第2話

文字数 1,826文字

「やぁやぁ、こんな時間に迷子かな!?」
 やたらと明るい声を響かせながら、その男は現れた。
「……お前こそ、何だよ。こんな時間にこんなところに、そんなテンションで。うぜぇ」
 身なりについてもツッコミたかったが、面倒でやめた。
 男の格好は、ひらひらとした襟が大きい白シャツに、下はグレーのスウェット。披露宴の二次会から帰ってきた新郎が、とりあえずスラックスだけ履き替えたみたいなアンバランスさだ。
 人がどんな服装を好んでしようと、興味はない。ただ、ここはバス停だ。
 今から出かけようとしている出で立ちには見えないし、第一、周りを畑といくつかの戸建てに囲まれたこんな田舎町の、こんな夜更けに、運行しているバスはもうない。男が何をしにきたのかが、いちばん気になった。
 男はベンチに腰を下ろし、ぐいぐいと間合いを詰めてきた。
「愛想がないねぇ。でも、僕は、そういうタイプに俄然燃えてしまうタチなんだよ。どこからきたの?」
「ぬぅあぁあ、ひっつくなよ、気色悪い。お前こそ、どこからきたんだよ」
 足音は、しなかったと思う。
 街路灯は一つで、ベンチと時刻表を照らす明かりはささやかだ。でも、月が、高い位置から、透き通った神々しい光を注いできている。建物からも、向かいの道端に茂る雑草からも、うっすら影が生まれるくらいには明るいのに、近づく男の姿にまったく気がつかなかった。
「僕がどこからきたか、気になるかい? 僕は、空からきた。天使だ」
 真上を指さしながら、男は言った。とっくに暗さに慣れた目に、男の満面の笑みは、細かな目尻のシワまで見えた。
「君があんまり悲しそうだから、ついお節介を焼きたくなって、降りてきたのさ」
「なるほど。やっぱり酔っ払いか」
 そうとしか思えない。
 そうなると、二次会上がりの新郎という読みは、案外的を射ていたのかもしれない。近所の家から、ふらりと酔い醒ましに出てきたのだろう。こちらの存在に気づいて、死角を通ってきた可能性はある。そのわりには、口元から鼻をつくアルコールの臭いがしないが、口臭を抑える方法なんていくらでもあると聞いている。
「知らないかな? 三日月の夜には、あのなだらかなカーブを滑って、天使が降りてこられるって話」
「酔った人間は、面倒で嫌いだ。あっちへ行け」
「邪険にするねぇ。知らない人に気を許すな、なんて厳しくしつけていた人間がいたのかな」
 一時言いよどんでから、嘘をつく理由が思い当たらず、素直に答えた。
「……お父さん」
「ふむふむ。じゃあ、僕は君の質問に答えたから、今度は君の番だね」
「お前、オレの言葉がわかってんの? なら、オレは今答えたじゃんかよ」
「もちろん、ちゃんとわかっているさ。さて、遡っていくことにしようか。どこからきたの? 家出じゃないだろうね? 赤毛の少年」
 男は調子よくそう言うと、スウェットの尻を浮かせて、ぼりぼりと掻いた。
 正直、少し驚かされはしたけど、男の本音は、興味なんてない、が実のところに決まっている。暇だし、酒の勢いもあって、目につくものに絡みたくてしかたないのだ。これだから、酔っ払いは。
「おやおや、黙秘か!」
「うっせぇ、もう少し声のボリュームを落とせよ。何時だと思ってんだ」
 思わずヒソヒソ声で注意すると、男も同じように声の音量を抑えた。
「実は、すぐ帰るつもりだったから、時計を持ってきていないんだよね」
 ずいっと真剣な顔を寄せてきて、内緒話でもするかのように言う男の肩を、両腕を突っ張って押し返してやる。
「そんなもんに頼らなくたって、月の位置を見れば、だいたいわかるだろ」
「お利口だねぇ」
「うっせぇ。スウェットの尻、食いちぎるぞ」
 威嚇されているのにもかかわらず、男は自分の肩に伸びていた腕を取り、眺めながら、寂しそうな瞳と声音で言った。
「……ずいぶん汚れているし、疲れているねぇ。かなり歩いたと見える」
 月に薄い雲が触る。柔らかな温度の男の手を振り払った。
「……放っておいてくれ」
「放っておけたら、僕は今ここにいないんだな!」
「静かにしろよ、頼むからっ」
 起きてきた誰かに見つかったら、厄介だ。
 視線を落とせば、雑草や泥で汚れた自分の足。昨日は雨で、ぬかるみがひどく、こびりついてしまった。急に、気持ちがしゅんと萎む。威勢のいいことを言っても、本当は、もう一歩も動けずにいた。明日の朝には、また歩き出さなくてはならない。今夜はここで休むつもりだった。

 だけど、見上げた月が、とてもきれいで。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み