第1話

文字数 1,993文字

「ねえママ。あの桜、明日には咲きそうだね」
「まだ早いんじゃない? テレビで週末頃って言ってたわよ」
「だってほら、頑張って咲かせようとしてるよ」
 当時幼稚園に入ったか入らないかぐらいの年齢だった僕が指した木を見ても、ママは訳知り顔で満足そうに微笑むだけだった。
「そうね。桜の木も、早く花を咲かせたいって頑張ってるのかもしれないね」
 そうじゃなくて、あれ……僕は言いかけたまま、口を噤んだ。
 それきり興味を失ったように視線を戻したママには、枝の上で動き回る沢山の小人の姿が見えていないのだと、気づいたのだ。
 生まれたばかりの青虫みたいに綺麗な黄緑色のワンピースと、同じ色の三角帽子を身に着けた、僕の小さな手にも乗るぐらいの大きさの小人達。見た感じは僕達と同じ人間みたいだけど、耳の先だけが指で摘まんだみたいにピンと尖っている。
 寒く冷たい風が止み、深い藍色の空が薄い水色に変わり始めた頃になると、裸ん坊の桜の木の上でひょこひょこ動き回る小人が見えるようになる。
 それが一体なんなのか、幼い僕には見当もつかなくて……あんまりにも誰も反応してくれないから、怖いオバケみたいに見てはいけないものなんじゃないかと、春を迎える度に僕は怯えていた。
 彼らの正体を知ったのは、小学校一年生の時。
 幼馴染みのえみちゃんと一緒に、たまたま学校の図書室で手にした『不思議なもの図鑑』という絵本で、僕が見た小人の姿にそっくりな絵が描かれていた。
〈ようせいははたらきもので、ちょっぴりイタズラずき。おとなにはみることができません〉
 あの小人達はようせいで、だからママには見えなかったのだ。
「これ、僕見た事あるよ。ちょうど今、桜の木にいるはず」
「本当? 行ってみよう」
 僕達は校庭の端に並ぶ桜の木へと走った。
 枝の上にはあちこちに小人達の姿があった。
「ほら、あそこにいる」
「見えないよ。本当にいるの?」
「いるよ。見てて。もうすぐ咲くから」
 僕が指差した先を、えみちゃんは興味深そうに目をしばたかせながら見てくれた。
 小人達は先っぽにふわふわした綿のようなものが付いた棒で、膨らんで薄っすら桃色に色づいた蕾をポンポンと叩いていた。
 ちょうど耳かきの後ろ側に付いてるような、あんなやつだ。
 鼻歌でも歌いだしそうな澄ました顔をして、ポンポン、ポンポンと、楽器でも演奏するような優雅さでテンポよく、楽しそうに小人達は働いていた。
 そのうち蕾もむずむずと身じろぎをし始める。
 くしゃみを我慢するパパの鼻みたいにむずむず、むずむずと震えたかと思うと、そのうち耐え切れなくなって、パンッとポップコーンが弾けるような音とともに花が開くのだ。
「本当だ。咲いたっ!」
 えみちゃんは歓声を上げた。
「見て、あっちもそろそろ咲くよ」
 むずむずする蕾を催促するように小人がポンポン叩き、堪えきれなくなった蕾がパンッと花開く。
 むずむず、ポンポン、むずむず、ポンポン……パンッ!
 むずむず、ポンポン、むずむず、ポンポン……パンッ!
 僕達が見守る目の前で、桜の木の上にどんどん花が広がっていく。
「すごいね、えいじ君。花が咲くのがわかるなんて。本当にようせいが見えるんだ」
「本当だよ。言った通りだろう?」
 得意げに胸を張ると、枝の上にいた小人の一人がふと気づいたように僕を見て、スルスルと木を降りてきた。
 僕を桜の木と間違えているのか、よっこいしょ、よっこいしょと服の折れ目に手足を引っ掛けながらどんどんよじ登ってくる。
 僕は絵本に書いてあった〈ちょっぴりイタズラずき〉という言葉を思い出して、少しだけ不安になった。
 小人は相変わらず澄ました顔をして、僕の胸のあたりを綿のついた棒でポンポンと叩き始めた。
 ポンポン、ポンポン。
 ポンポン、ポンポン。
 そんなところに蕾なんてないのに。
 一体なんのつもりなんだろう。
 されるがままに任せていたら、なんだか胸のあたりがくすぐったくてむずむずしてきた。
「どうかした?」
「ううん。別になんでも……」
 小人の姿が見えないえみちゃんに、ほらここにいるよと言いたい気持ちを僕はぐっと我慢した。
「ねえ、あっちの桜は? 向こうも見てみようよ」
 まさか僕が小人に襲われているとは思いもしないえみちゃんが、不意に僕の手を引こうとする。
 ぎゅっと手を握られた瞬間、僕の胸の中で桜の花が開くのと同じパンッという音がした。
 何が起こったのかとびっくりしたら、いつの間にか胸の所にいた小人の姿が無くなっているのに気づいた。それどころか、木の上にいた沢山の小人達も消えてしまった。
「すごいよほら、こっちも咲いてる」
 桜の木を指差しながら、えみちゃんが満面の笑顔を向けてくる。
 小人が叩いていた胸のあたりから、今度はドキドキという聞いた事の無い音が聞こえてきて、もう一度確かめてみたけれど、やっぱり小人はどこにも見当たらなくなっていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み