第1話

文字数 805文字

 その男は人間であった。
 体の中を脈動する桃色の心臓によって、全身に押し出されるそのみずみずしき血流がその証であった。
 しかしそれ以外のことについて彼を説明するには彼はあまりにも何もしていなかったのである。
 冷たいフローリングの上に敷かれた毛玉まみれのカーペットがその男の体重でわずかに沈み込む。それ以上沈むことはとてもとてもできなかった。
 彼は虚ろな眼を上に向け、全身を小さく大の字に開いていた。どうでもよさそうなふうに口から酸素を出し入れしている。
 彼は人間であった。しかし彼にはそれ以上はなかった。
 その部屋は四方が壁に囲まれていた。天井と床もあった。空気というものがふわふわ存在していて、人間である彼はそのうちの約2割ほどが必要であった。
 彼はぼさぼさの髪の毛を乱雑に床に這わせていた。視線の定まらない目で暗い電球と見合わせ、自身と同じように役割のないその中身に深く共感した。眼球の周りは桃色に腫れていた。そして少しばかりしっとりとしている。
 部屋の四隅には角があって3本の直線が交わる点があった。あったからといってその点は目に見えるものではない。その点の周りには埃がぎゅうと吸い込まれていて、とても彼には手が出せないものであった。
 彼の頬はいささか窪んでいた。その青みがかった窪みの陰の内側では彼のカサカサとした皮膚の欠片が助けを求めるように跳ね上がっていた。しかし助けが来るにはそれらはあまりにも醜かった。
 部屋の扉には鍵がかかっていることはなく男はいつでも外に出ることはできた。しかし、男はいつまでもその部屋にいた。
 脳みそがクラクラする。
 開き続けた目の表面から水蒸気が立ち昇る。
 たまに自分が息をしていることに気付く。
 そしてまた暗い部屋の明かりと対峙する。
 無明の電球。
 

 彼は「勝った」とそう思って、重たい瞼をそっと閉じた。
 その部屋には窓があった。
 朝日が青色に乾いた彼を照らしていた。
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