第1話

文字数 1,990文字

 生ゴミのにおい。
 思わず息をとめた。においの出どころを探すが、視界に入るのはこぼれんばかりに咲き乱れる花々だ。艶やかな鞠のような芍薬、何重にも花びら重ねた薔薇、凛とした佇まいの白百合。生ゴミなんてどこにもない。当然だ。私のいる場所は、様々な花をに組み合わせ、花束を作れることで有名な花屋なのだから。私の鼻は様々な花が入り混じった匂いを生ゴミと捉えたらしい。
「お決まりですか?」
 明るい声に、はっと顔をあげた。微笑んだ店員と目が合う。私が小さく首をふると、店員は自然な動きで離れた。
 終礼後、写真部の顧問が私を呼び、澪の母親が亡くなったことを告げた。だから私は帰り道、花屋に飛び込んだ。澪は特に花が好きで、花壇から公園まで、花の写真を撮りに一緒に歩き回ったものだった。
 花を買って澪の家に行かなきゃ、今日はきっと澪の節目だから、私は澪に会いに行かなければ。それしか頭になくて、こういう時何の花がふさわしいのか、考えてもいなかった。
 多種多様な匂いを香らす花々は自己主張の権化のようだ。花たちに圧倒された十五歳の私は、今日にふさわしい花がなにか、一切知らないことに呆然とする。
 確かこういう時、大人はお悔やみを言う。お悔やみって死を悔やむ、残念に思うって意味? でもそんな意味で花を選びたいんじゃない。
 澪を思い出すうち、爪が食い込むほど、手をきつく握りしめていることに気づく。
 中一で同じ組だった澪とは同じ写真部に入部し、すぐに仲良くなった。澪は部共有カメラを我が物顔で持ち歩き、常に楽しげに写真を撮る子だった。
「カメラ越しだと、楽しいことばかり見つけられるから、写真撮るの好き」
 そう言った澪の温かな手をぎゅっと握り、私は確か「わかる! 私、澪と一緒に写真を撮って歩くのが好き。ずっと一緒に写真撮って歩こうね」と言った。澪は「カメラを持って楽しいことを探す旅人だな」なんて答え、満たされ笑った時間も、一年の頃は確かにあった。
 それが二年になり組が変わると、澪の組の女子の空気が変になった。
 違う組の私でさえ、澪の組の女子が澪を共通の敵としていることに気がついた。女子の友達作り、それはイコール仲間作りだ。仲間作りの簡易法は、同じ敵を作ること。でも澪は変わらず笑っていた。持ち物を汚いとつまみあげられるのは当たり前。しまいには、なんか臭う、と言われた時でさえ、澪は笑顔だった。
 実際、以前より澪の身の回りの汚れは目立っていた。制服にはほつれや落ちないシミ、しわの多いワイシャツはボタンが外れたまま、限界まですり減った革靴。
 それでも二年の五月頃までは澪は部室に現れた。「鈍感でよかった、これも処世術だよね」と笑顔で肩をすくめる澪に私は心底安心していた。
 それも、私が澪の家の中を知るまでは、の話。
 夏休み明け、学校で澪を見なくなった。肌寒くなった夜、薄い壁越しに聞こえた母の言葉が蘇る。専業主婦で学校役員をしていた私の母は毎夜、父に一日の出来事を話す。私は居間の隣の自室にいて、嫌でも話が聞こえた。澪ちゃんの家、ひとり親、生活保護、いろんな依存症、心の病気、澪ちゃんが代わりに家事もバイトも……。壁越しに物語の中にあるはずの単語が聞こえるたび、体内にとろりとした役に立たない保冷ゲルのようなものがつたった。ぎゅっと目を閉じて、私は布団の中で懸命に澪を思い出し、笑顔の奥にあったはずの澪の気持ちに手を伸ばした。
「大丈夫?」
 瞬きをした。気づくと、先ほどの店員が心配そうに私を覗き込んでいる。
「あ、すみません平気です」
 蚊の鳴くよう声で呟く。
 今は三年の五月。再び澪と同じ組になったが、まだ澪を見ていない。
「もしよかったら一緒にお花を選ぶよ。お花と一緒に伝えたい気持ちとか、ある?」
 私が澪に伝えたいこと。
 何もできなかった私を許してほしい。
 頭に響いた言葉に、私は唇をかんだ。違う、そうじゃない。うつむいた拍子にふと、朝顔を育てるような鉢植えが目に入った。支柱に絡まった薄紫色と白の大輪の花が煌々と咲き誇っている。
「これ好き? クレマチスユートピアっていうの。昔ヨーロッパでは旅人が快適に宿泊できるよう、宿の入口にこのお花を植えて旅人を迎えたらしいよ。花言葉は、旅人の喜び」
「旅人の」
 笑顔の澪が穏やかに呟いた、旅人という言葉。
「これ、これください」
 私は瞬時に答えていた。
「このお花で小さい花束、二つ作れますか?」
「もちろん」
 店員はクレマチスの鉢植えを持ち、奥へと行った。
 私が澪に伝えたいこと、簡単だった。私と澪は同じ旅人で、私はまた澪と一緒に歩きたいってこと。ただそれだけだった。
 私も澪も、旅は続く。でも間違いなく澪にとって今日は大きな節目の日だ。そんな今日に私は、澪と私、二人分の旅人の喜びを抱き抱え、手を離してしまった澪を迎えにいく。今度こそ一緒に歩くことを伝えに。
 








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