第1話

文字数 4,077文字

「なんでなの?こんなに想ってるのに、なんで応えてくれないの?」
 留那は包丁を俺に向けた。俺は両手を挙げて、固まった。ちょっとでも動けば刺されそうだ。とにかく説得しなければ。頭が真っ白になりながら、俺はどんな言葉を掛けるか必死で考えた。
 俺はある晩、留那に、会社の倉庫に呼び出された。話がしたい、そう言われた。まさか刃物で脅されるなんて思いもしなかった。
 なんで俺が彼女からの交際の申し出を断ったか、その理由を訊かれた。留那には好意を持っていないことをハッキリ伝えたが、理解してもらえなかった。留那は、俺が他の誰かと付き合ったりするのを考えるだけでも耐えられないと泣き叫んだ。そして言った、私と付き合わないなら、一生他の女の人とも付き合わないと、結婚しないと誓って、と。そんなこと言う権利はお前にはない、と俺は強く言った。そうしたら、留那は激昂して隠し持っていた包丁を持ち出して俺に向けたのだ。
 留那は職場の同僚だ。留那は、目がパッチリしていて、卵型の整った顔、細いのに色気がある体つき。艶やかな長い黒髪。外見だけで言えば、世の男から見ればいい女なのだろう。でも、俺の好みではなかった。
 ある飲み会の席で、彼女に言い寄られ、帰る途中で抱きつかれ、雰囲気でキスを交わした。確かにその気もないのにそんなことした俺が悪い。自業自得と言われればそれまでだが、交際を求められ断ったところ、激しいストーカー行為を受けることになった。ヤンデレ女の地雷を踏んでしまった。そして今、このありさまだ。俺はなんでのこのこ、こんな人気のない場所に来てしまったのだろう?

「私のものにならないなら、あなたを殺して私も死ぬ。あなたが誰かと…抱き合ったりするの想像したら…考えたくない!考えるだけでおかしくなりそう!イヤ!もうイヤ!」
 留那は泣きじゃくりながら、包丁を振り回した。
「待ってくれよ、落ち着こう。な?無理やり脅してさ、俺がそれでうんと言ったって、それじゃあなんにもならないだろ?とにかく…話そう。とにかく包丁置いてくれよ」
 留那は俺の言葉は聞かず、恨めしそうな目を向けた。刃先が震えている。じりじりと、俺に近づいてくる。俺は後ずさった。背中が壁に着いた。逃げられない。分厚い倉庫のスチール壁の境目から、冷たい隙間風が吹いてくる。
「こんなに想ってるのに…応えてくれないあなたなんて…あなたなんて…殺してやる…殺してやる…」
 俺は悲鳴を上げた。留那は包丁を突き出し、俺に全力でぶつかった。その瞬間、全身が雷に打たれたような強い痺れが走った。ゴリゴリと、肋骨が砕かれる鈍い音がした。一瞬置いて、刺されたところが、焼け付くように熱くなる。頭から血の気が引いていく。ほんとに刺されたんだな。俺はこのまま死ぬんだな。不思議なことに、強い痛みや苦しみは感じなかった。意識の糸が切れたんだろう。全国ニュースになるだろうな。女が知人男性を刃物で刺して殺害し、自殺しました。そしてみな思うだろう、痴情のもつれだと…

「依田くん」
 小さな呼びかけに、俺はハッとして目覚めた。目の前に留那がいる。白いシャツが、血で真っ赤に染まっている。俺は息を飲んで後ずさった。刺されたところを触った。ベタベタとした血糊が手に付いた。生臭い、血と体液の匂いがする。
「ここは?」
 草原のようなだだっ広い空間が広がっている。足元に苔のようなものが生えているほかは、何もない。雲はなく、薄ピンク色の空が果てしなく続いている。
「ここは…あの世とこの世の境目みたい。私にも分からない」
やっぱり死んだんだ。俺はしゃがみこんだ。刺されたのに、傷口が痛まないのが不気味だった。留那は目を伏せ、茫然と立っている。
「こんなこと、したくなかった」
 その呟きに、俺は猛烈な怒りがこみ上げてきた。強く、留那を睨みつけた。
「満足かい?」
 俺はあえて微笑みながら訊いた。
「だってあなたが…」
「また人のせいか?どうすりゃ良かったんだ?脅迫されてさ、俺がイヤなのに受け入れてさ、殺されたくないからうわべだけおまえと付き合ってさ、それが愛情なのかい?」
 留那は俯き、黙りこんだ。分かっている。留那には常識は通じないんだ。なんという呼び方だったかは忘れたが、そういう性質の奴なんだ。こちらがいかに常識を説こうと、理解できないんだ。貰い事故、運が悪かったと思うしかないのかも知れない。
「依田くん」
 留那は俺の肩に手を置いた。俺は強く、その手を払いのけた。
「…触るな!」
 留那は口に手を当て、目を見開いた。その目から涙が溢れる。
「お願い…冷たくしないで。お願いだから…意地悪なこと言わないで」
 冷たくするなだと?意地悪言うなだと?こっちは殺されたんだぞ!俺は思ったが、もはやそんなこと言う気力もなかった。これからどうなるのか、そっちの不安のほうが大きかった。
「実はさ、ある人と付き合い始めたところだったんだ。それもおまえのを断った理由のひとつだ。もう、どうでもいいけどね」
 俺は投げやりに言った。留那は目を見開いた。
「どこの…誰?誰よ!」
「開発部の柿崎陽菜さん」
 留那は呼吸を荒くして、しばらく固まっていた。
「…なんであんな人なの?目も小さいし背も低いし体つきだって小学生みたいな人なのに…なんでなの?あんな人より私のほうがずっと可愛い!私のほうがずっとあんな人より…」
 留那は髪を振り乱して捲し立てた。
「そういうとこだよ。おまえは何でも自分の視点でしかものを見られない。自分の基準が全部、   世界中の基準だと思ってる。他人を解ろうって気がないんだ。俺を想ってると言いながら、俺の気持ちなんて少しも考えてないじゃないか!自分の意に沿わなかった、だから殺したんだろ?」
 留那は涙を流しながら、俺を見つめた。
「でも、それもおまえの特質なんだよな。自分じゃどうにもできないんだろ。俺はおまえに謝るつもりはないよ。でももう少しおまえのこと理解してたら…とは思う」
「…」
 留那は目を伏せた。俺はため息をついた。

