第1話

文字数 1,987文字

 透明な朝の空気が肺に染みる。頬が冷えて、鼻をすすった。駅への道を急いでいるくせに、私はまだ始発電車に乗るのか決めていない。でも始発が出る前に、いや、萌が一人で行くことを選ぶ前に、私はホームで電車を待ち受けなければならない。
 始発電車で東京に行って彼氏に会うと、昨日萌が言ったとき、私はあいた口が塞がらなかった。
 萌の歴代の彼氏の中でも、今回の東京の大学生の彼氏、ゆう君は最悪に思えた。ゆう君と付き合い、萌は泣く回数が増えた。だが一方的に別れを切り出された今も、萌はゆう君が好きらしい。
 指先が冷えないよう、袖の中でこぶしを握った。手のひらに爪がささる。トップコートだけ塗られた、萌の小さな爪を思い出す。
 あの柔らかな手を最後にふれたのはいつだったか、思い出せない。でも初めて萌の手とふれたときのことは鮮明に覚えている。
 そこは公園の砂場だった。男の子が女の子から無言でバケツを奪ったのを見て、私は思わず男の子の前に飛び出した。腰に手を当てて「じゅんばんばんでしょ!」と大声をだすと、男の子はおそれをなした顔で私を見上げ、バケツを落とし、砂場から退散した。バケツを拾って渡すと、女の子は驚いた顔で私を見て、目に溜まった涙をぽろっとこぼし「ありがと」と微笑んだ。
 そのとき、春風が萌黄の香りを含んで私にぶつかった。女の子の茶色の毛先は風で舞い、涙は宝石のしずくのように桃色の頬を転がった。
 春の妖精さん。
 萌が妖精そのものに見えたことは、私の一生涯の秘密だ。
 こうして萌の幼馴染となった私は、萌を守ってきた。困ると唇をかみしめる萌。すぐに私は萌の手をとり、顔を覗き込み、ぎゅっと抱きしめた。まかせてと囁いて、萌にちょっかいをだす男子をとっちめにいった。萌の誕生日には必ずプレゼントと一緒にお手製の「たすけるけん」を萌に渡した。ヒロインという言葉を知らなかった私はいつだって、自分が萌のピンチを救うヒーローだと思っていた。
 女はヒロインで、ヒーローにはなれないということを知ったのは、それからずっと後だった。
 東京に行くべきではない、自ら嫌な目にあいにいくのは馬鹿だと萌にきつく言った。「倫になにがわかるの!」と怒鳴った萌は、唇をかみしめ行ってしまった。
 萌を泣かせたかもしれない。萌は一人で泣くかもしれない。萌が泣くことは嫌で、明確な拒絶を示されたのに、私は始発電車へと急ぐ。
 馬鹿なのは萌じゃなくて、私だな。
 ささくれだった心に乾いた笑みがひっかかり、じわりと何かがにじむ。
 時の流れは容赦ない。恋を知った萌は私から離れた。ヒーローになれない私は、萌の何になりたいのか。それは私がなれるものなのか。うつむくと、いつもこの問いから深い闇が広がっている。だが、涙が落ちる寸前でいつも私は春の妖精だった萌と、ヒーローに憧れた幼い自分を思い出し、顔をあげ、縋る気持ちで萌の姿を探すのだ。
 駅の改札を通った。心臓が早鐘を打つ。時間には間に合った。いつもの通り先頭車両に乗れば、次の駅で萌が乗ってくるはずだ。私がいるとわかったら萌はどんな顔をするだろう。
 私を見たときの萌が想像できず、足がすくむ。こんなときこそ本当は萌の笑顔と声がほしい。   
 でも今、私のそばに萌はいない。今後きっともっと、こういうことが増える。
 いつか、私が泣きたいときに誰かがそばにいてくれるだろうかという不安と、いたとしてもそれは萌ではないだろうという絶望。それらをまとめて握った手のひらに隠してホームへむかう。
「倫、おそい! わざわざこっちの駅まで走ってきた私をこんなに待たせるなんて」
 顔をあげると、次の駅で乗ってくるはずの萌がいた。
「え……なんで?」
「なんでって。それをいうなら、なんで倫もここにいるの」
「は? だって、萌が」
「ふふ、でしょ。あたしも倫は来るって思って。これ、はい」
 泣きはらした顔をした萌は、ポケットから色紙を取り出した。すれて柔らかくなった画用紙に、おぼつかなく鉛筆で書かれた、たすけるけんという文字。
「昨日ゆう君と電話した、あんなやつだと思わなかった。倫の言葉を聞くべきだった、ごめんね。これ、まだ使えたりする?」
 このたすけるけんは、誰を助ける券なのか、誰が助けられる券なのか。一瞬面食らい、ふわっと萌から手を握られて、何もかもどうでもよくなった。
「こんな顔じゃ学校いけないからさ。一緒に学校休んで、ついてきてくれないかなって」
「……どこ? 東京はやだよ」
「あは、東京はない! とりあえず、終点まで行ってみない?」
 始発電車が、私と萌しかいないホームに滑り込んでくる。
 手を繋いだまま電車に乗り込む。横に萌がいることに、繋いだ手の暖かさでがんじがらめになった心ほどけていく。自分が萌にとって何者なのかなんて、今は考えるのはやめだ。萌が笑ってくれていたら、私はそれで良いのだから。

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