第1話

文字数 4,797文字

 会社を出て、夜空を見上げる。蒸し暑い東京の梅雨。ビルの隙間から辛うじて覗く空は、厚い雲に覆われて星のひとつも見えない。雨が来そうだ。俺はネクタイをゆるめて舌打ちをする。
 憂鬱な日だった。営業先の客が、鼻につく奴だった。40歳になったばかりと言っていたから、俺より少し年下だ。
『もともとアカデミアにいたので……』
 何が“アカデミア”だよ。高学歴がそんなに偉いのかよ。見下したような顔しやがって。こっちは汗水たらして歩き回っているというのに、ああいうインテリは涼しい顔して要領が良い。俺みたいなタイプを馬鹿にしているんだ。思い出すだけでイライラする。
 ため息をついても気は晴れず、余計に自分がみじめになるだけ。わかっている。インテリの高学歴がむかつくわけじゃない。卑屈になってしまう自分自身に腹が立っているんだ。はあ、情けねえ。
 パラパラと雨が降り出した。俺は鞄の中から折り畳み傘を出す。どこにでもある普通の傘だ。でも、俺にとっては特別な傘。何年か前、娘がまだ小学生のとき、嫁と一緒に俺の誕生日にプレゼントしてくれた。傘の柄に貼られた“パパへ”と書かれたシールは、もう字がかすれて読みにくい。それでも、これがあれば娘とつながっていられる気がする。娘は、元気にしているのだろうか。
 嫁が娘を連れて実家に帰ってから半年になる。あいつの実家は田舎の山奥だ。都会育ちの娘は馴染めているだろうか。中学校は、楽しいだろうか。
 雨はどんどん強くなり、土砂降りになった。激しく飛沫しぶきをあげて降る雨のなか歩いていると、店の軒先で雨宿りをしている親子がいた。子供はまだ2歳にならないくらいだろうか。母親が前抱っこをして暗い空を見上げて立ちすくんでいる。
「あの……」
 意識する前に話しかけていた。
「はい」
「良かったら、傘使ってください」
「え!」
「傘、お持ちじゃないんですよね?」
「あ、はい。でも……」
「大丈夫です。走りますんで。じゃ」
 俺は傘を女性に渡し、軒先から走り出た。娘にもらった大事な傘だけれど、土砂降りのなか途方にくれている親子は放っておけなかった。娘もあのくらいの年の頃があったな、と思い出す。
 元気にしてるかな。嫁も、娘も。会いてえなあ。俺はずぶぬれのまま駅へ駆け込んだ。



 今日はとことんついていない。私のミスじゃないのに、上司に怒鳴り散らかされている。そんなに大きな声で怒鳴らくたっていいのに。こんなに人のいる前で怒らなくたっていいのに。なんなら、後輩のミスなのに。当の後輩は、素知らぬ顔でそそくさと帰り支度をしている。誰のせいでこんなに怒鳴られていると思っているのよ! とこっちが怒鳴りたい気分だ。
「申し訳ありませんでした」
「今度から気を付けるように!」
「はい。以後気を付けます」
 上司に深く頭を下げてどうにか説教の時間は終わり。急いで会社を出て走るけれど、規定の時間には間に合わなさそうだ。
「お忙しいのはわかりますけど、今月もう5回目の延長ですよ。24時間保育やっているところ紹介しましょうか?」
 保育士さんが腕組みをして、目を細めて私をにらむ。娘を預けている託児所は19時までだ。残業になれば間に合わないこともある。
「申し訳ありません」
「私たちはいいんですよ。娘さんの気持ちを考えてあげてください」
「はい。すみません。ありがとうございました」
 24時間の託児所を探したほうがいいのかもしれない。でも、会社から近くて駅にも近くて値段まで考慮すると、今の託児所がベストなのだ。私が嫌味に耐えて謝ればいいだけ。わかっている。娘を抱き上げて頭をさげて、託児所を出た。
 ひとりで育てると決めたのは自分だ。だから苦労も自分で背負わなければならない。甘えてはいられない。はあーとため息をついて空を見上げると、真っ黒い雲の中からぽつぽつと雨が降り出した。
「わー雨降ってきちゃったね」
 娘に話しかけながら店の軒先へ逃げ込む。今朝のニュースでは、雨だと言っていただろうか。天気予報を見る余裕すらなかった自分に気付く。雨は次第に強くなり、土砂降りになった。
「ついてない……」
 思わずひとりごとが出る。娘はニコニコしている。かわいいなあ。私がしっかりしなきゃいけないんだよね。そう思いながら、空を見上げた。
「あの……」
 突然中年の男性が声をかけてきた。
「はい」
「良かったら、傘使ってください」
「え!」
 男性は、自分がさしていた傘を私に差し出し、不器用に笑った。
「傘、お持ちじゃないんですよね?」
「あ、はい。でも……」
「大丈夫です。走りますんで。じゃ」
 男性は私に傘を押し付けるように渡すと、走っていってしまった。私は男性から受け取った傘を眺める。さしてみると男性ものだからか大きくて、前抱っこをしている娘もすっぽりと覆えた。傘の柄を握りしめる。
「これで、濡れずに帰れるね」
 私は娘に話しかけながら、泣きそうになるのをこらえた。