 その時、突然地震が起こった。戸惑いながら、辺りを見渡した。足元が崩れかけている。
「依田くん…私はダメだけど、もしかしたらあなたはまだ間に合うかも知れない!」
 留那は叫んだ。
「あっちの、一つだけ小さい星が光っているの、見える?あっちに向かって走って!」
「どういうことだ?」
「いいから行って!」
 俺は駆けだしたが、すぐに振り返り、留那と向き合った。彼女は哀しい目で、俺を見ていた。
「留那!俺はおまえのことを許すつもりはない!でもな、おまえが…ほんとに全力で、死ぬほど強く、俺のことを想ってくれたのは受け止めるよ!」
 俺は全力で叫んだ。
「ありがと…さよなら!…ごめんね。ほんとに酷いことした」
 留那は泣きながら、微笑んでいた。地面が崩れ、留那は落ちていった。それを見送ると、俺は必死で星に向かって走った。光が強くなる。俺は気を失った。

 目覚めると、俺はビニールで囲われたところにいた。病床?胸の辺り、気を失いそうなほどの激痛。息苦しい。口元には酸素マスクが付けられているようだ。体中にケーブルが刺さっている。体中が痒くて搔きたいのに、手足が動かせない。ICU…か。俺は助かったのか。

 数日後、俺はICUから出て、一般病棟に移った。家族が面会に来た。職場の上司や同僚も見舞いに来た。みな一様に、俺の災難に同情し、嘆いた。警察も聞き取りに来た。殺人未遂事件だ。俺はその被害者だ。俺はありのまま、留那とのやりとりを伝えた。

「誠吾さん…」
「陽菜さん?」
 柿崎陽菜。先日付き合い始めたばかりの女性。まだ呼び捨てにはできない。陽菜は俺の手を、強く握った。その目から大粒の涙が溢れ出る。俺は微笑んで、彼女を見た。
「こんなひどいこと…でも良かった。誠吾さんが目を覚まさなかったら、あたし…きっとおかしくなっちゃった。もっと早くここに来たかったのに、二人っきりになりたかったのに、必ず誰かここにいて、ダメだった。ようやく…」
 陽菜は声を上げて泣いた。俺は弱弱しく、その手を握り返した。
「心配かけて…ゴメン」
「誠吾さんは何も悪くない!あの女よ!あの女が…あなたを…。許さないわ…あいつを絶対許さない!」
 俺は目を伏せた。胸の傷が痛む。視界が霞む。陽菜はしばらく、俺に寄り添ってむせび泣いていた。
「地獄へ落ちればいいんだわ。あんな奴、永遠に苦しめばいいのよ!」
「そんなこと、言わないでくれよ」
「え?」
 陽菜は身体を起こし、びっくりしたような目で俺を見た。
「あいつは死んだんだろ。俺は生きてる。もういいじゃないか。ほっといてやれよ。思い出したくないんだ。あいつの…入沢留那の話は…もう止めて」
 俺は少し意識が遠のいてきた。まだ良くなったわけじゃない。頭がグラグラする。目の前の陽菜の顔がふわふわと、膨らんだりしぼんだりしたように見えた。
「わ、分かった、ゴメン」
 陽菜は俺に、覆いかぶさるように抱きついた。
「事件のことより…これからのことを話そう。でもその前に、少し休ませてくれ。あとさ、陽菜さん」
「なぁに?」
「傷の上に乗らないでくれないか。すごく痛いんだ」
 陽菜は真っ赤になって飛びのいた。俺は微笑んだ。眠くて意識が遠のく。陽菜は何か声を掛けたが、聞こえなかった。俺は眠りに落ちた。

 目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。時間は分からないが、深夜だ。カーテンの僅かな隙間から、かすかに月明かりが差し込んでいた。
 留那のことが思い浮かんだ。
 あの世との狭間でのやり取りの後、留那がどうなったか、俺には分からなかった。地獄に落ちたのか、それとも消えたのか。そもそも、あの最後のやり取り自体、単に俺の夢なのかも知れなかった。
 留那の二つの顔が交互に浮かぶ。俺を刺す直前の憎しみに満ちた顔と、あの世界が崩壊し落ちてゆく時の哀しい笑顔。
(どうか…安らかに…)
 俺は留那のために祈った。我ながらお人好しが過ぎると思いながら。
                                     了
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