点を合わせ、脇にあった音量ツマミをひねると、音声が立体的に聞こえてきてまるでこの場に居るような錯覚をする。
「ワイイコールエックスブンノジュウニトノコウテンハサンヨンデコノチョクセンノシキガヨンイコールロクタスビイニナルカラコノコウテントワイ…」自分の目線は今、ノートと黒板を行き来している。黒板で認識した文字をノートに書き写しているらしい。数学の授業らしい。
「コタエガワカルモノ、キョシュ」
教師がそう言って生徒に挙手を促す。

「先輩、こたえがわかりますか」桜希元子が耳元で囁く。

マイナス6だ
授業をうけている自分のノートにはそう書かれていた。スクリーンの主人公は、何も言わずに教師の指の先をじっと見つめているようだ。

「先輩、いつも授業中発表とかしませんよね。今日は発表しましょうよ」

そういって横から出てきた桜希元子が赤いボタンを押すと、急にまるで時間の流れがゆっくりになったように、スクリーンの向こうの映像が遅く、ぼやける。
わざわざそんなことをする必要はないと思うけど

「モノは試しですよ、じゃあ一時停止解除しますから、元に戻ったらここの白のボタンを押してください。」

そういって桜希元子が指さした先には、クイズ番組の回答者が押すようなあの白色の小さなボタンがあって、押すと光った。
ボタンを押した途端に、おそらく教室で一番早い順で、映像の向こうの自分が手をあげたようだった。
この次はどうすれば良いのかわからないので、とりあえずそのままに待つ。

「あとはもう大丈夫です。起きている先輩は答えを知っていますから。」

その後はもう普通のことが起こった。当てられた生徒が、正しい答えを述べ、教師は黙々と得点簿をつけ、次の問題に進む。それだけのことだった。
自分の声が教室じゅうに勝手に響くさまは、少し不思議だったが。
桜希元子はその後も、起きている先輩とか、先輩とか、それとそれを区別するときにはここにいる先輩とかいう単語を使った。この世界にいる自分は、どうやら起きている自分に影から干渉することができるらしい。ボタンを一つ押せば気が変わり、違うボタンを一つ押せばのどが渇いたから水を飲もうという指令になり、ダイヤルをひねれば眼を閉じる、というような。

 気がつくと、辺りは暗くなっていた。日が落ちたのではなく、操作キットの前に座ったままいつの間にか周囲が暗い場所に移動しているのだった。桜希元子の姿ももうない。ピンク色の組織を見ると気分を害するので、今の場所のほうが良かった。真っ暗なわけでもなく、前方のスクリーンから光が送られてくる、映画館のような場所に自分はいた。向こうは今昼なのだ。それにしても、夢の中だからなのか、妙に時間がたつのが速い。
 ここにいる自分が何もしなくても日常が勝手に進んでいくので、わざわざ操作する必要もないことに気がつく。さっきからずっと両腕を組んで、じっと目の前のスクリーンを見つめている。これは発見だが、長い時間に渡って映像がぼやける時がある。そういう時は集中力が聞くことや、手を動かすことなどに向けられていて、その分視力の精度が合わなくなってしまうのだろう。
 このときは国語の授業中だった。ふと、筆箱の中の鉛筆や消しゴムを見ていた視線が、不意に傾き、自分が座っている机の向こう隣にいる女子生徒を見つめた。その女子生徒は居眠りしており、華奢な体を机に突っ伏しながら、見られているとも気がつかずに近くで見ないとわからないような、細い涎を垂らしてうとうととしている。思い出した、そういえば、自分はこの女生徒が好きなのだった。中学校で初めてあったとき、ひとめぼれで、それ以来二年連続で同じクラスになっているような気がする。スクリーンの向こうの自分はこの光景が衝撃的だったようで、それからなんども隙を盗むように居眠りしている女生徒をチラチラと見た。みっともないからやめたほうがいいと忠告しておこうかと思ったが、どのボタンを押せばいいかわからなかったので、取り敢えず目をつぶるダイヤルを回した。目の前が暗くなり、したがってこの部屋もほとんど光がなくなった。寝た振りをしているのだろう、そのまま何も映らなくなったスクリーンを見つめてため息を付き、寝そうになる。音声を聞くためのヘッドホーンは、頭に装着するのが面倒だったのでそのうち外してしまった。だから今は声も、映像も入ってこず、此処にあるのは真っ暗な空間と快適な椅子だけだった。

