一番怖いもの

文字数 1,487文字

一番怖いものかと聞かれれば「そうでもない」と思う一方で、ひどく不快感を覚えずにはいられない生き物がこの世にいる。
それは蟻。神出鬼没の蟻。
昔から、何かと虫と縁のある子どもだった。避けようとする私の胸元へ、一直線にやってきては顎の下で羽をばたつかせていった蝶々。自転車のベルに勝手に激突し、執拗に追いかけ回してきた蜂。気づかないうちに腕を虫が這っていることは日常茶飯事で、虫とのエピソードも数え上げればキリがない。
中でも気味が悪いのは蟻である。
あれは、私がまだ幼稚園児だったころのこと。
ウサギ柄の枕カバーを買ってもらって喜んでいた日のことだ。
タオル地のそれは、新品特有のほつれや毛玉が一切ない生地で、肌触りの良さからぬいぐるみ代わりに抱いて一日を過ごしていた。食べるときも一緒で、三時のおやつになっても枕を抱えて食べていた。しかし、これがいけなかった。当時、食パンの上に砂糖をまぶした「砂糖パン」がお気に入りだった私は、母がいない隙を見計らって砂糖の入った瓶を片手に自分で振りかけた。
幼い腕に瓶は重く、あっと思ったのも束の間、手を滑らせ砂糖の入った容器を枕の上にぶち撒けた。幸いにも瓶は割れず、叱りつける母もいない。
(バレる前に始末をつけなければ)
幼い私は、本能的にヤバいと察知するやいなや、小さな手で砂糖をかき集めてはゴミ箱に捨てた。それだけでは取り切れない砂糖が、枕カバーの糸と糸の隙間に絡みつく。が、洗ったり、掃除機で吸い取ったりしようという知恵がついていない私は、これで良しと決めつけて片付けを早々に終わらせた。
ひと目だけでは気づかれない。罪悪感を飲み下しながら、その事実に安堵し小さな胸を撫で下ろした。
このときの私はまだ知らない。生き物の「性(さが)」というものを。
夜中、頬に触れるこそばゆさに目が覚めた。眠気眼を擦りながら、天井で赤く灯る豆球が私の不安を煽る。
(……なんだろう?)
ざわざわと総毛立つ肌の上を、ちくりちくりと刺す確かな感触。それが、私の身体の型でも取るように、輪郭線を這っていく。
まるで、小さな虫らが肌を這っているようなーー。
夢うつつから目が覚めた。
虫、虫、虫ーー心当たりなんか一つしかない。
ゆっくりと傾けた視線の先、ウサギ柄の枕が見当たらない。赤豆球の視界の中、夜の闇に浸食された夜具が蠢く黒の下にかき消える。おびただしい数の蟻がそこには群がっていた。一匹の蟻が、私の左頬を這い上がる。
触覚を小刻みに揺らしながら、左目の脇を掠めていく。瞳を避けられたのが不思議なほど目の際を、蟻がちくりちくりと這っていく。
「ひっ」と飲み込んだ悲鳴に、私の気持ち全てが凝縮されていた。
蝋でも溶かし込まれたかのように、固く強張った身体からは声も出ない。蟻が這う。私の身体を覆っていく。夜に紛れる小さな身体はこれっぽっちも動かない。嗅ぎ取れない甘い匂いが、部屋に満ち満ちているようだった。
目を瞑るより他に、現実に抗う術は持ち合わせてはいなかった。ただひたすらに朝が来るのを待って、蟻たちの下で瞼を閉じた。
朝。いつの間にか眠っていた私は、瞼を開けた。明るい日差しの中、何事もなかったかのように母に起こされる。
「ほらっ、早く起きなさい」
夢でも見ていたかのように、辺りには蟻の子一匹見当たらない。
あれは夢だ。
ほっと息をつく。きっと砂糖をこぼした罪悪感が見せた夢に違いない。
よかった。また、いつもの日常がやってくる。
起き上がると、寝間着を脱いで服に着替えた。その横で、布団を畳む母が素っ頓狂な声を上げた。
「なんで枕の糸、こんなにほつれてるの?」
これが、私と虫との最初の記憶である。
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