終末切符
文字数 1,868文字
中村は電車の中で切符を握りしめた。
券売機で買える長方形の切符をひとまわり大きくしたような、白黒の切符である。
夜明けとも夕方ともつかない車内には中村のほかに十数人の乗客が座っていた。
――この電車に乗るのは久しぶりだ。
中村は目を閉じた。数年前に乗った時は夢でも見たかと思ったものだが……。ため息をつくと、近くの席の男が身を寄せてきた。
「あの、この電車いったい何なのでしょうか。私、目が覚めたら突然ここにいて」
三十代とおぼしき男の声は微かに震えていた。予感のようなものはあるのかもしれない。
「恐らく、これは死者を運ぶ電車だよ」
自分よりずっと若い男に、中村が答えた。
「死者を運ぶ? そんなバカな」
身震いをして男が首を左右に振る。「あり得ません」否定する声はさらに震えていた。中村は男の顔を見つめながら静かに続けた。
「私は世界でも極端に症例の少ない難病でね。何度も危険な手術を受けている。そのたびにこの電車に乗ったものだよ。途中下車だったけれどね。でも今回はダメだろう」
中村にはもう十分に生きたという思いもあった。新種の病気を宿した人間として、研究サンプルのような日々を送ってきた。中村は生きることに疲れ切っていたのだ。
電車が減速していく。もうすぐ最初の停車駅に到着するのだろう。
「切符を見てごらんなさい」
中村に促され、男は自分の切符に目を向けた。
「何も書いてありません」
「じゃあ君はもっと先までこの電車に乗るという事だ」
男が周囲を見渡すと、数人が席を立ち電車の止まるのを待っていた。速度を落とした電車は静かに停車し、扉を開いた。
『手術成功、手術成功でございます。お降りのお客様はお手持ちの切符を係員にご提示ください』
扉のわきにはのっぺりとした影法師のようなものが立ちんぼしている。
ひとりひとり、切符を見せては駅のホームへと降りていった。そのうちの一名が、影法師に押し返されて電車に放り込まれた。
「切符に駅名が出ている人しか降りることはできないルールだ。昔、この電車に乗っていた人にそう教わったよ」
「信じられません」
男は自分の手にした切符を食い入るようにのぞき込んだ。長方形の厚紙には、なんの文字も浮かんでこない。やがて電車が再び動きだし、次の停車駅で速度を落とした。
『次は、臨死体験。臨死体験でございます』
中村の切符も男の切符も、白紙のままである。数人が降りると電車は動き出す。
賽の河原を経て三途の川を越えるころには、男の額には冷や汗が浮かんでいた。ここから先は中村にとっても未知の場所である。腹は括っていても、緊張が訪れた。
――生前は真面目に生きてきたつもりだが。
中村が心のなかで呟いた。おそらくこの先にあるのは天国と地獄であろう。転生なんていうものもあるかもしれない。自分は果たしてどこで降りるのか。切符を握りしめる。
窓の向こうの風景が赤黒く染まり、車内の誰かがうめき声をあげた。
『次は、血の池。血の池でございます』
アナウンスとともに、中村の横で悲鳴が漏れた。男の切符に文字が浮き上がる。そこには『血の池』という文言が記されていた。
「いやだ、こんな場所で降りたくない!」
抵抗する男を、物言わぬ影法師が無理やり電車から引きずり降ろす。
「助けてくれ!」
悲痛な叫び声は、閉まる扉にかき消された。
中村は男の消えた扉にそっと手を合わせ、自分の切符に目を落とした。電車は『針山』『火の海』と様々な地獄に停車していったが、中村の切符は白紙のままであった。
電車が赤黒い世界を抜けて光に包まれるころ、車内には数人しか残っていなかった。
『次は、天国。天国でございます』
乗客たちから歓声があがった。
中村も電車が世にも恐ろしい地獄を抜けて一安心したが、自分の切符は相変わらず真っ白なままである。やがて天国に停車すると、残っていた者たちは全員電車を降りた。
扉がしまる。
不意に電車のなかに冷気が立ち込めてきた。この電車にも空調など備わっているのだろうか。
それにしても、寒い。車内の温度は急速に下がっていった。
電車が動き出す。中村は手に白い息を吹きかけるが、指先から感覚がなくなっていく。
『次は……』
アナウンスの声が車内に響く。しかし、すっかり全身が冷え切ってしまった中村の耳には停車駅の名前は届かない。
凍えた中村の手から切符が滑り落ちる。
