あと三秒

文字数 1,779文字

 ――すてきな青空だった。
 こんな日はぼんやりと散歩でもしたいところだけど、もうすぐ保育園が閉まってしまう。仕事終わりに自転車をかっ飛ばすのは正直しんどい。でも、早く迎えに行かないとまた拗ねて暴れだす。
 私は急いで自転車にまたがると、会社の駐輪場をあとにした。青空が夕焼けに変わっている。きれいなオレンジ色だ。
 四歳になる息子は絶賛反抗期中。毎日が戦争状態。旦那は仕事でいつも遅いから仕方ないけど、たまには一人の時間がほしい。
 でも、私は幸せだ。旦那も息子も心から愛している。忙しい毎日だけど、本当に私は幸せだと思っている。ただ、もう少しゆとりがほしいのは確かだけど……。
 川沿いの赤信号で一時停止。ふう。水面に夕日が反射しているのが目に飛び込んでくる。キラキラと光っていて、なんとも言えないノスタルジーのような気分になってきた。はやく息子に会いたい。そうだ、今日は大好物のから揚げでも作ってあげようかしら。
 青信号に変わり、私は足に力を入れてペダルをこぎはじめる。ふと、遠くで人のざわめきが聞こえたような気がした。
 その瞬間、景色がスローモーションになった。
 私の目の前にトラックがいる。迫っていたとか、やってきたではない。本当にいつの間にかトラックがいたのだ。誰かが危ないと叫んでいる。危ないって、それ私のことだよね。おそらくトラックはもの凄いスピードを出している。なのに、私には止まって見える。見えているけど、体もスローモーション。まったく動かない。むしろ固まっている。運転手とばっちり目が合った。髭面でおびえるように私を見ている。息が吸えない。あれ、これって私轢かれるんじゃない? 運転手がなにか叫んでいる。逃げなくちゃ、と思ってはいるものの体が反応してくれない。握っているハンドル部分のゴムの触感が嫌に柔らかくあたたかい。ペダルが重たくて一ミリだって動かない。よく見ると、トラックはさっきより私に近づいてきている。もう本当に目と鼻の先だ。痛いのかな。いや、それより、これ死んじゃうんじゃないかしら。だってどう考えたってもう逃げられないし、なにも思いつかない。恐怖? 怖いより不安。目がぴくぴくしているのが分かる。そういえば昔、ジェットコースターであまりの怖さに意識を失いかけたことがあったわ。あれに似ている気がする。あれ、なんでこんなこと考えているんだろう。声を出そうとしているのか、喉に圧力をかけているのが分かる。私の体なのにまるで赤の他人のような感覚。心臓の音が鳴りかけている。音は遅れてやってくるのかな。そういえば、ようやくブレーキの音が聞こえてきそうな気配。タイヤと地面が擦れる音なんてテレビでしか見たことないような――。
 ……
 ――大きな音が聞こえた。
 まるで大木にぶつかったかのような鈍い爆音。体のなかが爆発したみたい。音が聞こえたというより、音が私の体から飛び出したみたいだ。
 ――骨のきしむ音。
 ――肉がちぎれる音。
 目の前には空が広がっている。ああ、どうやら私は跳ねられたんだ。
 ――痛みはない。
 ――感覚もない。
 私は空を舞っているんだろう。風をわずかに感じる。それにしてもどうなるんだろう。私死ぬのかな。ウソだ。死にたくない。こんなの夢に決まっている。私が死ぬわけない。そんなのはどこか遠い世界の話のはず。私が死ぬわけないじゃない。
 どうやらまだ空中にいるみたいだ。ふと、前方になにかが見えた。
 ――私の体だ。
 遠くの空に私の胴体が血をまき散らしながら飛んでいた。自転車が足に食い込んでいる。胴体からはソーセージみたいなものがぶら下がっている。クリーム色の脂肪がはみ出ている。まるで、まるでただの動物だ。首の付け根がねじれた雑巾のようにひん曲がっているのが、可笑しいほどに漫画のようなフィクションの世界を感じさせた。
 ふいに視界が回りだした。ぐるぐると空と地面と人の姿が見える。
 目の前が急に暗くなった。ああ、もう死ぬんだ。水の音が聞こえる。川に落ちたのかな。今度は目の前が明るくなった。オレンジ色の光だ。
 ――きれいな夕焼け。
 水に溶けている光があたたかくて不思議と気持ちがいい。その向こう側に、旦那と息子の笑顔が見えた。私はそれを眺めていた。
 ――あと、三秒ぐらいかしら。ようやく一人になれたのに、ここはとてもさみしいわ。
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