1話読み切り

文字数 1,451文字

 エレベーターに乗ろうとして、ボタンを押す。箱がちょうどその階にあるときは、これはラッキーとばかりに内心喜ぶ。ひとつやふたつ上もしくは下の階にあるくらいならいいが、それ以上離れた階でのろのろ各駅停車していると、結構イライラする。
 ボタンを押して扉が開けばよし。ところが、ボタンを押すと箱が動いてしまうことがある。あれはどういうことなのだろう、といつも不思議に思う。上の階と下の階にいる利用者が同時に押した場合、下にいる利用者は同じ方向に行くのだから、先に乗せたほうが合理的だし電力や時間の節約にもなるはずなのだが、残念ながらそうはならないようだ。もっとも、上の人が一瞬早く押したのかもしれないが。
 子供のころ、飲み物の自動販売機のボタンを両手で2カ所同時に押したら、飲み物がふたつ出てくるかどうか試したことがある人は多いだろう。しかし、当人はまったく同時に押しているつもりでも、好きなほうの飲み物を優先したいという無意識の願望や、利き手や筋力の差などの理由から、必ずどちらか一方を早く押しているものなのだ。まったく同時に押したとしても、ひとつしか選択できない仕組みになっているに違いない。
 エレベーターもそれと似ている。ただし、こちらは違う人間がそれぞれボタンを押すので、完全に同時に押すということは、あり得ないことではない。仮にそうなったとしても、きっとエレベーターはどちらかを優先するようにできているに違いない。それならなおさら、合理的なほう、つまり電力や時間を短縮できる近いほうの階を優先して然るべきなのだ。
 さて、1階から2階までの往復エレベーターで、今2階に箱が止まっている。1階でボタンを押すと、すぐ反応してワイヤーが動き、箱が下りてきた(現代は扉に小窓があるかシースルーなのでわかりやすい)。箱は無人のはずだから、わきによけている必要はない。扉の前で堂々と待った。ところが、人が乗っているではないか! 慌ててわきによけた。
 その人は腰が曲がった小柄な老婆で、杖をついている。動きがとても遅い。降り切る前に扉がしまりかけたので、とっさに扉の縁を押さえて開けてあげた。老婆はうつむいたまま無言で歩いていった。というより、足腰が弱っているわりに、上下動なしに滑るように出てきた、というべきか。振り向くと、もう姿が見えなかった。
 エレベーターは、信号を渡ってすぐのところにある。信号を待っている2分ほどの間も、箱が2階に止まっていることを示す表示板をずっと見て確認していた。
 移動するのは当然私のほうが速い。もし老婆のほうが一足早く着いていて、先にボタンを押したとしたら、私が押したとき箱はすでに下りはじめていたはずだ。
 まったく同時に押したとして、エレベーターが1階を優先した場合、箱にはだれも乗っていないはずだ。では、2階を優先した場合はどうか。女性はあの通り歩を進めるのが遅いので、箱に乗り込むまでに時間がかかる。私が1階でボタンを押したらすぐ下りてきたのだから、これも考えにくい。
 いずれにしても、あのタイミングで女性が乗れたのはどうしてだろう。まさか、何分も前にあらかじめ箱に乗り込んでいたのではあるまいか。そして、だれかが下でボタンを押すのを待っていた。いや、そこまでした(できた)なら、なぜ自分で「1」のボタンを押して下りてこなかったのだろう。
 どのケースを考えてみても、あの老婆の行動は説明がつかない。


                                      了
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