序章

文字数 2,531文字

井上和哉(いのうえかずや)はなんとなくで進学した大学で
特にやりたいことも見つからないまま就職もせずにフリーターとなった
生きるためには働かなければならず
コンビニ店員に製造業、アパレル販売にコールセンターに引っ越し業者などなど
多岐に渡ったがいずれも長続きせず
一年も経たずに辞めるといったことを繰り返していた
現在は事務職についてデータ入力をしている
通算十五件目となるアルバイトであった

「お疲れさまでしたぁ」

今日のノルマが終わり、目尻を抑えてから大きく伸びをする
パソコン画面を長時間見続けていたせいか眼精疲労が酷い
肉体を使わない仕事だから楽だろうと
高を括っていたら思いの外辛かった
これは最速とまではいかずとも
辞める速度としては五本の指に入るかもしれないなと予感する
和哉は飽きっぽい上に根性がなかった

電車に乗って帰路に就く
最寄り駅に降り立ち、コンビニで買い物をしてから                
アパートに帰ると電子レンジで弁当を温めた         
いざ食べようとまさに割箸をご飯に突っ込んだ時だ

インターホンのチャイムが鳴り響いた
なんというタイミングの悪さ
どうせセールスかなにかだろうと無視しようとしたが
チャイムを一定間隔で押しまくって
意地でもこちらを呼び出そうという意志を感じる

仕方なく、椅子から立ち上がり玄関へと向かった
モニターがあればよかったのだが
この貧乏アパートにそんな便利なものはない

扉を開けると随分と小柄な女性が玄関先に立っていた
全身真っ白の眩いワンピースに身を包み
月を模った宝石が飾られたネックレスを首から下げられていた
化粧っけはあまりなく年齢は分からないが
少なくとも顔は幼くみえ所謂美少女と言って良い造詣をしていて
満面の笑みを浮かべている
光の輪も空高く飛ぶための純白の翼もなかったが
一瞬和哉は天使が来たと本気で思った

「こんばんわ!」

凄い声量だった。元気が服を着て歩いている
そんな妙な感想を抱く

「なんですかこんな時間に」

「私、こーいうものです」

さっと名刺を渡される
紙面には宗教法人「希神会(きしんかい)
救済者「鬼灯葵(ほおずきあおい)」と
快晴の夏空に燦然と輝く太陽を背景に金文字で書かれていた

「すいませんが、こういうのは・・・」

早々に扉を閉めて話を打ち切ろうとすると
その隙間に素早く脚を突っ込む。表情は変わらず笑顔のままだ

「ちょ、ちょっと!」

「お話だけでも!せめて!」

勢いに負けた。葵の顔が和哉の好みだったということも多分に含まれる

「僕は宗教なんか興味ありません」

「希神会は有象無象の怪しい宗教などではありませんよー
神のご加護を受けた、由緒正しい宗教なんです!
私達は一人一人の人間に寄り添って、悩みを聞き、救う。それが使命なのです」

だからそれこそが胡散臭いというのだ

「僕には必要ありません」

「そうですか?私には貴方の心の隙間がはっきりと見えますよ」

「隙間って・・・」

実際、和哉は日々を満たされずに悶々としながら生きていた
フリーターになってからはそれがより顕著になった
未来を見据えず、明日を生きるためだけに生きる
そんな自分に嫌気がさしたが、かといってなんとか出来る
ポテンシャルなんて持っていなかった。和哉は頭が悪かった

「それに私は別に貴方に入信してほしいわけではないんですよ」

「はい?」

どうにも要領を得ない、ならばどうして
宗教家がこんな夜に独身男の部屋になど来たのか

「私が彼女になってあげますよ」

「は?」

全くの唐突の。なんの情緒もへったくれもない告白だった

「彼女、いたことないんでしょう?」

「な、なぜそれを」

「勘ですよただの勘」

確かに和哉は生まれてこの方彼女というものがいたことはない
極度の引っ込み思案な上に顔がお世辞にも良いとはいえずモテる要素がなかった
貧乏なバイト生活に堕ちた現在はより彼女という存在が縁遠いものとなった
なぜわかったのか。単なる当てずっぽうか
といってもきっと和哉を人目みただけで想像には難くはないかもしれないが

「急にそういわれましても」

「私じゃ不満・・・ですか?」

上目遣いでこちらを見る、可愛い。それはちょっと卑怯だと思う

「そういうわけじゃ・・・ないですけど」

宗教法人に勤める人間が自分の彼女になると申し出ている
一体どんなサービスだよと突っ込みたくなるが、実際に活動しているのだからしょうがない        

「目的は、なんですか?」
 
やはり金か?彼女という立場を利用して法外な値段を要求するつもりか?                                 
だとすれば狙う人間を間違っている。こちとら万年バイトの極貧生活である

「井上さんのような将来性もなく、一人寂しく生きている人間に
無償の愛の手を差し伸べる。それが我々です・・・どうしました?」

「いえ・・・なんにも」

あまりにもはっきりと言われたこと。図星であったことが原因でなんにもいえなかった

「とりあえず連絡先、交換しましょうか」

さっと真っ白なスマートフォンを取り出し、和哉にもそれを促す
一瞬躊躇するが、葵の有無を言わせない雰囲気に負けて
同じようにポケットからスマートフォンを取り出して
お互いのLINEを交換する

「これでよしっと、今日はもう遅いのでこれで帰ります、またすぐ会いましょう」

嵐のようにやって来て、嵐のように去っていった
最後の最後まで終始笑顔を絶やさずにいたところは
流石宗教家といったところかと変に感心する

バイト関係以外で女性とLINE交換したのは初めてである
葵のアイコンはなぜか自身の顔をデフォルメしたイラストで書かれていた
可愛らしくて少しニヤニヤしたが                  
これで彼氏、彼女の関係になったとは思ってはいないし
そもそも返答はしていない
葵から一方的に言い寄られただけだ
連絡は昨日の今日ですぐに来た
和哉の次の休日を聞くとその日にさっそくデートの予定を入れてきた      

当然デートなど生まれてこの方したことのない和哉なので
なにをどうしたらいいかなどわからなかったが
とりあえず身なりだけは整えて(ちゃんとした美容室など久しぶりに利用した)
洋服箪笥にある中で一番マシな服を用意した
それ以外は当日の成り行きに任せることにした
歳を重ねるごとに難しいことを考えるのが億劫になりつつあった
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