第1話 新吉原の遊女の恋

文字数 1,935文字

 新吉原の太夫(たゆう)が、恋をした。
 それも金も地位もない、貧乏学生に。

 明治二十年の春の日。
 新吉原の太夫おろくは明るい内からそわそわとしていた。
「なんです、角海老(かどえび)の太夫ともあろう者が」
 遣手に叱られ、おろくは顔を赤らめた。
 角海老は新吉原で最も格式の高い妓楼(ぎろう)だ。
 その太夫でありながら、おろくは一人の男に恋をしていた。
(今日来てくださるのよね……知泉(ちせん)様)
 愛しい人からの手紙を取り出し、おろくは夜になるのを心待ちにした。

 おろくの待ち人は政治家でも実業家でもない、古びた褞袍(どてら)を着た貧書生(ひんしょせい)だった。
「久しぶりだね、おろく」
 知泉は水戸から上京してきた学生で、碌堂(ろくどう)の筆名で新聞に寄稿したり、才はあるものの何の後ろ楯もない、ただの貧乏学生だった。
 おろくは客としてやってきた知泉と恋に落ちた。
 貧乏学生の知泉に、豪奢(ごうしゃ)に遊ぶ金はない。
 部屋で都々逸(どどいつ)を歌うくらいがせいぜいだったが、おろくにとっては何よりも楽しい時間だった。
「ずっと夜が明けなければいいのに」
 知泉の言葉に同じ気持ちのおろくは胸が締め付けられる思いがした。
 知泉におろくを落籍するような金はないし、おろくの年季もまだ先が長い。
 次がいつ会えるかもわからない、そんな恋だった。

 ある日、おろくに落籍(らくせき)の話が来た。
松方幸次郎(まつかたこうじろう)さんがお前を欲しいそうだ」
 薩摩(さつま)の松方の次男・幸次郎は角海老の上客だった。
 金もあるし、地位もある。
 妻のある人だから(めかけ)にということなのだろうが、今年二十四になるおろくにとって悪い話ではない。
 しかし、おろくは自分の恋心を捨てきれなかった。
「考えさせてください」
 すぐに断るのは悪いので、おろくは保留しておく形にした。

 翌日、花柳界(かりゅうかい)で有名な記者・福地桜痴(ふくちおうち)が角海老にやってきた。
 外での知泉のことが知りたくて、桜痴にそれとなく聞いてみた。
「知泉なら知ってるよ。新聞に寄稿してる東大生だろう」
「ご存じなのですか?」
 著名な文筆家が知泉を知っていると知り、おろくは嬉しくなった。
「ああ、吾輩(わがはい)が世話してやった末松(すえまつ)がこの間、会いに行っていた」
「会いに……?」
「ああ。末松は伊藤博文公の娘婿だし、伊藤さんの未婚の娘の婿にと、白羽の矢が立ったのかもしれない」
 喜びの気持ちが一気に急転直下したが、遊女たるもの顔に出すわけにはいかない。
 話を聞かせてくれたことに感謝を伝え、おろくは涙をこらえて一生懸命顔を作り、その日をやり過ごした。

 知泉は、あれから一度も来ていない。
 元々、知泉に新聞の寄稿料が入ったり、まとまったお金が出来ないと会えない関係だ。
 日があくのはいつものことだったが、伊藤博文の娘婿になるかもしれないという話を聞いた今、おろくは気が気でなかった。
(でも、これでいいのかもしれない……)
 長州閥(ちょうしゅうばつ)の娘婿になれば出世の道も開けるだろう。知泉にとって、それはまたとない話だった。
 そもそも花街の女が本気の恋などしたからいけないのだ。
 おろくはそっと涙を拭った。
 きっともう会うことはない。
(こんなことならあの日……もっともっとそばにいれば良かった)
 知泉が最後に来た日を思い出しては、おろくは涙にくれた。

 もう顔を見ることもないだろう。
 おろくがそう思っていた知泉が、ある日突然、角海老を訪ねてきた。
 知泉が店に入る様子を見たおろくの胸は早鐘を打った。
(まさか来てくれた? それとも、結婚の報告? 今夜が最後の……)
 別れを告げに来たのかもしれないという悲しみと、一目会えるならうれしいという気持ちがまぜこぜになりながら、おろくは知泉を迎えた。
「おろくに話がある」
 それまでにない真剣さで知泉はおろくを見つめた。
「僕と一緒になってはくれないか」
 目を丸くするおろくに、知泉は事情を説明した。
「新しい新聞社の主筆(しゅひつ)を任されることになって手付金をもらったんだ。伊藤博文公の駙馬(ふば)である末松さんという方が、君の文才を見込んで是非にと言ってくださって」
 思わぬところで先日聞いた末松の名前が出てきて、おろくは目を丸くした。
「末松さんという方は知泉さんを新聞社にと……?」
「うん。学生の身には過ぎるほどの話だ。僕は大学を辞めて東京新報という新聞社を作る。新聞社を作るに当たってお金をいただいたから、楼主にはそのお金でおろくを落籍(ひか)したいと話してある。その、順序があれだが、後はおろくが、うんと言ってくれたら……」
 自分だけが先走った気がしてきたのか、段々と知泉の声が小さくなる。
 同時におろくから見る知泉の姿が段々と滲んできた。
 嬉しくて眼に涙が溜まったのだ。
「はい。……はい、もちろんです、ありがとうございます」
 これが後に陸羯南(くがかつなん)徳富蘇峰(とくとみそほう)と共に明治の三大新聞人と言われた朝比奈知泉(あさひなちせん)と、その恋女房(こいにょうぼう)の結婚までのお話である。
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