第1話

文字数 3,209文字

 通り雨だと思う。
 久しぶりに定時で上がれたので、スーパーでビールとおつまみを買って帰る途中、いきなり雨が降り始めた。
 雨脚は強くなり、アスファルトに弾かれた雫がこちらに向かって飛び散る。
 扉に「本日休業」と書かれた札がぶらさがっている店の前で、雨宿りをするが、勢いのある雨を完全に避けることはできない。
 今日に限っていつもと違い、高いヒールを履いてきた。アパートまで徒歩十五分。走れば十分で着くかもしれないが、ヒールで走るのは賢明ではない。
 今日の天気予報は晴れのち曇り。雨ではなかった。降水確率は二十パーセントで、雨が降るはずではなかった。
 だからすぐに止むだろう。

 そう考え、しめったシャツでパタパタと扇ぐ。
 早く服を着替えたい。家に帰ってビールを飲みたい。
 折角定時で上がったのに、これでは仕事のきりが悪く残業したときと帰宅時間が変わらない。
 私は我慢ができず、ビニール袋から缶ビールを取り出した。
 プシュッという良い音がして、これこれ、と自然と口角が上がるのを感じながら喉へ流し込む。
 コマーシャルを見て、飲みたいと思っていたビールだ。同僚が美味しかったと言っていたので、飲むのを楽しみにしていた。
 このまま雨宿りしていたらビールは温くなり、美味しさは半減する。冷蔵庫で冷やす時間が惜しいので、帰ったらすぐ飲もうと決めていたのだ。
 ぷは、と中年男のような反応をしていると、隣に誰かやってきた。
 夕方から外で缶ビールを飲むなんて非常識な女だ、と思われていないだろうか。
 急に人からの目が気になり、隣に立った人間をちらっと盗み見る。

 視界に入れた瞬間、全身が黒いなと思ったがそれもそのはず、詰襟姿の男の子だった。
 横顔は幼すぎず、大人すぎず。恐らく高校生になったばかりだ。
 背負っているのはスクール鞄で、校章が刺繍されている。その校章を見てピンときた。この高校は知っている。
 「この時代に通学鞄が指定だなんて、あり得ない」というクレーム殺到し、保護者に勝利した高校である。
 どうして詳しいかというと、うちの会社はこの高校の職場体験を受け入れているからだ。
 総務部の同僚が愉快そうに通学鞄騒動を教えてくれたので、覚えている。

「あの、何か」

 じっと見すぎたからか、男子高校生は眉を寄せている。
 正面から見ると、可愛い顔をしている。
 幼さが拭いきれない。

「なんでもない」

 気まずくなったのでビールを一口飲む。やはり美味しい。
 ごくごくと半分程飲んでところで、視線を感じた。
 隣を見ると、男子高校生がこちらを凝視している。

「何か」

 今度は私が言う番だった。

「……別に」

 あまり良い顔をしていない。
 そして男子高校生の視線をたどってみると、私が持っている缶ビールに注がれていた。
 もしかして、危険な酔っ払いだと思われているのだろうか。
 ビール半分で酔うほど弱くはない。
 酒の弱い女だと思われ、むっとする。

「これくらいじゃ酔わないから」

 缶を軽く振って言うと、高校生は目を丸くした。
 あ、その顔、可愛い。
 そんな感想を抱き、自分を殴りたくなる。
 男子高校生相手に、本気で可愛いと思ってしまった。これはセクハラになるのではないか。
 世間から白い目で見られる案件だ。
 断じて、邪な思いを抱いたわけではない。
 犬を見て可愛いと思うのと同じだ。決して下心があったわけではない。

「いや、そういうんじゃなくて」

 呆れた顔をされ、さらにむっとする。

「じゃあ何よ」
「別に」
「別にじゃないでしょ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」

 言いたいことがあるのに、それを匂わせるだけではっきりものを言わない人間が嫌いだ。
 言う気がないのなら、匂わせもしないでほしい。

「……こんなところでビール飲むのは、どうかと思います」
「はぁ?」

 これだから子どもは。
 社会に出れば分かる。一分一秒がどれだけ大切か。会社に八時間以上も拘束され、退勤後はスーパーで少しでも安い惣菜を見つけ、家に帰って洗濯や、残っている家事をする。そうすると、自分の時間なんてなかなかとれない。
 その時間を、今ここで回収して何が悪い。

