丸、三角、四角

文字数 6,952文字

田舎のこの街には、学校がひとつしかない。

 水村山郭なこの村から通える唯一の高校は、徒歩一時間かかる。
 田舎だからだろうか、話に尾ひれが着いて、あの学校に行くと都会に出た時にヤクザなどに絡まれない。と言う謎の噂まで広がっている中の下の高校だ。

 私は毎日一人、または途中まで友人と登下校をしている。
 ただ、私の家は本当に田舎の代名詞のような山の中にあるので、途中から誰も居なくなる。
 近所のおばさんの家まで徒歩十分、一番近くのスーパーまで軽トラで三十分。
 映画館なんて行ったことがない。

 家の土地は無駄に広いし、何故か近くの山がうちの土地だし。
 早く大学生になって都会に行きたいと毎日願う。

 都会にはきっとお洒落な雑貨屋さんがあるのだろう。
 都会にはきっとキラキラした人が沢山居るのだろう。
 都会にはきっと徒歩圏内にスーパーがあるのだろう。
 
そんな虚しいことを考えながら布団から出る。
 いつも決まった時間に起きるので時計は要らない。
 毛布を畳み、布団も畳む。
 重ねて持って、畳の上を歩く、押し入れの襖を開いて、ボフ、と置く。
 ここでいつも深呼吸、身体を整えながら広い家を歩く。

 家は土地持ちなので中庭や、池がある和風の家で、一回友達を連れてきた時に驚愕されたのを覚えている。
 畳を開けて、縁側へ出る。足の裏に触れるひんやりとした滑らかな木の感触が心地よい。
 下駄を履いて庭へ出て、軽く伸びをした後に薪小屋へ歩く。
 一抱え分の薪を持ち、台所へ向かう。

 うちは僻地にあるので、ガスが通っていない。
 そのため薪で火を起こして、炊事をする。
 火を起こして米を取り出し、洗ってから炊く。

 蓋をして一呼吸ついたら今度は籠から、ほうれん草を取り出す。
 うちは野菜を買わず、育てているので虫に食われている箇所があり、そこを探して取り除くのが私の楽しみだった。
 根元を軽く切って、まな板をグツグツ煮立つお湯へ傾ける。
 ほうれん草をお湯からあげたら、さっと冷水に通してシャッと降って水気を切り、手で軽く絞る。

 まな板に戻して、適当に切ったら、手を布巾で拭いて、下駄のまま醤油の瓶を持って醤油小屋へ歩く。


 ――うちはもともと醤油屋だった。
 今はおじいちゃんが引退したからお店を辞めたけれど、昔はここら辺の人が買ってくれていた。

 醤油を売るのには許可が居る。
 おじいちゃんの代までは許可を得ていたが、もう売ることがないので、家で使うだけでひっそりと継ぎ足しをしているその醤油は、深く、コクのある味わいをしていて好きだ。
 一回も同じ味わいにならないとおじいちゃんに聞いたので、一回一回を大切に使っているのも理由のひとつになるのかもしれない。

 醤油を樽から補給し、鰹節を削る。
 みんなを起こして、盛り付けて、食べる。
 皿を洗った後はお母さんに任せて、身支度をする。

 今日は冷えている、そのことを忘れていた訳では無いが、シャワーを浴びて案の定ガタガタと震えながら頭をタオルで包む。
 ドライヤーをする時に所々馬鹿な毛があるので、椿油を馴染ませてふと顔を上げる。
 鏡を見ると、代わり映えのしない私。
 つまらなそうだな、と思った。

 鞄の中身を確認したら、玄関に行って靴を履く。
 私のローファーは一年目とは思えないほど削れている。
 シワも着いているし、ややへたり始めている。やや値を張るものだったが……まあ良いか。
 玄関で踵を鳴らし、黒の傘を持ってドアに手をかける。

「行ってきます」

 ガラガラとした軽いガラス戸の音が鳥のさえずりの中に響く。
 朝の山は蜘蛛の巣が良く張っている。
 普通の人なら怖がるだろうが私は慣れているので手で大量の蜘蛛の巣を払う。
 腕に蜘蛛が乗っていたとしても払えば良いだけの話で、なぜ友達があれ程までに怖がるのか理解できない。

 左腕に蜘蛛の糸を絡ませて歩く。
 家の周りはやや森になっていて、自然が豊かだ。
 場所により景色が変わるここが本当に好きだった。

 竹の林地帯を歩いていくと、すうっと日が差した。今まで薄暗かった竹たちが朝露に濡れて緑に輝く。
 綺麗だなぁ、と独り言を呟いてからひとつを叩いてみる。
 コン、と音がした後に上から露が降って来た。
「冷たっ」
 軽く笑いながら速度を速める。