 東京は梅雨入りしたらしい。このあたりももうすぐかな。窓を開けて、東京と違って広くて星がいっぱい見える夜空を眺める。おばあちゃんちに引っ越してから半年。みんな良い人だけど、近所の人がみんな私のことを知ってるのにはまだ慣れない。学校に行くときすれ違う人みんなに「いってらっしゃい」って言われる。帰ってくるときは「おかえりなさい」。東京だったら声かけ事案だ、と思う。近所の人が家族みたいに平気で家にいたりする。ちょっと、やっぱりまだ慣れない。
 学校も、いまいちだなと思う。引っ越すときに友達にもらったポニーフックをつけていったら「東京の人はおしゃれね」って嫌味っぽく言われた。
「そうだよ。かわいいでしょ」
 言ってやったけど、クラスになじもうとしない私が悪いのかな。なかには「出戻りだから」って陰で言っている奴もいた。最初、“出戻り”の意味がわからなくて何を言われてるんだろうと思ったけど、それがママの悪口なんだとわかったとき、自分のことよりむかついた。
 自然の多いこの土地。満天の星空は東京の空よりずっときれいだ。でも、やっぱり帰りたいと思ってしまう。ママには言えないけど。
 東京の友達とは毎日LINEできるし、インスタで状況もよくわかる。でも、みんなでストーリー撮ってるの見たり、TikTok踊ってるの見たりすると、自分だけ仲間外れみたいな気分にもなる。「寂しい」なんて子供みたい。わかってるけど、思っちゃうんだから仕方ない。
 窓をしめて、スマホをチェックする。みんなのSNSに一通りいいねを押す。何気なくスクロールしていたら、万バズしてる投稿が目に留まった。
 これって……。まさか!
「ママー!」
 私は大きな声を出して階下に降りた。



