良妻の独白

文字数 1,999文字

 本当に旦那様は、仕方のないお方だこと。

 老いたりと言えど衰えぬ白く細い指をじっと見つめながら、山内一豊の妻、千代はそっと瞳を閉じた。それだけで、いつでも若き日の思い出が蘇ってくる。

 むしろ、近々は、遠い思い出のほうがはっきりと浮かぶ。

 千代は避けようのない老いに小さくため息をつき、そして回想にふけった。

 それは、天下に名高い馬揃えの日のこと。

「千代、そなたは天下随一の良妻である」

 わざわざ家臣の家を訪れた信長様の顔が、目に浮かぶ。

「いやぁ、形見を売って家財を売って衣服も売り、さらには御髪まで売り払って馬を買うとは、ねねにも見習わせたいものですなぁ」

 祝いの席で、秀吉様がそう言っておどけてくださった。

 旦那様は、それをじっとうれしそうに見ていたっけ。

――嫁がいなければ、ただのうつけ。

 そんな、意地の悪い家臣の皆様の目。言葉には出さないまでも、ことさらにわたしを褒めそやすその言葉の裏に間違いなくその思いが見え隠れしても。

 旦那様は、いつも笑っていらっしゃった。

 あのときだってそう。

 わたしの密書を家康様の目の前で読み、ゆるがぬ忠義をお示しになったときも。

 皆わたしを褒めた。

――うつけに嫁いだあわれな女。

 瞳の奥に、そんな思いをにじませて。あるいは、はっきりと口にして。

 しかし旦那様は、それをも笑って受け止めた。

 その、すべては。

 まやかしであったのに、だ。



「風が出てきましたね」

 千代はそうつぶやくと、少し身体を倒して小さな明かり取りの障子をスッとしめた。

 名人百々家綱(どどいえつな)の建てた、このお城。

 若き日には夢にもみなかったこの名城であっても、あかりが落ちてしまえば、あの頃の荒屋とあまり変わりはない。

 狭かったけれど、暖かったあの家。

 馬揃えの数日前の晩、旦那様は言った。

「儂に内緒で家財を売り、髪をそいでそれも売り、馬を買ったことにせよ」

 そう、あの馬揃え、すべては旦那様の差配。

 あの頃は、その意味するところがわからなかった。いや、ちがう。いまでも、よくわからない。ただ、言われるがままにしただけのこと。

 そして、あの手紙も。

 すべて。

 旦那様の、思うままにしたこと。

 そして、大恩ある方々を騙し、その功を掠め取った。

 しかし、家康様もすでに遠いお方となられ、信長様も秀吉様ももうこの世にはいない。

 もう弁解の(いとま)はない。

 そして、旦那様も、また。

 時は、短い。



「おお、千代や、おったか」

「旦那さま、起こしてしまいましたか」

「いや、かまわぬ」

 千代の目の前、豪奢な布団にくるまれた山内一豊は、震える声でそう答えた。

 薬師いわく、もう、長くはないそうだ。
 
「どうした、変な顔をしているな」

 昔からそう、旦那様はわたしの顔色にすぐお気づきになられる。

「昔を、思い出しておりました」

「ほお、それは、そなたの手柄話のことか」

 その言葉に、千代の顔が曇る。

 そして、ずっと思い続け、そしてずっとこらえてきた問いを、遠からずこの世を旅立つだろう夫に、とうとう訪ねた。

「なぜ、嘘をおつきになるのですか」

「嘘、とな」

「そうです。旦那様は決して愚かな男ではありません。知慮に優れ、思慮に深く、いつもしっかりと先をお読みになる、稀代の名将ではありませんか。それなのに、いつも、いつもわたしの手柄にして、自分はうつけのふりをして、なぜ、なんで、そんなことを」

 言葉がとまらない。

「わたしは、愚かな妻です」

 こらえきれなかった、ずっと、申し訳なく思っていたから。

「なにに、なぜ……」

 しかし、一豊は、そんな千代に、ほほえみながら答えた。

 いつもの、あの、優しい笑顔で。 

「儂は天下人にはなれん男じゃ」

 そんな……。そう言いかけた千代を制して、一豊はつづける。

「武勇に優れ、勇名をはせることもできぬ男じゃ」

 一豊は、そう断じる。それを千代は黙って聞いた。

「信長様、秀吉様、家康様はもちろん、加藤殿、福島殿、前田殿、数々のお歴々もまた、歴史に名を刻むじゃろう」

 そう言うと一豊は、困惑する千代に向けて、にやりと大きく微笑んだ。

「そして、儂もじゃ」

「え?」

「儂はな、千代。天下一の嫁をとった男として、きっと名を残す」

 その一言に、千代は、両の瞳に涙が集まるのを感じた。 

「天下取りも確かに誉れぞ。しかしな、千代。男子(おのこ)にとって、天下一の嫁取りという誉れより上があろうかよ」

 千代はそのまま、一豊の身体に倒れ込んだ。

「ああ、いい女じゃ、そなたは。そして儂は、天下一のそなたを嫁にした男じゃ。なんと愉快なことか、なんと誉れ高きことか、なんとありがたきことか」

 一豊はそう言うと、随分と細くなった腕で天下一の良妻を抱きしめた。

「なんとめでたきことかの」

 一豊はつぶやく。

 千代が泣きつかれて眠るまで。

 優しく、背中をさすりながら。



 その数日後、山内一豊はこの世を去った。

 そして、その後に。

 その名は、しかと、残っている。
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