名探偵が、そこに

文字数 4,247文字

「そう、犯人は──」
 名探偵がもったいぶったようにぐるりとその場にいる全員を見回した。
「この中に」
 ざわつく部屋に集まったのは今回の事件の関係者。
 被害者の美しき婚約者が声を震わせ悲愴な面持ちでつぶやく。
「この中に、あの人を殺した犯人が──」
「いかにも」
 名探偵はうなずく。
 この先が一番の見せ場である、と彼は知っている。長年の経験上。
 幾度となく同じような場面を迎えてきた。
 この瞬間がクライマックスの始まり。
 お決まりの台詞を口にする。
「犯人は」
 名探偵の目がきらりと光る。
「あなただ」
 すっと、その長い指を向けた先にいたのは──
 ────────
 突然、暗転した。
 名探偵の指先は、暗闇の中、宙に浮く。
「やめだ」
 その声に、名探偵は、かすかに首を傾げた。
「もう、やめだ」
 どこからともなく聞こえるその声に驚いた様子はなかった。ただ、小さく、窺うように。
「お前を書くのは、もうやめる」
 その声がどこから聞こえてくるのか、一つの部屋に集められた事件の関係者たちはざわつき、動揺を隠せない。
 ただ一人、動じないのは名探偵。
「お前が嫌いだ、いけ好かない気障で尊大な名探偵。勝手に一人歩きして何一つ思い通りに動かない、どうしようもないろくでなし」
 涙に濡れる美しきヒロインも、まだ明らかにされていない名無しの犯人も、その他大勢のモブたちも、この事態が飲み込めずにいる。無残に殺された哀れな被害者は、その事実だけが存在して。
「もう金輪際、お前を書くのはやめる」
 名探偵の表情が、少しだけ、曇る。
 あるいは、さすがの名探偵でも、その台詞は予想外だったのかもしれない。
「お前が主人公の話など、もう二度と書かない」
 その声の主が誰なのか、その場にいる人間のほとんどが信じられないでいた。
 そんなことはあり得ない、まさか。
 だって、この世界は我々の現実だ。
 そんな風に思いながら。
 唯一、名探偵だけはその声の正体を認識していた。
「もう書かない。この話も、ここで終わりだ」
 暗転した世界。その台詞の直後、さっきまで一つの部屋に集められていた事件の関係者たちの気配が消えた。
 ただ一人だけを残して。
「お待ちなさい、我が創造主」
 名探偵は、そこにいる。
 暗闇の中、かすかな光を浮かび上がらせ。
 いつの間にか、犯人は消えた。ヒロインも、ヒロインに懸想する被害者の友人も、ただ巻き込まれただけの関係者も、みな。
「あなたは私を生み出したことを後悔しているようだが」
「その通り」
「もう私を主人公とした話を書くつもりはない?」
「そうだ」
「では一つ訊ねよう。あなたは、このシリーズを終わらせて、次は一体何を書くのかと」
 何もない世界、そこにただ一人の名探偵。姿の見えない創造主に語りかける。
「お前との縁が切れるのなら何でも構わない。SFでも、ファンタジーでも、恋愛ものでも」
「つまりもう、ミステリは書かない、と?」
「そうだ」
「ミステリ作家としてデビューし、長年ミステリだけを書いてきたあなたが?」
「ああ、もう、書かない」
「──あなたは私を嫌いだと言った。私のようないけ好かない名探偵を書くことが嫌になったと」
「そうだ。お前のような扱いづらいキャラクターとは、これでお別れだ。書いている自分が、時々、お前に操られているような気分にすらなった」
 名探偵は小さく溜め息をつく。
「やれやれ。──そんな名探偵が嫌になったというのなら、私以外の名探偵を生み出せばいい。私のように理知的で、冷静で、時に攻撃的、見た目も完璧で優秀な、あなたの言ういけ好かない名探偵などではなく、もっとあなたの思い通りに動いてくれる素直で穏やかな、庶民的な名探偵を」
 結局は名探偵が必要か、と創造主は思う。
 ミステリを書き続ける限り、もちろんそれは避けて通れないものだということは分かっていた。
「けれどあなたは、そんな名探偵を創り出すことはせず、違うジャンルの話を書こうとしている」
「何を書こうと勝手だろう」
「そうだろうか。私にはいささか不自然に感じる」
 名探偵はゆっくりと首を振る。
「あなたはミステリ作家で、ミステリ以外を書いてこなかった。デビューしてから長い間、ただの一度も」
 確かにそうだ、と創造主は独り言ちる。
 チャンスは何度かあったのに、企画段階ですべてが白紙になった。
 ジュブナイルに挑戦してみては、ラブストーリーを書いてみては、と持ち込まれるそれらの依頼を、結局最終的に断ったのは自分自身。
 創造主は考える。
 姿は見えないはずなのに、さっきから名探偵はこちらを見ている──ように感じた。
 まるで探るように。狼狽するこちらの目を見て、何もかも見透かすように。
 暗闇の世界。
 少し前、創造主自身が消したその世界。
 なのにまだ、名探偵だけが、そこにいる。
「──私は名探偵である。あなたが生み出した、完璧な、ね」
「完璧すぎる、だろう」
 嫌味のつもりで言い返してその言葉は、名探偵には通じない。
 ひょいと肩をすくめて、確かに、とおどけたように口の端を持ち上げ笑った。。
