あいしあい

文字数 3,436文字

 昼過ぎからくずれた天候はホームルームを迎えたころにとうとう夕立になり、額縁をならべたような教室の窓を滲ませていく。視認性を損なったガラス一枚向こうの眺望、薄鼠色に乳白を織り交ぜた空が非日常性を惹起して、この馴染みの教室がどこか別次元の空間に隔絶される幻想に心許なくなる。
 まるで水族館みたいだ。ぶ厚いアクリル板を隔てた先、豪胆に泳ぐサメの水槽を前にしているようだと私は考えた。鋭い正三角形の歯を誇示し、大きな背びれを悠然とはためかせ、畏怖の対象として数々の物語にも描かれる獰猛なそれと相対したときの、身がすくむ不安に動悸がする。
 サメは好きだ。特に目。たとえばホオジロザメの真っ黒い目。濡れた黒水晶を思わせるあの生気のない眼球が、私に興奮と畏敬の念を抱かせた。幼少期、祖母に買ってもらった『おさかな図鑑』の索引『サメ』を、手垢でよごれるほど眺めていた。ニンゲンの視力では到底ひかりを感知できない水深1000メートルの暗闇のなか、獲物を物色して回遊する様を想像するだけで、全身がぞくぞくと総毛立つ。
 そんな悪寒がもたらす感覚は、いまにしてみれば〈ECSTASY〉の境地にあった。そういう気分に陥ったとき、私は悪い気がして、夜な夜なふとんに潜り込んではペンライト傍らに図鑑を開き、呼吸を乱していたのだった。
 教師が教室から去ると、そぞろ気な感情も複数の生徒とともに廊下へ流れ出ていき、6限目までの緊張がゆるやかに凋落していく。その潮流に沿って私も下校しようと席を立つと、

四條畷(しじょうなわて)さん」

 ふたりのクラスメイトに、周囲を憚る小声で呼びとめられた。

「聞いたんだけどさあ、瀬池(せいけ)さんのことフッちゃったって、ほんとうなの?」

 好奇を含ませた、いたずらな声音を堪えきれないといった様子の物云いに、私は軽く嘆息をしつつ、

「ほんとうよ。それがどうかしたの?」

 よほど面食らったのか、ふたりは顔を見あわせ、

「どうかしたのって……、瀬池さんって人気あるし、狙ってる子も多いんだよ?」

 アイプチの二重まぶたを大きくして、片っぽが声を荒げる。

「どうしてって云われても、クラスがちがうからよく知らないし、そんなに興味もわかないし」
「でも瀬池さんが人気高いのは知ってるでしょ? そんなひとからせっかくコクられたのに、もったいない」

 なんでも瀬池と私はお似合いなのだそう。いったいどのあたりをくらべて私と瀬池をそう位置づけるのか、私には杳として知れないし、知る気もない。

「悪いけど、もういい?」

 スクールバッグを引っ掴んで、返事をまたずに教室をあとにする。ふたりがまだ話したりない欲求を醸してきたけれど、かまわずに背を向ける。
 まったく、興味をそそられない。私は昇降口へつづく階段を降りながら、どうしてこうもクラスメイトは退屈なのだろうかと辟易した。
 さいわいなことに学校での私は友人が絶えない。こちらからアプローチしなくとも、相手のほうから私を取り囲んでくる。これに関して云えばとても恵まれているとは思う。おかげで進級の際のクラス替えにあっても、お昼をともにしたりグループ学習の組み手に憂き目を見なくてよかった。けれど、いつも平坦でなんの刺激ももたらさない質問ばかりされるのには飽きてしまう。なんの香水を使っているのかだの、どのシャンプーがお気に入りかだの、どうだっていい。どのスイーツが好物で、どこのヘアサロンに通っているのだとか、知ってどうするのだろうか。真似をするつもりなのだろうか。ならば私の、他人の価値観に追随して、ほんとうにたのしさを獲得できるのだろうか。満足するのだろうか。
 瀬池に関してもそうだ。瀬池は学年のアイドルだというけれど、それは私以外のニンゲンが定めたことであって、私の本意ではない。私は別段、瀬池に憧れを抱いてはいない。瀬池と懇意でなくとも、ちっとももったいなくなどないのだ。
 駅はこの土砂降りのせいで、いつもより利用者が多い。傘もささず、ずぶ濡れの私を気遣ってか、年配の女性が離れて立ってくれた。自宅の最寄り駅に到着しても雨脚は変わらず、素肌に貼りつく制服や前髪が不快だったけれど、そのまま歩く。
 自宅へ近づくにつれ、秘めた欲望が鎌首もたげてくる。それは身体の中心からむくむくと、まるで幼虫が地上へ這い出ようと土を隆起させるかのごとく、ある意味で不埒な所作でもって理性を突き上げてくる。
 私には、他に意中の相手がいた。そのひと以外の相手など私には考えられない。そう強く思えば思うほど、家路を急く足取りは覚束なくなる。ふらふらと熱に浮かされ、意思薄弱で屋敷をめざす。
 門柱に設置されたインターホンを押すころにはすっかり火照ってしまい、帰ってきたことを云い示した際に温気ある吐息が漏れてしまった。古めかしい門扉が電動でゆっくり左右に開くのが焦れったい。早く中に入れて欲しい。ちょっと苛立った私は、エントランスで迎えに出た使用人に軽くあたってしまった。

