第1話 桜の花びら、食い倒れのお雪に出会う

文字数 907文字

 彼女が店頭で私を見つけたとき、じっとこちらを見て、何度も何度も試着した。イヤリングなんて、イマドキ皆つけてはくれない。ぶ厚い柔らかい手で持ち上げられたときは、心が踊った。温かい手のひらだと思った。
「この桜の花びらのイヤリング、可愛いですね。色がいい。」
 クレジットカードには、力強い字体で『橘深雪』と書かれている。支払いを済ませて店を出ると、ショッピングモールの化粧室で私をつけてくれた。ミユキの見る景色が私にも見えた。洗面台の鏡に、彼女と私がほほ笑んでいる。ふっくら体形で、耳たぶもぶ厚いんだな、この人。歩いて揺られていると心地よい。
 
 モールを出て駅の構内を進む。ふと、シュークリーム店が視界に入った。ぐいんと体が旋回する。吹き飛ばされるかと思った。輝くウィンドウに瞬く間に到着し、じっと見つめ、カスタード、チョコレート、抹茶のシュークリームを、ひとつひとつ丁寧に物色していく。その様は真剣そのもの。ウィンドウに映る怖い顔を、なんだなんだと見ている間に、ミユキは三種すべてのシュークリームを計十個も注文して、手早く会計を済ませ、改札を抜けた。そして、駅のホームで食べ始めたのである。一個ほおばり、二個ほおばり、ほっぺたは食事時のリスのように膨張し、ついで、そこに涙が流れた。
 数秒後に駅のホームに響いたのは、若い女性の泣き声である。
 わおんわおんと人目を気にせず泣く姿に、電車を待っている人たちが驚いているが、かまわないらしい。「お嬢さん、なぜ泣いているんですか」などと声をかけてくれる人はいない。「馬鹿! 真司の馬鹿!」と男の名前を出して罵倒し始めたので、だれにも失恋したのだとわかったからだろう。
 ちょっと恥ずかしい。
 待合室の隅に、遠くからこちらの様子を見ている男性がふたりいる。ぼそぼそと話しているのが聞こえてきた。
「あの子、どうしたの。」
「ああ、だいたい男がらみで何かあるといつもああして食べながら泣いてるんだ。この路線では『泣き食いの女』って呼ばれてるのさ。」
 そんなに有名なのかい。
 彼女はやがてシュークリームを五個ほど平らげると、ちょうど発車する急行電車に乗りこみ、目を腫らして家路についた。
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