「この状態で、身体が浮き上がってくるような感覚がしたら…」

夢の前兆だった。しかし、そんな予感は一向に訪れない。目を開けた。スクリーンでは、自分と女生徒が見つめ合っているところが映し出され、心なしか女生徒がこちらへ微笑みかけたような気がした。なにかしゃべっているのか、口の形が早く変わる。何を言っているのか確かめたかったが、音声のためのヘッドフォンは座席横の通路に転がっている。全身がだるくなって、もうそこへ落ちてしまったものを拾い上げることなど、力など残っていない。 こんなとき、桜希元子がいてくれたら、しかし桜希元子とは何故すぐに別れてしまったのだろうか。さっきまであんなに張り切って先輩、先輩などと、いや、よそう。あらためて深く座り直すと、そのまま考え事をしていた。題材は、国語の教科書に出てきた懐かしい物語――エーミール、クラムボン。クラムボン。それから―
スクリーンの向こうにいる自分の目の動かし方から今が何時なのかわかる。時計が視界に入ってくるからだ。どうやら今は昼休みの時間らしく、全校生徒たちがいっせいに教室を出だした。向こうの自分も例外ではない。こちらが今にもポテチでも食べ始めそうな具合なのにご苦労なことだ、とはなで笑いながら指を翳す。するとスライドショーのように、指の俣から校内のあらゆる景色が光りだしたような、フェードして、また巡る、校内の場所を映しだした、スクリーンが、様々な意味が、頭の隙から油断したら漏れでていくような気がして、スライドショー、話線誘導、今にも聞こえそうな校内放送、ブルー・クリア、スクリーンの向こうの自分はどんどん歩いてゆく、ヴァーミリオン、スカイ・ハイ、非現実的な、舟を漕いでしまう自分、ミネラルウォーターをひとパック買う。スカイ・ネット、五分経過する昼休み、ミネラルウォーターをひとパック買う。ミネラルウォーターを
 はっとして座席の上で跳ねると、かなりの時間の経過のように思えたにも関わらずまだ昼休みは終っていないようだった。そのまま画面を食い入る様に見つめてあっと口をつぐんだ。画面の向こうには、桜希元子が映っていた。この世界のじゃない、ほんとうに生きている桜希元子だ、一つ学年がしたで、昼休みしか易々と会えない、二三人の友だちと話している斜め後ろからのアングルの桜希元子を2,3秒映した後、カメラはスライドしてさっきさんざん見た空をまた画面に嵌め込む。声をかけてみたかったものだ。そんなことをしているうちに三四人、クラスメイトで、男子生徒が話しかけてきた。口パクで何か言っているのが見えるようだった。こいつの匂いを知っているような気がした。映像しか入ってこないのだが、こいつの匂いを知っているような気が、確かにした。すると、さっきまで鼻先にあったボタンがどこかへ行ったような気がして、右の箱を触ってみた。またか、と思ったものの景色がいつにも増してめまぐるしく移動していた。
 
 「体育館裏に呼び出されたようですよ、先輩」

聞き覚えのある声がした。気がつくと桜希元子がすぐ隣の席に座っているではないか。そこはもう映画館とは呼べなかった、前より縦横3分の1、容積にして27分の1、ほど狭くなっている。まるで一人部屋の、光が差し込んでこない暗所のようだ。ところでこれは今までどこへ行っていたのだろうと思いながら、部屋が変わってもそのままだった画面の展開を見た。画面は、体育館の外で数人と向き合う自分の姿を、斜め上のアングルから映し出している。体育館のその場所は校舎のちょうど反対側に位置しており、死角で誰にも見えず、ひとが通るようなところではなかった。そこにいた数人の中で、一番前に出ているクラスメイトが、自分に声をかけた生徒だったが、それが自分を小突きだしたのが見えた。

