第2話

文字数 1,568文字

 そんなある日のこと。朝仕事に行く支度をしていると、母が外出着で玄関から出て行こうとしているのが目に入った。近所の散歩程度ならいつも通り部屋着で行くはず。最近は買い物に行っても、不必要なものばかり買ってきたりとおぼつかない母なので、あえてお金は持たせていない。だから一人でおでかけはできないはずなのだが。

「お母さんどうしたのこんな朝っぱらから。どこに行くつもり?」

「ちょっと行くとこがあるから」言いながら靴をはこうとする母。

 ……あと5分で家を出ないと遅刻だ。いい加減にしてほしい。私のイライラはピークに達し、思わず大声で怒鳴った。

「お母さんなに言ってるの、行くとこなんてないでしょう! だいたい買い物すらまともにできないくせに。お願いだから家でおとなしくしててよ!」

 母は私の方をちらと見たが、そのまま出て行ってしまった。ひどいことを言ってしまったとは思ったが、それよりも母をはやく連れ戻さなくてはと焦った私は、取る物も取りあえずそこらにあった靴をつっかけて母の後を追い家を出た。もう遅刻は確定だ。

「お母さん待って、どこまで行くのよ!」

 足腰だけは衰えていない健脚の母は、私にかまわずどんどん先へと進んでいく。目の前の角を左へ曲がり姿が見えなくなる。私も急いで母を追いかけ角を曲がった。するとそこには、意外な光景が広がっていた。

「ねえみっちゃん。見てごらん、白いお花がいっぱいきれいだねえ。このまえもここでいっしょに花かんむり作ったでしょう、覚えてる?」

 そこは一面のシロツメクサ畑だった。思い出した。まだ私が子どもで、道子ではなく「みっちゃん」と呼ばれていたころ、たしかに母と2人でここに来たことがあった。そのとき母は私に、花かんむりの編み方を教えてくれた。そして出来上がったかんむりを私の頭にのせると、あらかわいい。みっちゃんはお花の妖精みたいね、と言ってうれしそうに笑っていたんだっけ。母には厳しいだけでなく、そういう愛情深い一面もあったのよねそういえば。そんなことをぼんやり考えていた私の頭に、なにかが乗せられた。それはシロツメクサの花かんむりだった。

「まあみっちゃん、お花の妖精みたいよ、かわいいわね」

 母はそう言うとうれしそうに笑った。ニコニコと微笑む母の顔を見ながら、私は涙が止まらなくなった。

「お母さん、ごめんね。ごめんねお母さん、私いじわるな娘だね、お母さんは悪くないのにイライラして、子どもみたいに当たり散らして。ごめんなさいお母さん、ごめんなさい……」

 母は私の頬に優しく手を触れゆっくりとうなずいた。どこまで理解しているのか定かではないが、でもその時の母は、たしかに「みっちゃんのお母さん」だった。

 私は頬に添えられた母の手を握りしめながらわんわんと、それこそ子どものように大声で泣いた。そうだ。私は寂しかったのだ。母が日に日に母でなくなっていき、私を置いてどこか遠くへ行ってしまうような気がして。離婚して夫をなくし父も他界してしまい、その上、母まで失うのがつらくて悲しくて。
 でもお母さんはやっぱり「みっちゃんのお母さん」でいてくれるんだね。お母さんありがとう。ごめんねお母さん。

 母はひたすら泣きじゃくる私を、優しく愛情あふれる笑顔でじっと見守っていてくれたのだった。

 その後さらに認知症が進んだ母は施設に入所することとなり、そこで余生を送った。最後は「多臓器不全」要するに老衰で、とくに苦しむことなくそのまま亡くなったため、棺の中の母は穏やかな表情で安らかに眠っていた。私はそんな母の頭に、用意してきたシロツメクサの花かんむりをかぶせた。

「ねえ、お母さん覚えてる? いっしょに花かんむり作ったわね。ほら、お母さんにもよく似合っててきれいよ」

 そのとき、私には、母が微笑んでくれたように見えたのです。

(了)


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