第1話

文字数 1,980文字

 仕事から疲れて帰って、もう死にたいなんて思いながら飯を食べていると、口元から「んっ♡」と聞こえてきた。気のせいかと思い食事を続けるとまた「んっ♡」と声。そうして気づく。
 喘いでいるのは、箸だ。
 俺が食べ物を口に運ぶ度にこの箸は「んっ♡」と甘い声を上げていた。「お前なんで喘いでるの?」と聞くと箸は快く答えてくれる。
「私、キスが好きなんです。だから物心ついてからたくさんキスをしました。男の子たちもみんな、私がかわいいから喜んでくれた。でも中学生になってから、学校中の女の子が私にひどいことをするようになったんです。ビッチ、淫乱、変態って。男の子たちもキスしてるんだからいいだろって私をヤっちゃおうとしてきました。誰の彼女なんだよって殴る人もいました。私にはキスしかないのに。だからキスだけで人生が埋め尽くされますように祈って飛び降りたら、お箸になってました」
 それから箸ちゃんは食事を終えるまで一口ごとに幸せそうな声を上げてくれた。次の日、もう箸ちゃんの声は聞こえない。数か月後、新宿行きの電車に乗っている時だった。突然「飛ばすぜー!」と聞こえてきたのは電車の声。スマホを取り出し、電話をするふりをして電車に話しかける。
「もしもし、電車?」
「あれ、アンタもしかして俺の声が聞こえるの?」
「うん」
「あっだったら俺のこと知ってる? ほら、ランボルギーニ松田ってあだ名、ニュースでさ!」
「知ってる。マラソンで金メダル取った選手だろ? ガンで死んだって聞いたけど」
「ああ、でも気が付いたら電車に生まれ変わってたんだよ! どこまでも走れるし、俺の中って色んなことあるから全然退屈しないんだよな。電車の中で毎日何人がこっそりセックスしてるか知ってるか? 今、アンタのいる隣の車両でもヤってるぜ」
「マジ!?」
 車内中の人が怪訝な顔で離れていくし「やめてください」ってキレてくるおばさんもいたんだけど、俺は電車との会話が楽しくて会社に行くのも忘れて話込んでしまう。山手線を2週したくらいで声は聞こえなくなった。彼女と動物園に行くと檻の中のライオンが話かけてくるので動物に転生するパターンもあるんだと知る。
「俺、人間の時はどんな女抱いてもムラムラしっぱなしで全然満足できなかったんだけどよ、メスライオンって最高だぜ?」
 そう言って彼は隣にいるメスを舐める。ねっとりと舌を擦りつけられたメスは「もう勘弁してくれや!」と絶望的な悲鳴を上げた。
「アンタ、ワイの声が聞こえるんか? た、助けてくれや! このオス、なんぼやめろゆうてもワイを、ワイを……」
 俺は怖くなって彼女を置いて走り出す。転生した者同士でも声は聞こえないらしい。この一件がきっかけとなって俺は彼女と別れることになる。
「いつもいつも声が聞こえるって、もう勘弁してよ……」
「でも、もしかしたら自分だって何かに生まれ変わるかもしれないだろ。だったら経験者の言葉は聞いておいた方がよくない?」
「そういう話をしてるんじゃないの!」
 でも俺はもう彼女とか恋愛とか現世はもう割とどうでもよくて、不幸な転生はしたくないって恐怖で頭がいっぱいになってしまって、それでもがんばって会社に行って仕事をするけど俺のキーボードが叩く度に「あん♡」と喘ぐので何も集中できない。メールに「お疲れ様です」と打つ。「otukaresamadesu」。17回の「あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡あん♡」。最後の2回は変換とEnter。声を遮るためにイヤホンで音楽を聴こうとしたら、俺のお気に入りの歌はイヤホンになってしまった男の子の絶叫にかき消されてしまう。
「もうやだああああああああああママどこおおおおおおおおおお!!?!?」
 イヤホンを放り捨てて会社から飛び出す。上司が怒鳴って呼び止めようとするけど無視。人間の声なら後で聞けばいい。会社のドアが「行ってらっしゃい♪」と言ってくれた気がするけど素通りする。
 そうだ! 道路で車にでも轢かれて頭をなんとかしよう!
 そう思ったが、アスファルトに身体をすり減らされる痛みに苦悶するタイヤ4人の血みどろな絶叫が聞こえてきたのでやめた。タイヤを履いた車が楽しそうに走っていたのがどうしても許せなくて追いかけたけど全然追いつけなかった。
 疲れて家に帰ってくると、箸ちゃんが「キスしろっつってんのが聞こえねえのかボケカス!」怒っている。しばらく食事をしていなかった。
 俺はたまらず「うるさ~い!」と叫ぶ。
 家中の物が俺に一斉に返事をしてくる。声が多すぎて爆音のノイズでしかない。
 この家にある魂だけで百だろうか、千だろうか、万だろうか。
 もう無理だわ。
 俺は「はわわ、危ないよ~!」と狼狽える包丁で首をかき切る。
 次の瞬間、目を開けると、俺は……。
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