「いいんですか、殴られますよ」

桜希元子が心配な顔でここにいる自分に声をかけてくる。すると、やや遅れて、本当に向こうの自分が殴られる。何か揉めているようだ、いや、実際、こっちは一方的に呼び出されただけで、揉めているのはあちらの方だろう。それにしても、昼休みがいつ終わるのか知らないが、何故もっと早く声をかけてこなかったのだろう。

「先輩、そんなことより反撃しましょうよ、ピンチですよ」

桜希元子は先ほどよりもっと大きくがなる。男子生徒は顔だけでなく、腹や手足も殴り始める。そして蹴りも加わる。

「だって、全然痛くないし…」

そうなのだ、現在進行形で殴る蹴るの暴行を受けているにもかかわらず、こちらは何の痛みも感じ無い。
自分がピンチと言われても実感が沸かないところだった。

「先輩! そりゃ、そうでしょうけど、先輩の社会的評価も考えてくださいよぅ…」

涙ぐみさえしながら、さっきから一貫した反撃を主張している桜希元子が言った。
しかしそんなことを言われても、切羽詰ったものを感じないのだ。何しろ起きている出来事は画面の向こう、ほっておけばいいような気がする。
たしかに自分は今殴られている。顔に傷は残るだろうし、数日間は痛みで動かすことが出来なくなるかも知れない、不便だ。そんなことを思ってみても、体を思うように操る方法はわからないばかりだ。

「そのうち裸にされますよ」

桜希元子が声を低くして言った。ああ、つまりこれはそういう事なのか。弱者を虐げて満足感を得ようという…それにしても彼らとはどういう顛末で知り合いだったのか思い出せない。不思議ではあった。そんなことを考えている間にも、攻撃はやめられることなく加わってゆき、服の裾を引っ張ってきた。彼らが笑っているのは遠くからでも分かった。少しだけ、モヤモヤとしてきた。

「やっぱりやるかな」

遅ればせながら返事する。

「・・・やりますか?」

体を動かして、反撃の一つでもしてやろう。
でも、体は思うように動かせない

「さあこれです、これを使ってください、こちらを耳につけて、このコントローラーをはい、持って…」

そういって桜希元子が渡したのは小さなヘッドフォン、そしてゲームのコントローラーだった。見覚えがあったそのコントローラーをすぐに正しく持つ。
こちらの世界から向こうの体を動かせるということは、前の体験で既に知っていた。

「画面の見方はわかりますか、Aボタンで攻撃するんですよ、さあ早く」

桜希元子は早口にいい、それですべてのことを説明し終えたようだった。画面を振り返ると、それは以前とは違っていて、まるでゲーム画面のように、壁に押し付けられている自分が後ろから見え、まわりには数人の人物が囲っているが、そのうちの一番前の一人に対して照準が合っていた。刹那その一人がさっきまでの攻撃を繰り出すそぶりを見せる、そこで、腕を後ろでに引く動作をしていたときに反射的にAを押す。すると
バシッ という鋭い効果音が響いた、相手に攻撃が入るスティックを横に倒す追撃をしようとすると横からタックルが来たのでその場で軽く回転して回避する。照準が合った相手にAボタンを押し続ける。すると自分が連続で殴る。その攻撃は当たったようで、ボカッボカッという先程よりやや低いパターンの効果音が耳に響いた。今度は背の低い相手を実験台にしてBボタンを押して見る前蹴りが直撃して急所をやられたようで、音が響いてその場に倒れ伏した。バサっと。
数人から一度に飛びかかられる恐れがなくなり、いよいよゲームに終りが見えてきた。どこか覚えのある手つきでAボタンとBボタンを適度に組み合わせながら、出した攻撃はほとんど当ててゆく。

