四〇四号室

文字数 1,970文字

 全身から水を滴らせた女が歩いていた。長い髪のせいで顔はよく見えない。そもそも見ようとさえ思えなかった。なぜなら、ここは私の部屋で、たった今玄関の鍵を開けて帰宅したところだったからだ。電気さえまだつけていない。つけていないのに、なぜかわかった。
 黒々とした廊下を、黒々とした女が歩いていた。靴を脱ぎもせず、全身から滴らせている水音のほかはひとつも音を立てずにこちらへと歩いていた。
 耐えきれず生唾を飲み込んだ私の喉がこくりと鳴った。気づかれる。すぐさま心臓が早鐘の如く打ち始める。
 ぴちゃん。
 また一滴、女から滴る水が床で跳ねて音を立てた。私まで後数メートルもなかった。
 このままどうか出ていってくれと、ただそれだけを念じる。全身に私の拍動が響いている。
 数秒。
 女は私の横を通り過ぎていった。目線を寄越すこともなかった。じっとりとした、真夏のプール上がりのような空気だけが残っていた。
 助かったの、かもしれない。息を吐いた。
 瞬間、がしりと温度のない何かが私の頬を掴んで、私は引きちぎれるような叫び声を上げた。深夜で、マンションだということを気にする余裕なんてあるはずがなかった。背中側が濡れている。女だ。いなくなってなどいなかったんだ。
「うそつき」
 生ぬるさに満ちた声が耳に流れ込む。真夏のプールのようだった。真白の手が腹をなぞって、ぐいと突き立てられる。柔らかさなどかけらもないその指先が、赤にまみれながらゆっくりと沈んでいって、遅れて私は「五月蠅い」と思った。
 叫び声が耳を貫いた。違う。叫んでいるのは私だった。気を失いそうな痛みからどうにか逃れようと足掻く身体が勝手に金切り声を上げているのだった。
「うそつき、うそつき、うそつき」
 耳のすぐ近くで、私の腸をかき回しながら女は囁き続ける。その声は私の悲鳴などまるで意味をなしていないとでも言いたげだった。好き放題に私を嬲っていた手が今度は頬に沈んだ。驚くほどにあっさりと肉を破って侵入してきたその手は、私の舌を掴み。

 雄吾は力の限り壁を殴って怒鳴った。
「うるっせえぞ!」
 この深夜にいったい何なんだ。夏だからってホラー映画でも観てるのか。隣に迷惑かけてんじゃねえぞ。
 苛立ち混じりに雄吾は何度も壁を殴りつけた。それでもしばらく叫び声が止む気配はなく、最後には諦めて布団をひっかぶって眠った。
 翌朝はやけに静かだった。寝起きの頭で雄吾はぼんやりと考えた。
 昨日のあれは、もしかして何か事件でも起きたんじゃ?
 野次馬根性に突き動かされて、寝起きの恰好もそのままに隣の部屋の扉を叩く。
「大丈夫っすか?」
 返事はない。ドアノブに手をかけたのは好奇心からだった。ノブはあっけなく回る。鍵は開いていた。
「もしもーし」
 扉を開ける。誰もいなかった。少し拍子抜けして覗き込むと、ほとんど物がない部屋の真ん中に紙切れが落ちていた。
「レシート?」
 裏返すと手書きの文字があった。それは自分の字だった。
 そういえば、と雄吾は思い出す。最近付き合ったけど重くてすぐ別れた女。あいつはよく家に来たがった。普段なら一蹴していたが、一度随分酔っていて気分がよかった日に教えたような気がする。
 もう一度よく見てみる。書かれていたのは確かに。
「……なんだよ。間違ってんじゃねえか」
 途中までは合っている。だが最後が違った。部屋の番号が間違っている。書かれているのは四〇四、雄吾の部屋は四〇五だった。
「うちのマンションは四〇四なんてねえのに」
 もしかすると酔った自分が冗談のつもりでそう書いたのかもしれない。あり得る話だった。この紙がここにあるということは、あいつは本気にしてここに来たんだろうか。
「く、ははっ。マジかよ! バカじゃねえのか、四〇四号室なんてそもそも、」
 ないのだ。ないのに。
 す、と血の気が引いていった。静まり返った隣の部屋を、確認しにきて、開けた扉は。
 四〇三号室だっただろうか?
 慌てて玄関の方を振り返って、悲鳴をあげる。血溜まりに顔を突っ込んでいる誰かが横たわっていた。
「お、い、おい、冗談だろ」
 後ずさった雄吾を、ずぶ濡れの身体が受け止めた。うそつき。そう囁いた声の主を、雄吾はよく知っていた。
「ぁ、あか、」
 うっそりと笑った女が、口の中に指を突っ込む。嘔吐するよりも先に、喉の奥が引きちぎれるような激痛が走った。

 そのマンションには人が入らない。不動産屋である佐伯が手を変え品を変え人を呼び込んでも、四階だけには居つかない。
「赤舌さんが嘘つきを殺してしまう」
 ネットの片隅で囁かれているのは、そんなどこにでもあるような都市伝説だ。そんなことがあるはずないのに、いやがらせだろうか。
 せめて内見のために綺麗な写真を撮っておこうと、小さくため息を吐きながら。
 佐伯は、四〇四号室のノブを回した。
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