 手に付いた蜘蛛の巣はいつも川で落としている。
 今日も当たり前のように川に手を突っ込んだが、寒い事を忘れていた私の身体に衝撃が走る。
 痺れる手を振ってからタオルで拭いた。
 今日は手がかじかんで、手を握ると関節が痛む。
 それが人生、か。と考えながら二十分程歩いてやっと人のいる集落に着いた。

 今はまだ早朝だと言うのに、ここら辺の人達はみんなせかせかと仕事の準備を始めている。
「おはよう、芽菜ちゃん。今日も早いねぇ」
「おはようございます」
「これ、みかんさ、持ってきな、ほれ」
「あ、ありがとうございます。行ってきます」
「気い付けてなぁ」
「はい」

 ここの人達は、みんな優しい。
 近くに住んでる人は、みんな家族のように接してくれる。
 そういう所では、田舎に産まれても良かったかな、と思っている。
 田んぼの周りをゆったりと歩いて、やっとアスファルト仕様の道路へ着いた。
 ここからバス停までは約十五分、私にしてみれば近場だ。
 歩き始めてから早五分、雨が降り出した。
 木が使われていてごつごつとした傘の手元(持ち手の丸いところ)をゆっくり手でなぞり、傘を広げる。

 パラパラと小雨が傘を打つ音を聞きながら、懐かしいような、寂しいような、そんな匂いが微かに香った。
 小走りでバス停まで走り、ベンチに座る。
 傘をバサバサと振って水気を取り、ボタンを留めると石突き(傘の先の固いアレ)へ水滴が流れる。
 そのまま道路の向かいの田んぼをずっと眺めていた。

 「おっはよ~、めいなぁ~」
 「おはよう」
 教室に入ると、都会の匂い、いや、人の匂いがする。
 ずっと家の中で自然の香りを嗅いできた私にとって、やはり高校特有の人の匂いはまだ慣れないものだった。

 もう一学期が終わるのに、である。
 「まだ匂いするの慣れないの? そんなに匂うかなぁ?」
 「いや、そんなんじゃなくて――」
 「そうだよね、うちらにはわかんなくて当然だよね、いいなー、めいなん家凄く木の香りするじゃん、羨ましい。うちなんて普通の一軒家だからなんも変哲が無くてつまんない」

 嫌味で言っているのでは無いと分かっていてもその言葉は私の心をかなり抉り取る。
 住んでみると分かる。田舎って辛い。
 みんなが当たり前に通っている踏切もほとんど見ることが無いから、私には全部が新鮮だ。
 全部が新鮮な――そう。桃源郷のようなところに住んでいるみんなが心底羨ましい。

「今日、一学期目の通知表を返す。返されたらよく確認して、後期に生かすように」
 個票返しだ。私は学校であまり前に出るほうでは無いので、いつもやや高めの成績を貰う。

「西崎 芽菜」
「――はい」
「お前はよく頑張っているそうだな、……ただ、体育だけが心配だ。持久走以外ほとんど良くない。非常に良くない」
「――はい」
「後期も精進するように」
「――はい」
「よし、次、根本――」

 今の会話の意味は、そのまま面倒なことを起こさず卒業してくれ、と言うことだった。
 ここの高校は、何やら暴力沙汰になりやすいと噂で聞いたことを思い出した。
 そんなこと思い出している自分をバカバカしく思いながら通知表を開く。
 〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇、〇。
 全部丸。正直、人を丸かバツかで判断する体制が間違っていると思う。
 その人が正しいと思った事でも、学校側からすればいい迷惑。

 これも社会に適合するために必要なことなんだ、と自分に言い聞かせても納得出来ない。
 私は社会に適応することが難しい人種のようだ。
 田舎育ちの欠陥か、と鉄の窓枠に呟いた。

 学校が終わり課外活動が始まる。
 今日は部活がなくみんなで掃除をすることになっていた。
 仲の良い五人程で集まり、校門近くのアスファルトの上、作戦会議を開く。

「芽菜は箒取ってきて、そんで華麻は一輪車。その他はふたりが来るまで草むしり! ごー!」
 校舎裏へ歩く。箒は裏のフェンス近くにあるはずだ。

 秋の風を感じながら、傾くのが早くなった太陽を仰ぐ。
 なんか、っぽいな。いいな、これも。なんて考え少し心と身体が震える。
 冬が近づいて来ている。

 校舎の端へ向かい、軽い足取りで左を向いてアスファルトと土の境界を跨ぐ。
 治安の悪い輩がたむろしている状況に鉢合わせてしまったと気付くのには一秒あれば十分だった。