「いいですよ、その調子です、ナイスコントロール。」

桜希元子も応援している。スティックをうまく使うことで、相手の攻撃を避けられるようだ。地面に倒れ伏した相手も、スティックを倒しながらRを押すともう一度掴み上げられるようで、何回も攻撃を加えられる。しかし、画面が見づらかったせいで後ろから迫っていた敵を視過してしまっていた。映りこんだ影を手がかりに襲来を知ると、大慌てで振り返ったがもう、その敵の拳は天頂まで振り上げられていた。間に合うだろうか。
そのとき、

「任せてください先輩。必殺!」

桜希元子が叫ぶと、箱の横にあるツマミを回す。するとどういうわけか、急に時間の流れがゆっくりになり、それを示すように周囲には青色のフィルターが不規則に作用する。これは自分が見ていた世界が変化したという演出だろうか、と考える間にもとっさに適当なスティックとBを入力した。お蔭で時間の遅さが解除されたあと、相手の握った手が振り下ろされるより早く回し蹴りが届き、敵は呻いた。
不思議なことにやりこんだゲームとあまり変わらないこの躰の操作方法のおかげで、かなり都合よく、心地良く操縦することができたので、そのあとはもう、いっかな危ない場面も訪れなかった。敵はほとんど地面に倒れているか、遠くへ逃げ出しているかで、そのまま一番最初にうずくまった相手にパンチを叩き込み続けていると、やがて紅い流液が飛び散ってそれが手に付いていた。三回も殴るとそれは血であると分かったが、鼻から出ているのか口から出ているのかわからないそれはすでに、地面にだらだらと伝っていた。慌てて自分を立ち上がらせ、他の場所を探る。パンチはすかるが、Bボタンでなら寝ている相手にも当たるだろうと見当をつけ、「もうK.O.ですよ? 先輩」と口をはさむ桜希元子。敵を蹴った。「なんて?」聞き返した。Bで蹴った。相手も体が少し浮くモーションが入った。そのうち相手の体はうつぶせたり、仰向きにひっくり返ったりしたが、顔よりはまだ見れる状態で、このまま待ってもK.O.の文字はいつまでも出てきそうになかった。そのため、これはそういうゲームなのだと納得した。

「当てるのはいいけど、相手の攻撃を躱すのが少しメンドいかな」

そう言ってコントローラーを返すと、まるでそれに血が付いているかのようにおそるおそる桜希元子はそれを掴む。

「あの、これは先輩が、もっていたほうが。アクション以外にも使えますし」

先程より静かな声で、桜希元子は薦めた。聞くところによると、今のような使い方はあくまで緊急用、らしい。そして普通は移動に使うというから、ちょうどいいので練習に教室までスティックを傾けて帰還の旅をする。きた道が今度は鮮明に教室へ向かうということが分かった、通い慣れているから当たり前に。
階段を登るときには、移動速度ががくがくといつもより遅くなったものの、それ以外は平坦な速度で道を歩いてゆく。それにしても、いったい自分とあの数人との間には何があったのだろう。教室に戻ると、…正確には教室に戻ろうとすると、蒼い顔をした教師に制止された。コントローラーを操作しなくても勝手に場面が進むようになる。
さて、スナック菓子の袋を探す。手探りで左腕を椅子の側面に伸ばすと、桜希元子の顔が触れた。

「お菓子でも食べますか?」

さすがに察しが早かった。

 現実の自分は、校長室、なるところにどうやら連れて行かれているらしい。ヘッドフォンをもう外してしまったので、画面を見ないと何が起こっているのか分からない。しかし体がだるいほどに動かず、座席の上で体をそちらの方向に向ける事もできなかった。まるでうだるような暑い日の床についたときのあの、金縛りのように。

「モニター、見ないなら消しときますよ、先輩」

うん、ありがとう
ひと眠りすることに決めた。
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