ベンチに座る先生

文字数 4,183文字

 此処はそんなに大きくない街の中。此処は近所の仲もそこそこ良く治安もいいと言われる、自然豊かな街だ。朝は学校に通う児童生徒の話し声とともに空では雀が飛び散っている。
 そんな街の一角にたくさんの人が良く集まる少し大きな公園があった。そこは小さい子が遊具で遊ぶこともできる、大きくなってもちょっとした広場として集まることもできることで有名で、またこの公園のなかで最も古いベンチから夕陽が綺麗に見えることから、「夕方公園」と名付けられていた。
 そんな夕方公園の比較的新しいベンチに、ある蒸し暑い日の朝から、白いノースリーブのワンピースにグレーの羽織を羽織った、麦わら帽子の美しい女性がよく座るようになった。突然現れた彼女の名前など誰も知らないけど、とにかく公園で遊ぶ子供たちの面倒を見ていたり、一緒に遊んで泥だらけになって帰っていくのを見た近所の人達は安心しきっていて、夏の暑くなってきたころには子供を見てもらう代わりにアイスや炭酸飲料などを彼女に差し入れする大人も増えていった。
 そんな様子を見ていた子供たちは彼女のことを"先生"と呼ぶようになっていった。
 そして当たり前だが、この夕方公園は中高生も集まることが多い、春頃はいなかったはずの子供もこの頃には現れるようになった。入学したばかりの子たちが学校生活にも慣れ、此処で遊ぶようになっていたのだ。
 この日もまた暑く、"先生"はパピコをひとセットとある家族からもらい食べていた。すると高校生くらいの子が公園のベンチに座って何やら一生懸命何かを描き始めた。
 先生はこの子のことをよく見かけることがあった。彼女もまたここ最近この公園に現れるようになったこの1人で、ただ周りの子と違うのは1人でいることだった。いつも公園の隅の方にいて、何かを一生懸命書き写しているのだ。
 先生は彼女の事を見かけるたびに、何を書いているんだろうと不思議に思っていた。この日はこの暑さの中流石にパピコ日本は食べられないので、彼女に差し入れするつもりで近づいた。
「ねえ君、何書いてるの?」
 すると彼女はゆっくりとこっちを向いてスケッチブックを手渡してきた。
「見てもいいですよ、特に何も面白いものはないけど」
「ありがとう。あ、これ食べない?」
「あ...いただきます」
 先生はいつものベンチに座り、パピコを片手にスケッチブックを開いた。アイスについた水滴でスケッチブックを汚さないようにハンカチでアイスを包みながら、また手をハンカチで拭きながらと先生は器用で、その横にいる彼女は両手で冷たそうにアイスを持っていた。
 スケッチブックの中にはいろんな種類の花が描いてあった。花だけではない、この本の最初の方にはたくさんの人の似顔絵のようなものが描かれていた。いま彼女が使っているのはスケッチブックの最後の方のようで、書きかけの木槿の蕾が三つほど描かれていた。
 黒い鉛筆の細い線で描かれたその絵は、どこか冷たかった。
 逆に最初の方に書いてあるたくさんの人の絵。この絵は木槿の蕾のような上手さはないものの、どこか暖かく、そして見ていて楽しそうな雰囲気があった。
 この絵のモデル達は、この子の友達だろう。いつか会ってみたいな。なんて先生は考えて。いつのまにか夕陽が沈みそうな時間になっていた。
「あ、ごめんね、ありがとう」
 先生は彼女にスケッチブックを返しながら
「この人達は、杏ちゃんのお友達?」
 杏、と自身の名前を名乗ってもいないはずなのに呼ばれた彼女は驚いた。先生は笑って続ける
「あ、ごめん。スケッチブックに名前が書いてあったから」
「...そうなんですね。はい、この子達はわたしの友達たちです。もう会えないけど」
「あら、どうして?」
「...転校です。こっちに来る前の友達だから、本当は卒業まで一緒にいたかった」
 すこし寂しそうにそう言った後、杏は立ち上がりながら
「パピコご馳走様でした。また書いたら見せますね」
 と優しく微笑み公園から出ていった。
 気がつくと周りはもう人気が薄くなっていて、残っているのは数名の大人と砂場で遊ぶ子供達...おそらく先生の観察によるとママ友とその子供達だけになっていた。
 先生は絵が描きたくなったのだろう。木の棒を持ってきて地面の砂に絵を描く様に線を引いた。しかし絵のセンスが皆無な先生はそのばに犬の様な何かを書き残して、迎えにきた車に乗り帰った。
 彼女は晩ご飯の準備をしながら杏のことを考えていた。
 あの話し方からすると、今は中学、もしくは高校三年生なのだろう。見た目から行くと中学三年生だ。何かの都合で引っ越しをしたらしいがいじめなどがきっかけではなく、親の事情なのだろう。スケッチブックの名前のところに、「一条杏」の"一条"が赤いペンで消されて「坂本杏」となっていた。
 また彼女の絵の中に4人の子供達の笑顔が描かれたページがいくつかあった。おそらく男子2人、女子2人、うち1人は杏自身だろう。よく似ていた。そしてきっとその4人は仲が良かったのだろう。その絵の中の子供達の腕にそれぞれ何かブレスレットの様なものが描かれていたが、あんずのの腕にオレンジ色のすこし擦り切れたミサンガが結ばれていたため、相当仲が良かったと見える。
 フライパンの上で2人分の目玉焼きが焼かれている。コンロの火を止め皿に移すと、「上出来」と呟いてから食卓に運ぶ。今日の晩ご飯はすこしおしゃれに仕上がった。
「そうだ」と食卓に座るなり先生の向かい側の席に座る男性が声をかけた。
「来月末転勤の予定が早まって、今月末になった。悪いけど、引っ越しの準備を進めてもらえないか?家の手続きは俺がしておくから」
「うん、大丈夫。明日また公園に行ったら後は準備するね」
 