 一回帰ろう。そう考えて左足に重心を移し、くるりと向きを変える。一歩歩き始めた所で声を掛けられた。
 十数メートル離れているのに、その声は響く。
 美しさとは程遠い、泥のような声だ。
「あれ〜? 逃げるの? ねぇ」
 こちらに近付いて来る。
 
 ――逃げなきゃ。

 頭では分かっているのに身体が反応しない。
 私に出来る唯一のことは、自分の右手を強く握ることだけだった。
 私はあっけなく捕まった。

 大声なんて出ない。口から出るのは、乾いた息だけだった。
 彼らは私の両腕を掴む。勝てるはずも無く、私の抵抗は数秒にして空しく終わった。
 頭の中が白に染まる。

 何をされるのだろう、と五、六人の男に囲まれて思った。それだけで悪寒が走り、吐き気がした。
 その中のボスのような一人が私の髪を掴
んでグッと上にあげる。
「結構良い面してんじゃねぇか、よし、今日はこいつで遊ぶぞ」

 ニヤリ、と微笑み私の肩に両手を置き、そのまま下へ滑らせる。
 手つきが気持ち悪く、私の四肢に鳥肌が立つ感覚が走る。
 それと同時に数人が私の身体をベタベタと触る。涙が出てきた。

「やめ……て……」
「あん? やめねぇよ、ここがシカクで良かったぜ」

 腕のひとつが太ももを滑る。同時に、血の気が引いて行く。
 歯を食いしばって必死に抵抗する。すると、足も掴まれた。
 ふと右足のガードが緩くなったのを感じて思い切り振り上げる。
 力いっぱいに引いて、足の爪先に持っている全ての力をかける。
 私のローファーはボスの鼻を直撃し、赤い飛沫が飛ぶ。空気が凍った。

 彼は鼻を抑えて、笑った。

「やんじゃねぇか、おい?」

 腕を振りかぶって私の左頬を殴る。
 全身を鈍器で殴られたかのような衝撃、痛みよりも今自分がどこにいるか分からない不思議な感覚になった。
 二発目、今度は本格的に頬が痛くなった。たぶん唇も切れているだろう、口の周りからは血の味がする。
 三発目、もう沢山だ。首が痛い。飛ばされてフェンスにぶつかる。
 骨が軋む音がする。
 左頬が膨れ上がるのを感じる。
 辛い、痛い、虚しい。

 結局私の人生ってこんなもんだよな、と思う。
 ただ好きに利用されるだけ。
 
 みんなそうだ、と心の中で声がした。
 お前だけがそんな思いをしていると思うな。
 思い上がるな、西崎芽菜、と。

 その時私の心の声をかき消すほどの大きな声が響いた。その雄叫びは私に近付いてくる。
 四発目を放つためにボスが右手を振り上げる。

 その拳が私を殴る前に彼の顔を雄叫びを発しながら誰かが殴る。
 場の雰囲気が崩れて、ボスが劣勢に変わる。
 その人は、話したこともない私を助けてくれている。
 ただ殴られてへたりこんでいる私を守る為に、彼らを殴るその人の名前を、出雲 千隼と言う。
 その人は、私を取り囲んでいる五、六人をまとめて殴る。
 殴られている彼らが心配になるほどに強く、永く、殴り続ける。

「あの……もう、いいんじゃないでしょうか」
「君は優しいね。こいつら君をさっきまで襲っていたヤツらだよ? 一回躾ないと、またやるからね。大丈夫、そこで見てて」
 傍から見ると弱いもの虐めをする人に見える程、酷い有り様だった。

 彼らが走り去っていく。彼らの虚ろな目に映るのは爽やかな彼の笑顔。
 敵に回しちゃいけない人ってこういう人なんだ……。心の中で呟く。


「大丈夫?」
「あ、はい。お陰様で」
「お陰様でって言う人初めて見たなぁ。君、ここに何しに来たの?」
「あの、箒を、取りに来ました」
「箒はあそこの角を曲がった先ね。あと、なんで君襲われたか分かる?」
「いえ、あの、まだ分からないことばかりで。すいません」
「謝らなくてもいいよ。そうだね。まだわかんないよね。しゃーないしゃーない。」
 すると一気に真剣な顔になって彼は言った。
「ここはね、この学校の死角なんだ。先生は一切関与しない。いや、見て見ぬふりをする。多分君のこと誰かしらの先生は見てたと思うよ」
「助けてくれればいいのに、なんで……」
「先生はね、面倒臭いんだ。生徒のいざこざを見るのが。まあここに入ると、一回は事件に巻き込まれるからみんな社会に出た時に応用が効くようでみんな自分の事を守れるようになるみたいだから、幸い悪い影響も無いだろって思ってんじゃない?」
「分からないんですか?なんで指導しないか」
「わかんないね。正直。でも俺来るし、丁度いい感じにみんな学習してくんじゃない? 結構大事だよ、自己防衛って」
「そう、ですか」
「さあ、さっさと箒取りに行って、掃除しよう」
「はい。助けて頂いてありがとうございました」
「それ、何回聞いても照れるなあ、じゃあな、気をつけろよ」
「はい」

