朝飯前のお話

文字数 1,165文字

 目を覚ますと、二階にいるのにもかかわらず、卵焼きのいい匂いがしてきた。
 その匂いに釣られ正史がリビングに下りてくると、父は厳しい顔で新聞を読んでいた。「おはよう」と言って、興味本位でその新聞を覗こうとする。父の座る椅子に、片脚を掛け身を乗り出す。
【新宿無差別殺人、無期懲役求刑】
 見出しにはそう書かれていた。その横の本文を掻い摘んで読んでみる。
『検察側は無期懲役を求刑。弁護側は責任能力がなかったとし無罪を訴えている』
「お父さん、これどういう意味?」と、父を見つめ正史は本文を指さした。漢字がたくさんで、よくわからなかったからだ。
「これはね……。うーん、正史にはまだ早いかな」父は目を反らし、口角を上げた。それを見て、正史は唇を尖らせた。
 無理に笑おうとする父の顔が、正史は嫌いだった。
 それに、記事に書かれている被告が、数か月前に新宿の交差点で無差別に通行人を切りつけ、殺人や傷害の罪に問われ、今まさに裁かれていることを正史は知っていた。
 その殺人犯の弁護を、父が行っていることも。
「お父さんは、何でこの人の弁護士をしてるの?」
「何でって……。それが仕事だからだよ」新聞を畳みながら、父は言った。
「仕事だったら、お父さんは悪い人の味方をするの?」
「そうだよ。お父さんの仕事は、そういう仕事だから」
「ふぅん……。嫌じゃないの?」食卓に次々並べられる朝食を見つめながら、正史は更に訊いた。
「そりゃあ、嫌だよ。目の前の奴が、悪意を持って人を殺したり、危害を加えたり、そういうことを考えると、ぞっとする」
 ここで初めて、お父さんは僕の目を見つめた。
「でも、お父さんはそれ以上に怖いことがあるんだ」
「お父さんが、死んじゃうこと?」正史は首を傾げる。
「うーん、違うかな」差し出された目玉焼きの黄身に、醤油を垂らしながら呟く。
「お父さんが怖いのは、みんなが寄って集って、その人をいじめることなんだ」
「でも、その人は悪いことをしたんだよね? それなら、当然なんじゃないの?」
「因果応報。確かに、日本にはそんな言葉も存在する。でもね、昔の偉い人は、こう言ったんだ」
 人は本来、善である。善いことをしようという心を本当はみんな持っている。でも、それを育てられなかったり、周りの人が取り上げちゃったりすると、悪い心が育ってしまう。
「うーん、よくわかんない」
「簡単に言うと、人はみんないい人なんだよ。そんな人をいじめるのは、その人のためにならないだろう? いい人が世の中に増えるためには、こうやって、悪いことをしちゃった人を守らなくちゃいけないんだよ」
 母も食卓につくと、いただきます、と言い、父はご飯を口に運び始める。
「うーん、本当にそうかなあ」
 正史はどこか腑に落ちないまま、薄い卵焼きを真っ二つに割って食べた。(終)

お題:朝の弁護士
時間:三〇分
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