不幸の使い道

文字数 1,946文字

その日男は、バーのカウンターに座り、ひとりで酒を煽っていた。

半年前、男は仕事でミスを犯し会社に大損害を出してクビになり、次の仕事を探していたのだがそれにも嫌気がさし、ついには毎晩飲み歩くようになった。

さらに不幸は続き、親友だと思っていた人物に裏切られ借金を背負わされ、付き合っていた女にもふられていたのだ。

男は生まれてこの方、不幸に見舞われたことしかなかった。

学校ではいつも自分だけが低い点数をつけられ、運動神経も鈍くスポーツもできない。

それだったらと思い、絵を描いてみたり楽器を弾いてみたりしたが結局上手くいかずに辞めてしまうのだ。

最近は、人生すらも本当に辞めてしまおうかと思うほどだった。

ひとしきり飲んで気分が良くなると、男は近くの席で飲んでいる客に声をかけ始めた。

周囲の客は迷惑していたが、幸いにも、誰も男を追い出そうとはしなかった。

そんな時、ハットを目深に被ったひとりの男が「私が彼の相手をします」と言って男に近づいてきた。

「こういう場所では静かに酒を嗜むものですよ。それとも何か、誰かに聞いて欲しいことでもあるのですか?」

男は訝しんだが、店からつまみ出される様子もなかったので、男は自分の人生がいかに不幸かを、ハットの男に話して聞かせた。

人生なんてろくなもんじゃない。全てを投げ出して生まれ変わりたい。

ハットの男はうんうんと頷きながら話を聞いていたが、そいうことなら、と男に提案をした。

「そういうことでしたら、私が力をお貸ししましょう」

男はまた訝しんだが、とりあえずの仕事でも紹介してくれるのだろうかと期待した。

ハットの男は続けた。

「力になると言っても、全ての面倒を見ることはできませんよ。仕事をご紹介するだけです。報酬ははずみますよ。いかがです?」

「ええ、もちろんです。どんな仕事なんですか?」

「そんなに難しい仕事じゃありませんよ。まあ、今ここで話してもご理解いただけないと思うので、日を改めましょう。明日の正午に、この店の前に来てください。仕事場まではすぐですので」

「はあ、わかりました」

男が返事をすると、ハットの男は、じゃあ、と言って去っていった。

翌日の正午前、男は言われた通り昨日のバーの前に来ていた。ハットの男はまだ来ていなかった。

男は腕時計の針が進むのをぼうっと見つめながらハットの男を待った。

時計が正午を指すと同時に、ハットの男がどこからともなく現れた。

今日もハットを目深に被り目元に影を作っていた。

「お待たせしました。では、行きましょうか」

そう言ってハットの男は歩き出した。男もそれに続き歩き出す。

十分ほど歩いたところでハットの男は立ち止まり、男の方を振り返った。

「着きました」

たどり着いたのは一棟のビルの前だった。

怪しい事務所にでも連れて行かれるのかと考えていた男は、連れてこられた先があまりにも普通のビルだったので拍子抜けした。

男がビルを見上げていると、「では、中に入りましょう」とハットの男に声をかけられ、それに続いて男も中に入った。

ハットの男はエレベーターに乗ると、地下三階のボタンを押した。

「地下ですか?」

「そうです。まあ、場所はどこでもいいんですけどね、偶然ここが空いていたもので。」

エレベーターのドアが開いた。

「ここが仕事場です」

その空間には、医療用のベッドがたった一つ、ぽつんと置いてあるだけだった。

男はその奇妙な光景に背筋がぞくっとした。

「なんですか、ここは?」

「今からここで、このベッドに横になっていただきます。仕事というのはそれです」

「たったそれだけ?」

男はかなり怪しんで、ベッドに横たわるを渋った。

「別に取って食ったりはしませんよ。痛くも痒くもありません。なんなら、このベッドに横になれば、あなたの辛かった過去も少しはマシになると思いますよ」

「本当ですか?」

そう言いながらも男は靴を脱いでベッドに上がり横たわった。

途端、急な眠気に襲われ、いつの間にか眠ってしまった。

男は眠っている間、不思議な夢を見た。
走る夢。なぜ走っているのかはわからない。
それでも、男は必死になって走った。
いつまでもいつまでもいつまでも、男は走り続けた。



「研究の方はどうですかね、先生」

ビルの地下の一室に声が響く。丸々と太った男の声だった。

「ええ、順調ですよ。そうだ、これを見てください」

ハットを被った男は、太った男にガラスケースを覗かせた。

「おや、これはまた活きのいいマウスですね」

「そうでしょう。かなりの不幸を背負っていましたからね。でも今はこんなに元気に走っている」

「確かに、不幸は生きる活力になるという君の研究は、あながち間違っていないのかもしれないな」

男たちは、しばらく、走るマウスを眺めていた。

ガラスケースの中のマウスはさらに勢いを上げ、回し車を回し続けた。
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