 久しぶりの東京は相変わらず人が多くて蒸し暑かった。まだ梅雨は明けないらしく、じっとりと湿った夜気が肌にへばりつく。待ち合わせたレストランにいた親子は、若い女性と小さな女の子だった。2歳前くらいだろうか。娘が小さかったときのことを思い出して、つい頬が緩む。
「すみません、わざわざ東京まで来ていただいて」
 私に気付いた女性が立ち上がる。
「いいえ、こちらこそ。突然連絡してすみません」
 娘がSNSで「バズっている」と教えてくれたのは、この女性の投稿だった。
『〇日〇時頃、新橋駅近くで、四十代くらいの男性に傘を貸していただきました。おかげで娘と一緒に濡れずに帰ることができました。本当にありがとうございます。お名前を聞くのを忘れてしまいました。どうかこの投稿がご本人さまに届きますように!』
 その投稿に添付されている傘の画像は、夫のものによく似ていた。新橋は夫の勤め先だ。まさか、と思ったが、女性の投稿の追伸に『柄の部分に“パパへ”と書いたシールが貼ってあります。大事な傘だと思います。できればご本人にお返ししたいです』と書いてあるのを見て、確信した。あれは娘が小学生の頃に、一緒にデパートで選んだ傘だ。
「一応、本人確認っていうか……これ、私と主人が一緒にうつっている写真です」
 私は夫と一緒に写っている画像を女性に見せた。
「ああ、そうです! この方です」
 やっぱり、と思った。あの人らしい。自分は要領が悪いくせに、困っている人は放っておけない。その不器用な優しさが好きだったのに、いつからすれ違ってしまったのだろう。
「ありがとうございます。主人の傘だと思います」
「良かったです。お返しすることができて」
 女性は丁寧にたたまれた折り畳み傘を私に渡した。
「私事なんですけど、その傘をお借りした日、すごく落ち込んでいて。会社では上司に怒鳴られるし、託児所では保育士さんに嫌味言われるし、本当にへこんでいたんです。でも、雨宿りしていたときに、さっと傘を貸してくださった方がいて、ああ優しい人もいるんだって、大袈裟じゃなく、泣きそうになりました」
 女性は恥ずかしそうに笑って続ける。
「私、シンママなんです。自分ひとりで何でも頑張らなきゃ、っていつも力んでいたから、突然の親切に心がほぐれました。優しいご主人がいて、素敵ですね」
 そうなのかもしれない。私は、何かを忘れていたのかもしれない。
「あの……私も、完全に私事なんですけど……実は今主人と別居しているんです」
 話すつもりはなかった。でも、口から言葉が滑り落ちた。女性は「え!」と言ったまま、固まってしまった。
「主人は、優しいんだけど、自分に自信がない人で……。一生懸命やっても不器用だから空回りが多くて、うまくいかなくて結局イライラしちゃって……。そんなあの人を私が支えてあげられたら良かったのでしょうけれど、私自身も家事と思春期の娘とで余裕がなくて……今は娘を連れて実家に帰っているんです」
「そうだったんですね」
「でも、あなたの投稿を見て、あの人の良いところを思い出した気がします。私も、ちょっと力みすぎていたのかもしれません。ありがとうございます」
「えー! いやいや、ありがとうございますは私のほうです!」
「いえいえ、私のほうです」
 お礼の応酬が続いてしまい、二人で笑ってしまった。私たちが楽しそうに見えたのか、女の子が「んあー、ままー」としゃべりだすから、女性と顔を見合わせてまた笑った。



 会社を出て、夜空を見上げる。まだ梅雨が明けない蒸し暑い東京の夜。今日も残業。疲れたなあと思いながらネクタイをゆるめる。空が重い。また降られそうだな、と思っていると、案の定ぽつぽつと雨が降り出した。鞄の中を探ってから、この前の雨の日に折り畳み傘を人にあげてしまったことを思い出す。
「ああ、傘ねえじゃん」
 仕方ない。コンビニでビニール傘を買おう。あの親子は無事に帰れただろうか。濡れずに済んだだろうか。コンビニに向かって少し速足に歩き始めたときだった。
「あなた」
 馴染みのある声がした。
「え!」
 振り返る。なんと、そこには嫁がいた。
「お、お前、何してんだ?」
「濡れちゃうよ?」
 嫁は傘を広げて俺にさしてきた。
「お前、この傘……」
「ふふふ。あなた優しいとこ、あるじゃん」
「ええ? なんで? どういうこと?」
 混乱していた。先日、親子にあげてしまったはずの傘をさして、実家にいるはずの嫁が東京にいる。どういうことだ?
「あなたのそういう優しいところ、やっぱり好きだよ」
「え?」
 なんか恥ずかしいことを言ってくる。
「とりあえず、今日は帰りましょう。雨強くなってきたし」
 雨は強まっていた。俺は、嫁と久しぶりの相合傘をして歩き出した。何が起こったのかよくわからないけれど、久しぶりにすごく嬉しいことだけは確かだった。
「会いたかったよ」
 激しくなってきた雨音に紛れてつぶやく。
「え、何?」
「なんでもない」
 黒い雲に覆われた狭い東京の夜空が、いつもより悪くないと思えた。雨はいっそう激しく降って、俺は黙って嫁の肩をそっと抱いた。

おわり
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