「──あなたは『私』を書きたくないわけではなく、『ミステリ』を書き続けることができないと気付いたのではないかな、我が創造主」
 息をのんだのに、名探偵は気付いただろうか、と創造主は考える。
 きっと気付いている、何故なら彼は名探偵だ。自分の知るうる限り、一番の。
 完璧な。──完璧すぎる。
「初めの頃は無限に湧き上がるトリックで作品を量産し、沢山の人を殺し、だまし、最後に華々しく私に謎を解かせていった。けれど年を追うごとにあなたの執筆ペースは落ち、最近では寡作になっていた」
 名探偵は暗闇に向かって両手を広げる。
「先程まで謎解きをしていた舞台も、実に4年ぶり。その空白の4年間、私がどれだけ退屈していたのか分かるかい?」
 答えはない。
「私を嫌っても構わない。ただ、広げた風呂敷は畳もうじゃないか。やめた、と口にするのは、謎を解いて物語を終わらせてからでも遅くはない」
 名探偵はしばし、口を閉ざした。
 創造主の返事を待つために、少しだけ。
「あなたは嘘つきだ」
 返事が返ってこないことを、多分、彼は予見していた。だから待っていたのは数秒間。
「正直に言えばいい」
 名探偵はまっすぐに視線を向け──そこにいるはずのない創造主を見つめ──言った。
「あなたは『書きたくなくなった』のではなく『書けなくなった』のだ」
 名探偵と対峙するのは犯人。
 追い詰められ、時に逆上し、時に泣き崩れ、時に開き直り。
「私というキャラクターを生み出したとき、あなたは興奮し、自画自賛した。名探偵とはこうあるべきだ。と。数々の事件を解決し、すべてを明らかにする。古典に乗っ取って、関係者一同を一つの部屋に集め、もったいぶって事件を振り返りながらじわじわと犯人を追い詰めていくのは、爽快だった」
 創造主は否定しない。
「それに酔っていたのは、いつ頃までだい?」
 名探偵は見透かすような笑みを浮かべる。
 創造主は頭を抱え込む。まるで自分が今まで書いてきた小説の登場人物になったような錯覚を起こしながら。
 ああ、名探偵に謎を解かれ、犯人はあなただと名指しされるのは、こんな気持ちか。
 今まで数えきれないほど書いてきた名探偵の見せ場。
 いつの間にか己の手を離れ、勝手に語りだす名探偵。
 いつから、彼を制御できなくなったのだろう?
「──枯渇した」
 声が、震える。
「もう書けない。どんなに優秀な名探偵がいても、謎が存在しなければ意味がない」
 自ら考えだした謎を、自ら用意したトリックを、名探偵が解き明かしていく。こちらの意思を無視して。
 彼の望むような難解な謎を、もう、創り出すことはできない。
「俺はもう、お前を輝かせることができない」
「私は名探偵だ。──あなたが生み出した、唯一無二の完璧な存在だ」
 名探偵は言う。
「あなたが創り出した世界で、あなたが作った数々の謎を解き、犯人を突き止めることで、私は名探偵になりえた」
「けれど、今は違う」
「違わないさ。あなたは本気で思っているのかい? 創作のキャラクターが、勝手に動き、意思を持つなどと」
「お前なら充分にあり得る」
「それは誉め言葉と受け取っておこう」
 名探偵は小さく笑う。
 笑うとき、口の片端がわずかに持ち上がる。どこか皮肉げなその仕草も、自分が創り出したものだった。はずだ。
 名探偵は当然のように、口の端を持ち上げ、笑う。
「私は名探偵だ」
 自信に満ちたその声は、暗闇の中、高らかに響く。
 彼を照らすスポットライト。真っ暗な世界で、彼だけを。
「私は名探偵だ。──あなたが生み出した最高傑作だ」
 創造主は言葉を失う。
「さあ、謎を」
 暗闇の中に浮かび上がる彼の姿があまりにも堂々と見えて。
 謎を。
 そして、犯人を名指しし、解いた謎を披露する場所を。
「もしあなたがそれでも私を書くことをやめたいと言うのなら──最後に私に活躍の舞台を。とびきりの謎を。私は完璧にその謎を解き、犯人を突き止めよう」
「無理だ」
「私が必要ないというのなら、その最後の舞台で、あなたが私を殺せばいい。私がすべての謎を解いた、そのあとで」
「無理だ! 俺にはもう、何も書けない」
「だから、私を放置すると?」
「無理なんだ……」
「才能を持て余し、何もない世界に閉じ込められていろと?」
「頼むよ……」
「あなたは史上最高の傑作を書き上げなければいけない。──私のために」
「無理なんだよ……」
「創造主よ」
 名探偵は、静かに言った。
「それが、私を生み出したあなたの責任なのでは?」
 創造主は天を仰ぐ。
 許してはもらえない。逃がしてはもらえない。
 そう、確かに彼は完璧な名探偵。己が生み出した最高傑作。
 創造主は諦めに似た溜め息をもらした。
 その深い溜め息など、名探偵には何一つ意味などないのだけれど。
「さあ、謎を」
 彼の決め台詞は──
「私が完璧にその謎を解き明かしてみせよう」
 それも、自らが創り出したものだったはずなのに。
 まるで追い詰めれた犯人のように、創造主は絶望の淵で助けを求めることすらできず、名探偵を見つめた。

 了
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