01

文字数 3,359文字

 それからの生活は、堕落を極めた酸っぱさと、それでいて砂を噛むような味気なさの中で過ごした。あの女を失ってからはまさに口中に砂を注ぎ込まれたかのような嫌悪があり、その違和感はしばらく続いた。俺という人間はどうしてこんな性格をしているのだろうかと思い悩みもしたが、そうしたことを考えるのもまた一種の逃避であることに気付いてからは思考の中に逃げ込むような真似はできなくなってしまった。それでいながら一日に何度かはあの女のことを思い出し、そうしてするすると現実から退却していくこともあり、やがて生い茂った雑草の他に何もないという草原へ辿り着くところまで行って、そこから引き返してくるというようなことを繰り返した。
 この草原は一種の原風景とでも言うべきところなのだろうか。そうしたものが持てることは一般的には幸福なことだと言えるのかもしれないが、俺にとってはどうしようもないくらいに何もないところで、その先に何かがあるかもしれないという予感を覚えながらも、進むことをせずにただ引き下がるばかりだった。草原にしてみれば俺の敵意は一種の八つ当たりに過ぎないのだろうが、そうした心の中の風景を擬人化してしまうような思考というのは、流石に苦笑せざるを得なかった。そんな癖がついてしまったのは、俺がどうしようもなく他人を憎んでいるのと同時にどうしようもなく他人を愛していることからくるのだろう。少なくとも俺はそう思っている。
 あの女と出会ったのは随分と昔になるが、より親密な関係になったのはお互いに三十代を越えたばかりの頃だった。そのくらいの年齢になると、様々な経験を経たことによる充実感の代償として倦怠感が忍び寄ってくるもので、特に恋愛事になると一連の儀礼的な駆け引きというものを取っ払って行き着くところまで行くのだが、しかしそれを恋愛事と呼ぶのは不適当かもしれない。食事をするように、また睡眠をとるように、あの女を腕の中に収めたことを覚えている。それを恥じるような年齢でもなくなったというのに、何度そうした経験を重ねても虚無感というのは一向に立ち消えていくことはなく、俺は一体いつまでこんな虚しさを感じなければならないのだろうと思いながらも、やはり何度も同じことを繰り返さずにはいられなかった。
 五年ばかりの関係を続けて分かったのは、そうした虚しさを抱えるのは男ばかりではなく女も同じだという当たり前のことで、俺はこの人生で何度もそのようなことを体験してきた。つまり、当たり前のように知っていることを頭でようやく理解するといったことを。そうした意味ではあの女との時間は無意味ではなかったし、他愛ないことで笑いあったりお互いの感情を共有し合うという平凡な楽しみも味わった。
 しかしそこには、どうしても拭い去ることのできない感情が伴っていた。それは、憎しみだった。
 いや、別の言葉で表すならば軽蔑かもしれない。その方がより正確に俺の心理的状態を表しているように思える。しかし、やはりあの女に対しては憎悪を抱いていたのだろう。深い関係を結んだ相手に対しては憎悪を、より一般的な他人に対しては軽蔑を、それぞれ抱いているのが俺という人間なのだ。そうした事情を理解したある瞬間からは、俺は軽蔑を抱ける人間以外を周りに寄せ付けなくした。そうやって歳を経た末に必然的に生まれた孤独は、俺という人間の心理的荒廃を表しているのだろうか?
 いずれにしても、俺は孤独な人間だった。