「養われる側にはわかんないわよ」

 言ってから少し後悔した。
 もしこの子に弟たちがいて、女手一つで育っているのなら、この子は毎日家事をして家族のために尽くしているはずだ。それを私は、家庭環境なんて微塵も分からないのに、養われていると決めつけた。

「いや、俺が言ってんのはそうじゃなくて」

 今まで以上に呆れた表情で、指をさす。

「それ、いいんですか?」
「それ?」

 高校生の人差し指の先と視線の先。
 そこには、私の名前と会社名が入っている名札があった。

「え!」

 そういえば、今日は終業前に取引先の客がきた。
 普段は名札をつけないのだが、担当が変わり、初めて会う人なので一応名札をつけたのだ。
 名札をつける習慣がなければ、外す習慣もない。
 首から下げている名札の存在を忘れ、今に至る。

「うわぁ、恥ずかしい」

 急いで名札を鞄に入れる。
 会社はここからすぐのところにある。そして割と知名度が高い。そんな会社で働く女が缶ビールを飲みながら雨宿りをしている。恥ずかし気もなく名札をつけて。
 そりゃあ、この子もびっくりしただろう。

「教えてくれてありがとう」
「別に」

 羞恥よりも、粗相をしていなかったか記憶を手繰り寄せる。
 スーパーではいつも通りだったし、嫌な態度をとった覚えはない。
 問題はないはずだ。

「あ、雨止んできた」

 高校生が言ったとおり、雨脚が弱まってきた。
 やはり通り雨なのだ。
 傘を持たず、私たち同様に近くで雨宿りをしていた人たちが、これくらいならいけるとばかりに外を走り始めた。少しでも早く帰りたいのだろう。スーツ姿の男や、オフィスカジュアルな女が家を目指している。その気持ちはよくわかる。
 私もそれに続こう。
 飲み干した缶ビールを、隣にあった自動販売機のごみ箱に捨てる。

「お姉さん、もう帰るの?」
「うん。あなたも帰れるときに帰りなよ。もしかしたらまた降ってくるかも」

 空を見上げると、雨は上がっていた。雨なんて降らなかったような、良い天気だ。
 これから歩いて帰っても大丈夫だ。
 その場から立ち去ろうと一歩踏み出すと「明日」と高校生の声がした。
 振り返ると、高校生はふっと笑みを浮かべていた。

「明日、よろしくお願いします」
「明日?」

 何のことだと首を傾げる。

「明日から、その会社に職場体験に行くことになったので」
「え、そうなの? 君、何年生?」
「高校二年生です」

 一年生だと思った。とは言えない。
 それに、職場体験なんて話を聞いた覚えが……あった。
 そういえば総務部が何か言っていた気がする。仕事に集中していて何も聞いていなかったし、どうせ高校生たちの相手はしないからだ。

「私は多分関わらないと思うけどね」
「そうなんですね。じゃあ他の人に聞いてみます」
「何を?」
「あの人って、勤務中もビール飲んでるんですか?」
「うわ、君、嫌な人間だね」
「よく言われます」

 とても良い笑顔だった。
 嫌な人間、と言われるのがそんなに嬉しいのだろうか。変な子。

「本当は嫌だったんですよ、職場体験。面倒だし、テキトーに第一希望を書いただけだし」
「それを私に言うんだ」
「でもお姉さんを見て、興味がわきました」

 悪い気はしない。
 私がきっかけで興味を持ってくれるのは嬉しい。

「その会社、結構有名ですよね。それなのに、お姉さんみたいな人も入社できるなんて、どんなところなのか興味があります」
「嬉しくない」

 ちょっとビールを飲んでいただけなのに。

「明日、楽しみにしてます」

 高校生の顔には、心底楽しみだと書いてあった。
 そんな表情をされたら、何も言えない。

「それじゃあ、また明日」

 立ち去る後ろ姿は小さくなり、やがて視界から消えた。
 雨が上がったかのように、私の心も晴れやかになった。
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