 不思議な人だったなぁ……。と思いながら教えられた角を曲がって箒を選ぶ。
 あまり角張っていないものを……と数本触って確認する。
 両手に持って、地面を踏みしめながらゆっくりと歩き出す。

「芽菜おっそ〜い! 見て! みんな暇だからこんなに雑草抜いちゃった!」
 指を指したところには高さ三十センチ程の草の山が出来ていた。
「ごめ〜ん、迷っちゃった!」
 駆けていく脚がいつもより軽い気がした。

「あっ、見てみて! 井雲先輩だぁ!」
「かっこいい〜!」
 さっき助けてくれた彼が爽やかに校庭を歩く。
 さっと振り向くと私に向かって優しく手を振った。私も咄嗟に会釈をしたが、たぶん見えていない気がする。

「きゃ〜! こっち向いた〜! えっ? 今芽菜に向かって手を振らなかった?」
「え〜? なんかあったの〜?」
「白状しなよ〜っ」
 キャッキャキャッキャとはしゃぐ彼女らの反応からすると、学校内の人気者なんだろう。
「ちょっと、ね」
「え〜? 何があったんだよ〜っ!?

 尚更ややこしくするような発言に後悔しながらも、そういうことにしておいてもいいかな、と心の悪魔が唆す。
 彼がいたから今笑っていられる。
 そのことを噛み締めながら、笑って叫ぶ。
 
「ありがとう〜!」


 廊下に静かな足音が響く。
 初老の男が脇に書類を抱え、歩いている。
 すると微かに窓の外から叫び声が聞こえる。
 一定のリズムを刻んでいた彼の足がすっと止まる。

 窓を少し開けて声を聞く。
「やめてっ!」
 数分後、観察していた男は窓を閉めて、踵を返して今来た道を戻った。
 相談室のネームプレートが貼られた教室の扉を開けて、電気を付け、ボロボロの椅子に座った。

 ポケットからスマートフォンを取り出すと三回タップする。
 青白い光が彼の額を照らす。
 画面の中には校舎外側に付けた防犯カメラの映像。
 数名の青年が一人の青年に叩きのめされている。
 無表情でスマートフォンの電源を切った彼は、腕を組んでそのまま俯き、いびきをかきはじめた。

 十数分後、さっきの青年が扉を開ける。
 寝ている男にため息を吐きながら、男が持っていた書類で頭を叩く。

「起きて下さい。久留米先生。先生。お〜い! 起きろってこの糞デブ」
「糞デブは言い過ぎじゃねえか? 出雲よお」
「ずっと寝てるお前が悪いんだろ? ほら、西崎芽菜、やってきたよ」
「悪いな、これで何人目だ?」
「六十二、ほとんど一年の三分の一だな」
「まあ順調だな。今回はかなり痛そうだったが大丈夫か?」
「あぁ、たぶん西崎は大丈夫。今回の奴らは手加減出来ねえ奴らだったみてぇで困ったもんだぜ、鼻折られた位でガチギレするか? しねぇだろ、普通」
「バカほど制御出来ねえんだわ、お前も散々知ってるだろ、出雲」
「ああ、そうだな……ところで爺さんよ、いつまでこんなことするんだ? お前の娘がどうしたかなんて知らねぇけどよ、もうそろそろ手を引いた方がいいんじゃねえのか?」
「何も知らないお前に言われたくない」
 男は顔を歪める。
「娘を失うのがどれ程の苦痛を俺に与えたか分からないだろう。出雲、余計なことに首を突っ込まないのが賢い生き方だって伝えたよな?」
「じゃあこれを俺が辞めると言ったら?」
「――すまなかった。俺も言い過ぎたよ、出雲。どうか続けてくれ」
「おじさんは頑固だねぇ、で? 次は?」
「国後美玖。あいつはまだ本当の恐怖を知らない。何かあったときに対応できない。指導してやってくれ」
「はいはい、最近近くのヤンキーたちが連れなくなってきてるんだ、おっさん。俺に殴られたくねぇだとよ。半グレでも使うか?」
「西町のヤンキーボコればまた使えるだろう。ほら、金だ。」
「こんな汚いやり方で自分の正義を貫くといつかボロが出るぜ、爺さん」
「まだおっさんだ、クソガキ」

 青年は男から受け取った金を数えながら廊下へ出る。左右を確認して、廊下を歩き始めた。
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