 翌日、先生は公園でうたた寝をしていた。昨晩は同居している男性と引っ越し後の話で寝るのが遅くなってしまったのだ。
 意識が朦朧としているなかで誰かが先生の方を叩く。その振動で気がつき目を開けると杏がそこにいた。
「これ、先生に見て欲しくて、持ってきました」
 そこには古い一冊のスケッチブックがあった。ゆっくりと開くとそこには大きな建物やたくさんの人、長い廊下の絵などが書いてあった。おそらく前の校舎の絵だろう。
 そのスケッチブックには「一条杏」と言う名前が書いてあり、消されていない。他人の家庭事情を覗いてしまう自分の悪い癖にすこし失笑しつつ、彼女はページを開いた。
 とあるページで先生は手を止めた。そのページには桜の木と校舎の絵が描かれていた。鉛筆の線だけで描かれているのにここまでわかるくらいには上手な絵で、ただそれ以上に驚いたのが、その校舎を描いた線の内側に、たくさんの文字が書かれているのだ。
「手術頑張ってね」「絶対また会おう」そう言った励ましのメッセージ達。驚いた先生は目を開いた。だって、杏はどう見たって健康で明るい女の子なのだ。
「杏ちゃん、聞いてもいい?このメッセージは...」
「...ああ、それはわたしへのメッセージじゃないんです、わたしの双子の桃へのメッセージです」
 杏は一度深く深呼吸をしてから続けた。
「桃は肺癌を患っていて、このメッセージを書いたのはわたしがこっちに来る半年前だったんです。みんなで桃を応援しようって事でしきしの代わりにこれを用意していた時に、まだ手術まで2日あったはずなのに、桃は急に...」
 そう言った杏は涙を目に浮かべていた。先生は言葉を見つけることができなかった。
「なんでだろう、昨日先生に声をかけられて、あの絵を見せてから桃のことを思い出して、一回誰かに話してしまいたいって思う様になって。ごめんなさい急に」
「あ、いいえ、ありがとう。ね、もうひとつ聞いてもいい?」
 杏は首を縦に振ったので先生は続けた。
「どうして、写真じゃなくて絵を選んだの?」
 今の時代、こうやって似顔絵を描くよりも写真に移してしまった方が簡単だし、的確なのに、杏は一生懸命絵を描いていた。何か理由があるのか、それともなんとなくなのか。昨日から気になっていたのだ。
 杏は少しだけ間を開けた。ためらったわけでも、考えたわけでもなく、あふれた涙と嗚咽で言葉を話すことができなくなっていた。その様子を見ていた先生も、ほんの少し涙が溢れていた。
 少ししてから、杏はポツリと話し始めた。
「...前の学校、すごく小さくて、一学年一クラスしかなかったんです。そんななかで桃は2年の初めからずっと入院してて、先生の撮る写真にはいつも、クラス全員の顔が映ることはなかった。
 昨日見せたスケッチブックにも、このスケッチブックにも。全員の集合写真が書いてあります。その中には桃がいる。
 桃と仲が良かった友達と一緒に、そこで笑ってる桃がいる。これは、絵じゃないとできないから」
 別にその絵の人たちと彼女達がどんな関係だったかはわからない。恋人同士だったのか幼なじみだったのか、はたまたただの級友だったのかもしれない。そこにはあまり興味は無かった。
 しかしこの絵を見ていると、杏はきっといつも友達に囲まれていたのだろう。きっと体が強ければ、桃も杏と一緒に。先生はそれが羨ましかった。
「先生、また絵を見せてもいいですか?」
 そう言われた時、先生はあんずの目を見て
「私はね、よく転勤をする、働き者の旦那を持っていて、それに合わせてよく引っ越しをするの。今月末、また引っ越すから、明日から荷造りしなくちゃいけなくてね。ごめんね」
 先生は何も考えず、ただ思ったことを言うしかできなかった。
「大丈夫。引っ越しても引っ越しても、どこに行ってもそこに待っているのはいつも、新しい生活と新しいお話だけだよ」
 今度は先生が先に立ち上がる番だった。杏にスケッチブックを返し、笑顔で手を振った。
 立ち上がったのは、迎えの車が来たのに気がついたから。最後にそう言ったのは、何度も引っ越しているなかでいつも何かしらの物語を聴いてきたから。
 ベンチに座る先生、彼女は転勤族の嫁で専業主婦の、少し変わったお話好きなお姉さん。彼女をよく知る人、彼女の旦那はどんな話でも聞いてくれる「お話し屋」と呼んでいた。
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