 あの女と別れたのは、ある五月のことだった。五月に別れるなんて小洒落た真似をしたのはわざとでも何でもなく、破綻が五月に降ってきたというだけのことだ。それを破綻と呼ぶのと、そして降ってきたという言い方をするのとが、相応しいことであるかは別として。あの女との間に子供はできなかったので、弁当箱にでも収まりそうなお互いの資産だけを持って家を引き払い、それからは築十何年かのマンションに暮らしている。
 あの女。俺はあの女と呼ぶ。その呼び方をどう捉えるかが問題かもしれない。言っておくが、俺は便宜的にあの女と呼んでいるだけのことであって、そこに嫌悪や憎悪などは存在しない。あえて言うなら、軽蔑は含まれているかもしれない。しかしそれも人並みの感情であって、例えば近しい間柄になった他人との間に生まれるささやかな諍いの域を出ない。人付き合いにおいて相手を尊敬し合えるというのは、想像以上に難しいことなのだ。
 人生講釈をしたいわけではないので、話を進める。五月に妻と別れた俺は、それからの日々をつい買い過ぎた果物を消化するのに困り果てたり、じりじりと忍び寄る台風に備えたり、そうしたことをしながら過ごした。九月を迎えたのはあっという間のことだった。時代の流れは少しずつ早まっていくようで、そうでなければその数ヶ月の時間の経ち方を説明できない。物悲しい季節だ、秋というものは。その物悲しさは気温の低下や日照時間の短縮に伴って強まっていくようで、そして同時に時の流れものんびりとしていくように感じられた。重いものほど、運動は遅いものだ。
 孤独か、孤立か。いずれにしても俺はそうした感情の只中にいて、一人の生活というものを満喫することもできずに、一人きりのベッドが広く感じられた。別れるよりもずっと前から妻とは同衾していなかったのに、そんな気分が這い寄ってくるのは何故なのだろうか。一人で暮らすには少し広すぎたマンションの一室が、そんな気分をもたらすのかもしれない。一つを居間にして一つを寝室にし、もう一つを物置にした。書斎なり趣味の部屋なりを設けなかったのは、俺にそうした嗜好品の楽しみを知らなかったせいでもあるし、若い頃のような物欲からは解放されたせいでもある。物置には主に季節の外れた衣類を置いて、何が入っているのかすら覚えていない段ボール箱を重ねていたりしたが、その中身は結婚していた頃に使っていた何かを入れていたのだろう。それを確かめる気力すらなかった。必要に迫られて物置を片付けなければならなくなったときにも、もう中身も確かめずに処分してしまった。後々の話だが、どこから湧いてきたものやら知れない知識欲が、この世界の一角を占めていたその中身を知ることはもう二度とできないなどと、そんなことをささやいてきたりもした。それでも焼かれるなり潰されるなりしたそれらの物品に対する後悔を持ち合わせているほど、俺の感受性は繊細にできてはいなかった。
 さて、新しくやって来た九月はどこかの九月の再生で、着るものも食べるものも家の中の装いも、いつかの秋を迎えたときとまるで変わり映えがしなかった。実際には大きく環境が変化したのだが、暮らす場所が変わっても市外や県外へ出たわけではなく、俺にとっては交通の便が良いか悪いかというくらいの関心しかなかった。着るものは次第に世代交代をしていくかもしれない。だが、職が変わったわけではないので生活レベルが大きく変動するわけではないから、食事に影響が出るはずもなかった。政府による富の再分配が適切に行われていくのであれば、俺の食事も隣近所の食事も、彼方の都道府県の見知らぬ誰かの食事も、きっと似通ったものになるだろう。
 再生するのは季節だけではなく、生きる欲もそうだった。食事の話をしたが、それは自然に性の話へと通じる。女を誘い、ホテルで欲求を満たすことも少なくはなかった。とは言っても離婚したばかりのたった数ヶ月の間のことだから、そんな経験も片手で足りるくらいのことだった。ただ、ここで重要なのは回数の問題ではない。その行為を行う場所だ。俺はどんな女を誘うにしても、必ず慎ましやかな新居へ連れ込むことはしなかった。それは俺なりの潔癖なのだろうか。何がその心理を生むのかは分からないが、推測するに自分の空間へ入ってこられるのがどうしようもなく嫌なのだ。それはどうして離婚をしたのかということにも通じるのだろうと思う。身勝手な話だが、それが、それこそが俺という人間の根幹なのだ。だから憎悪をしない代わりに軽蔑をするのだ。
 俺という人間の根幹を成すものとしての軽蔑。それだけを分かってもらえたなら、もうここで語ることはない。長話が過ぎたが、そろそろ物語を進めていこう。
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