ふたり

文字数 1,564文字

 焚き火を前に、テントを背にして、僕はひたすら紅茶やら炭酸水やらを嗜んでいた。宵闇のどこかから鳥の鳴き声が聞こえてくる。梟ではない。昼間によく聞くような、繊細で甲高い声の鳥だ。
 そんな音のせいで僕は、瑠璃(るり)という女性の存在をふと思い出してしまった。二年ほど付き合っていた女性だ。お互い三十歳を目前にして、一時は結婚も真面目に考えていた。
 残りの炭酸水を勢いよく飲み干す。鳥の鳴き声に聞き惚れていた彼女の姿が、頑なに頭の中から離れない。

 昨年の別れ際を鮮明に覚えている。彼女は大粒の涙を流しながら、上擦った声で僕にこう言った。
「私には(ゆう)が全てだった。だからもし考え直してくれるなら、いつでも連絡して」
度重なる喧嘩の末、別れを切り出したのは僕だった。
「より戻すようなタイプじゃないことぐらい、知ってるだろ」
僕の中で破局は確実なものだった。だからこそ、中途半端に期待を残してはいけない。瑠璃のためにと思って突き放した。彼女の頬にはアイシャドウが涙と混ざりながら流れ落ちた。
「本当に人の心あるの?」
それまでに何度も笑いながら言われたセリフだ。もともと感情表現が苦手だったから。二人の間で定番だったセリフはこの時、怒りと悲しみに溢れていた。

 あれからずっと、瑠璃への罪悪感が付いて回っている。
 新たな空き缶を足元に並べ、次の何かしらを飲もうとクーラーボックスに手を伸ばした。するとそこで、一本のクラフトビールが目に飛び込んだ。今日の昼間、他所のキャンパーに言われペグハンマーを貸した後、そのお礼として貰った物だ。
 お酒は別れてから一滴も飲んでいない。人並みに酒好きだったが、どういうわけか飲む気が全く起きないのだ。恐る恐るそのビール瓶を手に取った。中に入っている微炭酸の液体がまるで呪いの財宝のように感じる。惹きつける力と脅し遠ざける力が同じ強さでそこにある。飲みたいが飲みたくない。鳥の鳴き声と焚き火の音が溶け合う。
 瑠璃はどうしているだろう。酷い振り方をした後、無事に立ち直れているだろうか。今もまだよりを戻したいと思ってくれているだろうか。この罪悪感を払拭できれば、無意識の戒めによる禁酒から解放されるかもしれない。
 いつの間にかビール瓶を左手に、携帯電話を右手に持ち、瑠璃に繋がる電話ボタンを押していた。
「もしもし?久しぶり。どうしたの?」
懐かしい声が聞こえる。鼻と喉の奥がきゅっと締まり、眼球が僅かに潤う。
「急にごめん。あの後、大丈夫だったかなと思って。元気にしてた?」
電話越しに彼女は笑った。
「元気だよ。私こそごめんね。子どもみたいに泣いちゃって」
変わらない優しい声色に安心感を覚えた。跳ねる火の粉が僕の背中を押す。
「また会いたい」
自分の口から出た言葉に驚いた。どこにそんな言葉が眠っていたのか分からない。少しの沈黙を挟んだ後、瑠璃は答えた。
「私…、婚約したの」

 そこから先の会話はあまり覚えていない。「それを聞いて安心した」とか「幸せになってほしい」とかを繰り返していたと思う。喪失感と安堵感が混ざり合った結果、清々しい気分が首の後ろを通り抜ける。今やっと、僕は失恋することができたみたいだ。
 ベストの胸ポケットから小銭を取り出す。瓶の栓を抜くと、苦くて甘い芳醇な香りが鼻周りを包み込んだ。ステンレスマグカップにそっと注ぎ、深く息をついてから一思いに流し込む。それから二杯目を注ぎ、たっぷり味わいながらさらに喉を鳴らした。飲めば飲むほどに感情が込み上げる。僕の知らなかった感情。無意識に蓋をしていた感情。酷く厄介で、無駄が多く、振り回してくる、それでもきっと何か大切なことを僕に伝えてくれる感情。

 焚き火の匂い、森の夜風、湖畔の波音、そして溶け出す感情。極上の肴が揃っている。鳥の鳴き声はもう聞こえない、静かな静かな夜だった。
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