そこには『サンプル保存』という文字が浮かび上がっていた。
券売機で買える長方形の切符をひとまわり大きくしたような、白黒の切符である。
夜明けとも夕方ともつかない車内には中村のほかに十数人の乗客が座っていた。
――この電車に乗るのは久しぶりだ。
中村は目を閉じた。数年前に乗った時は夢でも見たかと思ったものだが……。ため息をつくと、近くの席の男が身を寄せてきた。
「あの、この電車いったい何なのでしょうか。私、目が覚めたら突然ここにいて」
三十代とおぼしき男の声は微かに震えていた。予感のようなものはあるのかもしれない。
「恐らく、これは死者を運ぶ電車だよ」
自分よりずっと若い男に、中村が答えた。
「死者を運ぶ? そんなバカな」
身震いをして男が首を左右に振る。「あり得ません」否定する声はさらに震えていた。中村は男の顔を見つめながら静かに続けた。
「私は世界でも極端に症例の少ない難病でね。何度も危険な手術を受けている。そのたびにこの電車に乗ったものだよ。途中下車だったけれどね。でも今回はダメだろう」
中村にはもう十分に生きたという思いもあった。新種の病気を宿した人間として、研究サンプルのような日々を送ってきた。中村は生きることに疲れ切っていたのだ。
電車が減速していく。もうすぐ最初の停車駅に到着するのだろう。
「切符を見てごらんなさい」
中村に促され、男は自分の切符に目を向けた。
「何も書いてありません」
「じゃあ君はもっと先までこの電車に乗るという事だ」
男が周囲を見渡すと、数人が席を立ち電車の止まるのを待っていた。速度を落とした電車は静かに停車し、扉を開いた。
『手術成功、手術成功でございます。お降りのお客様はお手持ちの切符を係員にご提示ください』
扉のわきにはのっぺりとした影法師のようなものが立ちんぼしている。
ひとりひとり、切符を見せては駅のホームへと降りていった。そのうちの一名が、影法師に押し返されて電車に放り込まれた。
「切符に駅名が出ている人しか降りることはできないルールだ。昔、この電車に乗っていた人にそう教わったよ」
「信じられません」
男は自分の手にした切符を食い入るようにのぞき込んだ。長方形の厚紙には、なんの文字も浮かんでこない。やがて電車が再び動きだし、次の停車駅で速度を落とした。
『次は、臨死体験。臨死体験でございます』
中村の切符も男の切符も、白紙のままである。数人が降りると電車は動き出す。
賽の河原を経て三途の川を越えるころには、男の額には冷や汗が浮かんでいた。ここから先は中村にとっても未知の場所である。腹は括っていても、緊張が訪れた。
――生前は真面目に生きてきたつもりだが。
中村が心のなかで呟いた。おそらくこの先にあるのは天国と地獄であろう。転生なんていうものもあるかもしれない。自分は果たしてどこで降りるのか。切符を握りしめる。
窓の向こうの風景が赤黒く染まり、車内の誰かがうめき声をあげた。
『次は、血の池。血の池でございます』
アナウンスとともに、中村の横で悲鳴が漏れた。男の切符に文字が浮き上がる。そこには『血の池』という文言が記されていた。
「いやだ、こんな場所で降りたくない!」
抵抗する男を、物言わぬ影法師が無理やり電車から引きずり降ろす。
「助けてくれ!」
悲痛な叫び声は、閉まる扉にかき消された。
中村は男の消えた扉にそっと手を合わせ、自分の切符に目を落とした。電車は『針山』『火の海』と様々な地獄に停車していったが、中村の切符は白紙のままであった。
電車が赤黒い世界を抜けて光に包まれるころ、車内には数人しか残っていなかった。
『次は、天国。天国でございます』
乗客たちから歓声があがった。
中村も電車が世にも恐ろしい地獄を抜けて一安心したが、自分の切符は相変わらず真っ白なままである。やがて天国に停車すると、残っていた者たちは全員電車を降りた。
扉がしまる。
不意に電車のなかに冷気が立ち込めてきた。この電車にも空調など備わっているのだろうか。
それにしても、寒い。車内の温度は急速に下がっていった。
電車が動き出す。中村は手に白い息を吹きかけるが、指先から感覚がなくなっていく。
『次は……』
アナウンスの声が車内に響く。しかし、すっかり全身が冷え切ってしまった中村の耳には停車駅の名前は届かない。
凍えた中村の手から切符が滑り落ちる。
そこには『サンプル保存』という文字が浮かび上がっていた。