「まったく、風邪をひいたらどうするの」

「申し訳ございません、お嬢様。しかし、お嬢様も悪いのでございます。なぜ車での送迎を拒絶なさるのですか」
「うっさいわね。私は電車で通学したいのよ。母は?」

 四條畷(しじょうなわて)家に奉公してンー十年。使用人の老紳士はしばし思案する素振りを見せ、

「一時間ほど前におでかけになられました」
「そう、なら暇ね。当然、お風呂は沸かしてあるんでしょうね?」

 もちろんでございます。左手を腹に添え、使用人は恭しいお辞儀で示す。

「すぐに入浴するわ。それと夕飯まで自室にこもるから、誰もこないでね」

 かしこまりました。ふたたび恭しいお辞儀をする彼にスクールバッグを放り投げ、私は浴室へ直行する。
 濡れた制服を脱ぎ、脱衣所のかごにダンクする。下着もはずし、両生類みたいだった私の身体からいっさいのストレスを取っ払うと、浴室の大きな鏡の前に立った。
 シャワーを浴びる前、私にはこうして全身を子細に眺める習慣がある。それはシミやほくろひとつない気品に満ちた肌や、ちょっと自慢に思っている乳房、健康的に上向いた尻などを再確認して悦に浸るためなどでは決してなく、ひとえに『あい』を感じたいからだった。
 私は、この鏡に映った人物をあいしている。鏡のなかの人物は私なのだけれど、それは私ではない。私は、鏡の自分を他人のような気がしていた。そこにいる私は生まれたときから勝手知ったる私であり、知らない私でもあった。
 たとえばその双眸を臨んだとき。私は目の前の私を、私と認識できなくなる。姿形は私でも、私によく似た知らない誰かに見つめられているのだった。
 こうして鏡と相対していると、私は興奮を抑えきれなくなる。この惚れ惚れするほど美しい均整のとれた身体に、劣情を覚えてやまない。この乳房や尻に触れてみたいのに、伸ばした手は蒸気に曇る硬質のガラス板によって跳ね返されてしまう。
 ため息。なぜこうも現実は儚いのか。

 ――私が他人として存在していたらよかったのに……。

 そんなこと有り様もないのに諦めは微塵も迫り上がってこず、歯がゆさばかりが募ってしまう。
 やむをえず。いつものように私は、私に似て非なる肉体を貪る夢想に耽った。
 まずシャワーできれいに曇りを払い、身体をピタリと押しつける。そうやって鏡の人物と乳房や太ももをこすりつけあい、その躍動を堪能する。舌を突き出すと向こうも舌を出してくるので、糸を引かせながら心ゆくまで絡ませ、ねぶりあい。果ては自らの身体に手を這わせて、恥態もあらわに求めあい。こうすると、相手も私にあわせて身悶えしてくれるからたまらない。
 じっくりしっかり、確かめるように、お互いを感じあい。鏡の私も私に夢中で、高らかに絶唱してくれている。クレッシェンド、アッチェレランド。
 行き止まりはいつも、立っていられない。浴室の床にへたり込み、しばらく死んだ瞳で見つめあった。
 我に返って、何事もなかったように入浴を開始する。蛇口をひねり、熱を帯びた全身にぬるめのシャワーでクールダウン。そうしてくまなく普段の私を取り戻していくと、おもむろに腰をかがめて。浴室用ラックにあるシャンプーに指を伸ばす。
 髪を洗おうと何度かポンプをプッシュしたけれど、適量を出すこと敵わなかった。中身が少なくなっているのだ。しかたない、水分で薄めて使おう。
 浴室を出たら使用人に告げなくちゃ。ドン・キホーテで大容量徳用シャンプーを買ってきておいてと。
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